咲くために、きみを
父の声はいつも乾いていた。
兄の背は高く、言葉は整っていた。
母は優しかったけれど、誰にでも同じ笑顔を向けた。
その中で育った僕は、役目のない駒のように、ただそこにいた。
貴族の家に生まれて、義務として知識と礼儀作法を叩き込まれ、当主になるのは兄であり、僕には“自由”という名の放置が与えられた。誰も期待しない代わりに、誰も責任を与えなかった。それは時に楽で、そして同時に、息苦しいことだった。
静かな空気の中で、僕だけが何かを探していた。
人の形をした透明な空白のような自分を、埋めてくれる“何か”を。
そうして、ある日、僕は“外”に出た。
森は屋敷の裏手から歩いて二十分ほどの場所にある。
村人の間では「魔物の森」と呼ばれ、言い伝えと禁忌が折り重なるようにして、近づくことすら禁じられていた。
それでも僕はそこに足を踏み入れた。
何かを壊したかったのかもしれない。
あるいは、何かに壊されたかったのかもしれない。
森の中は、屋敷の庭とはまるで異なる“時間”が流れていた。
木々は高く、太陽の光さえ地面には届かず、空気は湿っていた。
苔むした地面はふかふかとして、足音が吸い込まれる。
風が通ると葉が囁き、まるで森全体が言葉を話しているように思えた。
僕はただ歩いた。
どこへ向かうでもなく、どこにも行けるわけでもなく。
風が指をすり抜けるたびに、“ここでは自分の輪郭がある”ような錯覚を覚えた。
そして、ふとした瞬間だった。
何かが視界の端に揺れた。
風ではない。
枝でも、葉でもない。
それは“誰か”だった。
彼女は、立っていた。
一本の白木の前に、まるでそこに根付くように。
身長は僕と同じくらい。細くて、すらりとしていて、人のような輪郭をしていた。
けれどその肌は、木の幹のように滑らかで、光に濡れた緑がかすかに光っていた。
肩から腰にかけて、蔦が絡みつき、脚元には小さな白い花が咲いていた。
そして何より、額のあたりから咲き誇る真紅のバラ――それが、彼女の象徴だった。
僕はその場に立ち尽くした。
逃げようと思った。けれど、足が動かなかった。
それは恐怖ではなかった。もっと別の、名前のつかない感情。
ただその場から目を逸らせなかった。
彼女が、ゆっくりとこちらを見た。
その瞳は、深い湖の底のような黒。
何も映さないようでいて、すべてを見透かしているような――そんな眼差しだった。
そして、彼女の唇が、ふるりと動いた。
「……にんげん?」
その声は、森の風音と溶けるように、やわらかく、低く響いた。
「……きみは……?」
僕は思わず問い返していた。言葉は喉を滑り、意識するより早く口から漏れていた。
彼女は少し首をかしげ、考えるような仕草を見せたあと、静かに首を振った。
「……なまえ、ない。もらったこと、ないから」
その声が、あまりに人間らしくて。けれど、人間ではあり得ないほど澄んでいて。
僕はほんの少し、息を吸いすぎた。
沈黙が落ちた。
葉の音が優しく頭上を通り過ぎる。彼女は風を受けながら、じっとこちらを見ていた。動かず、揺れず、まるで呼吸すらしていないように。
僕はとっさに、自分の偽名を名乗った。
「僕は、エル。君は……そうだな、名前がないなら……“ルゥ”って、どう?」
彼女の瞳がわずかに見開かれる。
そして次の瞬間、彼女は微笑んだ。
笑った、と確信できるような“人間の表情”だった。
「……ルゥ。わたし、ルゥ」
その名を口にする彼女の声が、少しだけ震えていた気がした。
その震えが嬉しさからくるものだったと、勝手に思いたかった。
それからの時間は、どれくらいだっただろう。
言葉を交わすたびに、何かがこちらに引き寄せられるような感覚があった。
彼女は、森のことをたくさん話した。
「木は朝より夕方が好き」「雨が降ると土が甘くなる」
ひとつひとつの言葉が詩のようで、彼女の中にある“世界”のかたちを覗き見ているようだった。
そして、彼女の頭に咲いたバラが風に揺れるたび、僕は何度も目を奪われた。
その花が、あまりに鮮やかで、あまりに危うい。
美しいという言葉では足りない、なにか本質的な感情を呼び起こす色だった。
彼女はずっと微笑んでいた。
まるで、ずっと誰かを待っていたかのように。
まるで、ようやく話し相手を見つけた子どものように。
そして僕は――たぶん、その日から、森のことばかり考えるようになった。
森の入り口に差しかかるたび、胸がふわりと浮くような感覚になる。
あの湿った緑の匂い、土の重さ、草の手触り、そして――彼女がいる気配。
それらのすべてが、もう僕にとって“日常”になりかけていた。
今日もまた、あの窪地に向かう。
陽光が斑に差し込む木洩れ日をたどって、僕はいつもの道を進む。
彼女は、先に来ていた。
地面にしゃがみ、指先で花の茎をなぞっている。赤く開いたその花は、少しだけ揺れていた。風はなかった。たぶん、彼女の手がそうさせていた。
「こんにちは」
彼女は顔を上げ、僕を見ると、ゆっくりと笑った。
その笑みには、少しだけ光が宿っていた。
「エル、きょうも、来てくれた」
「うん。君に見せたい花があったから」
僕は小さな包みをほどいて、白い百合の花を差し出した。
温室からこっそり切ってきた一輪。花弁に朝の露がまだ少し残っていた。
彼女は百合をそっと受け取ると、まるで宝物のように両手で包んだ。
「すごい、白いね。……あまい匂い」
「気に入った?」
彼女はこくんと頷いた。
それだけの仕草に、なぜだか胸の奥が熱くなる。
彼女の周りには、いつも花が咲いていた。
彼女が触れると咲き、離れると閉じる――そんなふうに見えることもあった。
ある日、僕は聞いてみた。
「どうして、そんなに花が好きなの?」
彼女は少しだけ黙ってから、答えた。
「きれいだから。……咲くとき、誰にもじゃまされないから。咲くだけで、いいから」
それは、彼女の世界の言葉だった。
誰かに何かを求められることのない存在。
ただ、在ることを許されている美しさ。
僕はそれを羨ましいと思った。
そして同時に、そう言う彼女の姿が、どこか――儚く、愛おしく感じられた。
「花にはね、意味があるんだ」
「いみ?」
「人がね、気持ちを伝えるために、花に“言葉”を乗せたの。たとえば、この百合には、“純潔”とか、“尊厳”って意味があるんだよ」
彼女は百合を見つめながら、ゆっくりと言葉をなぞった。
「じゅんけつ……そんげん……。よくわからないけど、でも、いい音」
「赤いバラも、意味があるよ。……“情熱”とか、“あなたを愛しています”とか」
そのとき、彼女の視線がすっと僕に向いた。
瞳の奥に何かが揺れていた。けれどそれは、感情ではなく、光のようだった。
「じゃあ、わたしの花も、“愛してる”?」
その問いは、あまりにも無垢だった。
からかいでもなければ、試すようでもない。
ただ、言葉の意味をそのままなぞって、投げ返してきただけ。
「うん……」
僕は思わず、肯定してしまった。
嘘ではなかった。けれど、真実とも少し違っていた。
それはまだ“愛”ではなく、“惹かれ”だったから。
彼女は静かに微笑み、そのまま僕の隣に腰を下ろした。
肩が少し触れる。
すぐ横で、彼女の体温がかすかに伝わってくる。
どこか湿った、けれど心地よい温もりだった。
草の匂いと混じった、やさしい香りがした。
彼女は手を伸ばしてきた。
蔦に包まれた指先が、そっと僕の指に触れる。
「エル、て、ふしぎ。やわらかい。あったかい」
「ルゥも。ちょっと、ひんやりしてるけど……気持ちいい」
そのやり取りはたったそれだけだったけれど、僕の胸の中ではずっと何かが鳴り響いていた。
翌日も、その次の日も、僕は森へ向かった。
彼女と話すこと、彼女に花を教えること。
それが僕の“生活”の一部になっていた。
気づけば、屋敷のことはもうあまり思い出さなくなっていた。
父の声も、兄の背も、母の視線も――もう遠い別の世界のものだった。
ある日、彼女が僕に聞いた。
「エルは、なんで、わたしに花のこと、いっぱい教えてくれるの?」
僕は少しだけ考えてから、答えた。
「君に似てるから、かな。咲いてる姿を見るだけで、綺麗だと思えるから。……あと、もっと知ってほしいって思った」
「わたしのこと?」
「……うん」
言葉にして初めて、自分の中で形になった感情だった。
それが恋なのか、執着なのか、まだはっきりとは分からなかった。
でも、彼女の存在が自分の中でどれほど大きくなっていたかは、痛いほど自覚していた。
「わたし、もらったこと、ないから」
「なにを?」
「名前も、花も、だれかの気持ちも。……エルが、はじめて」
その声は、どこか透明だった。
風が抜けるように、森の木々が静かにその言葉を抱いていた。
「わたし、咲いてていいのかな?」
「咲いてていいよ。ずっと咲いててほしい」
そのとき、彼女の頭のバラが、ふわりと揺れた。
陽を受けて、血のように鮮やかな赤。
けれど不思議と、怖さはなかった。ただ、美しいと思った。
その夜、眠りにつく前に、僕は初めて“恋”という言葉を考えた。
それが彼女に向けられる感情として正しいのか、誰にも訊くことはできなかった。
でも、誰に言われるまでもなく、僕の心は確かに動いていた。
彼女の笑顔を思い出すたびに、胸が温かくなった。
森に行かない日など、もう考えられなかった。
彼女の声、指先、頭の花、目の奥の光――
それらが全部、僕にとっての“世界”になっていた。
風が秋めいてきたころ、彼女の頭のバラは一段と色を深めていた。
濃く、重たく、まるで果実のような深紅。
森の空気は澄み、葉の色がほんのりと金を帯びていく。
けれど彼女の傍だけは、まるで季節が立ち止まっているようだった。
その日、彼女は木の根元にしゃがみ込んでいた。
手のひらには、小さな羽が一枚。
近づいて声をかけると、彼女はふとこちらを見た。
「とんでたの、落ちてた。……かるくて、でも、もう動かない」
それは、たぶん鳥の羽だった。
どこかで抜け落ちたのだろう。死んだ鳥のものではない。
けれど、彼女は“静止している”ということを、少し不思議そうに眺めていた。
「動かないと、もう“もの”になるんだね。音もしないし」
「……うん、そうだね。生きてる時と、死んでる時は、そういうふうに分けてるよ、人は」
彼女はその言葉に、ふっと小さく頷いた。
意味を完全に理解しているわけではなさそうだった。けれど、それでも覚えておこうとしていた。
それからというもの、彼女の“学び”はさらに深くなっていった。
言葉をたくさん覚えた。花の名前も、感情を示す表現も。
たとえば「淋しい」「嬉しい」「ときめく」「忘れたくない」――そんな言葉を、彼女はひとつひとつ口に出しながら味わうように繰り返していた。
「ねえ、“ときめく”って、どういう気持ち?」
ある日そう聞かれた僕は、少しだけ言葉に詰まった。
「……たぶん、胸の中がきゅっとなるような感じ。誰かのことを思うと、心臓が跳ねて、身体が熱くなる」
「そっか。じゃあ、エルの声、わたし“ときめく”かも」
照れたような笑みも、冗談めいた仕草もなく、彼女は真っ直ぐにそう言った。
その素直さが、どこかくすぐったかった。
恋は、はっきりと形をとって僕の中にあった。
彼女に触れるたびに、笑い合うたびに、何かが確かに近づいていくのを感じていた。
けれどその一方で、時折、彼女の言葉の奥に、少しだけ“ずれ”のようなものを感じることがあった。
「花って、おいしいの?」
「“あいしてる”って、どうやって使うの?」
「キスって、からだに入る?」
そんな言葉たちは、どれも子どものような無垢さに包まれていた。
だから、違和感を感じても、それは“学びの過程”だと自分に言い聞かせた。
彼女はまだ知らないだけで、これから知っていくのだと。
僕がその手助けをしていけばいいのだと。
ある夜、彼女が僕に言った。
「ねえ、“だいじ”って、ぜんぶ持っててもいいこと?」
「ん?」
「たとえば、“エル”を全部、わたしの中に入れるの。声も、目も、心も」
その言葉には、悪意も冗談もなかった。
ただ、彼女なりの“理解”だった。
僕は一瞬だけ戸惑い、それから笑った。
「……一度に全部じゃなくていいよ。少しずつで」
彼女は小さく笑った。
それが何を意味していたのか、当時の僕には分からなかった。
森の奥に、彼女が新しく咲かせた花があった。
彼女はその前で僕を立たせると、「この花、どう思う?」と聞いてきた。
深紅に紫を混ぜたような、見る角度によって色が変わる不思議な花。
花弁は幾重にも重なり、中心が透けるように光っていた。
「……すごく綺麗。少し、変わった色だね」
「エルに“ふれて”から、咲いたの」
彼女はそう言って、胸に手を当てた。
その動きに、僕の鼓動が呼応したように感じた。
「いちばん、きれいに咲いた」
その声には、嬉しさと、どこか“完結した”ような響きがあった。
僕は、胸の奥で、微かにざわめきを覚えた。
けれどそれもすぐに流れていった。彼女が笑うと、世界が平らに戻るような気がした。
森を出る夕暮れ。彼女がぽつりと囁いた。
「エルの中、きれいだといいな」
その意味は分からなかった。
でも、不思議と、胸が温かくなった。
彼女にとって、僕の存在が“特別”になったのだと、そう信じていた。
その日、森はよく晴れていた。
夏が遠ざかり、秋が柔らかに地面を撫でていた。
風はほとんどなく、木洩れ日が斑に降り注いでいる。いつもと変わらない、静かで穏やかな森。
でも、僕の中には、どこか落ち着かないものがあった。
彼女に会えるのが嬉しい。けれど、胸の奥に小さなざらつきが残っていた。
それが何なのか分からなかった。言葉にもならず、形にもならず、ただぼんやりとした影のように、感情の端に貼り付いていた。
彼女は、あの場所で待っていた。
陽のよく当たる、蔦と苔に覆われた小さな空間。
まるで舞台のように空が開け、光が注ぐそこに、彼女は佇んでいた。
頭の赤いバラは、見たことのないほど深く咲き誇っていた。
血のように濃く、艶やかで、どこか官能的なまでに美しい。
彼女は振り返り、微笑んだ。
「来てくれて、うれしい」
その一言に、胸がきゅっと締めつけられた。
それは、いつもと同じ優しさのはずだったのに。
今日はなぜか、ほんの少しだけ“終わり”の匂いがした。
彼女は僕の手を取った。
その手はいつもより少しだけ冷たくて、でも温度ではない“熱”が指先に宿っていた。
「今日はね、エルに見せたいものがあるの」
そう言って、彼女は僕を連れて森のさらに奥へと歩き出した。
見たことのない道だった。けれど、不思議と怖くはなかった。
彼女が手を引いてくれる限り、僕はどこまでも行けると思えた。
しばらく歩くと、森が開けた。
そこは、彼女の“庭”だった。
地面は絨毯のように花で覆われていた。色とりどりの花が咲き乱れ、真ん中には一本の白い木がそびえていた。
その根元に、彼女は僕を導いた。
「ここで、いちばん咲くの」
彼女は木の幹に手を当てて、目を細めた。
まるで記憶に触れるような、やさしい仕草だった。
僕は言葉を失っていた。
あまりに美しい景色だったから。
そして、その中心にいる彼女が、それ以上に美しかったから。
彼女が振り向いて、僕を見つめた。
「エル、ねえ――好きって、こういうこと?」
僕は返事をしようとした。けれど、言葉が出なかった。
それがあまりに“完結した問い”だったから。
彼女は僕の胸に手を添えた。
ゆっくりと、丁寧に、心臓の鼓動を感じるように。
「ぽこぽこ、今日も鳴ってるね。……やっぱり、きれい」
手が、すこしずつ沈んでいく感触があった。
いや、それは気のせいだったのかもしれない。
彼女の指は確かに柔らかくて、温かくて、優しかったのに――
「ぜんぶ、ありがとう」
彼女の声は、森の風のようにやさしかった。
「いっぱい、教えてくれた。いっぱい、見せてくれた。……咲いたの、ぜんぶ、エルのおかげ」
彼女の目に浮かぶ涙は、花の露のようだった。
それが悲しみなのか、感謝なのか、僕には分からなかった。
「ねえ、さいごに、いい?」
「……ルゥ?」
僕の問いかけに、彼女は首を傾け、そして微笑んだ。
何も変わらない、あの笑顔。
けれどその直後、唇から零れた言葉は、あまりにも静かだった。
「たべて、いい?」
その言葉の意味が理解できたときには、身体が動かなかった。
痛みはなかった。ただ、世界が反転するような感覚だけがあった。
身体の内側から、何かが抜けていくような。
呼吸が、遠ざかっていくような。
彼女は僕を抱きしめていた。
その手は優しく、決して力を込めているわけではなかった。
それなのに、僕の足は地から離れ、視界が白く滲んでいった。
「ありがとう、エル。だいじにするね」
耳元で、そんな声がした。
それはまるで、恋人に囁く愛の言葉のようで――
まるで、子守唄のようで――
最後に見たのは、彼女の頭に咲いたバラだった。
真紅の花弁が、陽に透けて光っていた。
それは今まででいちばん、美しかった。
そして僕は、光の中に溶けていった。
◇
風が吹く。
森は、変わらずそこにある。
赤いバラは、変わらず咲いている。
その下で、ひとりの少女が、そっと目を閉じている。
「また、会えたらいいな」
誰にともなく、そう呟いた声が、木々のあいだを抜けていった。
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