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制服に初めて袖を通した日に・雪の結晶を・色彩のない街で・羊皮紙に書き写しました。


 「まあ、また本食いが触手を動かして紙を食っていますわ」

 その雑言を口走ったお上品な形のくちびるの持ち主を取り巻いてくすりくすりと笑い声が起きる。顔立ちのひときわ整った汚い口を、取り巻いている者たちは崇拝しているらしい。確かにここでは雑言を浴びせられた少女は、場違いな存在であると自覚があった。

 この場は、正当な血統を持つ子女だけが入学できる由緒正しき全寮制の女学園である。彼女らは美しさを磨くために華道や芸事を極め、また房中術さえも授業が行われ、男をよろこばせる淑女になるべく存在する学園である。彼女らは勉学は特に推奨されないが、当然の教養は必要で、また教師のためだろうか、国家の厄介払いか、この国でもっとも蔵書を抱える図書館があった。国家は先進国たる顔を、諸外国にしなければならないので蔵書を揃えなくてはならない。だが新たに設備を整えるのを、軍部が支配する国家の中枢は嫌ったらしく、この女学園の図書館に揃えられている。場違いな少女がこの学園に入った目的は、その蔵書だった。

 だから日がな図書館に入り浸り、気に入った本はめったに学園の生徒は使わない貸借権を使い、寮に持って帰っては目を皿のようにして読みあさっていた。その行為を女が勉学などと、正統派の女学生たちは彼女を批判しているのである。読者諸君にはぴんと来ない文化背景であるが、田山花袋の布団あたりを参考にするのがよかろう、女性が文明の発展と知恵と旧式を行き来しなければならない事が分かる。だが本好きの少女がいる世界では、旧式だけがこの世界の規則となっていた。


 「ええ。女が勉強なんて、でしょう? でもとっても面白いのよ!きっとお読みになって」

 少女はいつも雑言に対して淑女らしくにっこりと微笑んで、まるで天真爛漫な口振りをする。だがその振る舞いは、淑女たれという女学園の規則だからそれに則っているだけであり、少女の微笑が仮面となって本心を隠していると、雑言の少女も気付いている。事態を大事にしないための、女同士の刃の交わし方である。男はその刃を見せびらかして時に互いを切りつけ合うらしいと聞いて、本好きの少女は面白そうだと思っていた。だが言葉には出さない。何故ならば彼女は淑女であるからだ。

 「あなたたち、そろそろお止めなさい。彼女が本を好きであっても、その本が誰かを傷付けることは無くてよ」

 そうしていると、寮長たる少女が止めに入る。寮長は王族の血を継ぐ者である。だからこそ、その容姿も振る舞いもすべてが一際美しい。

 光に透けるような白い肌、ほほには薔薇色が浮かんで、唇も瞳もまるで精巧に作られたように一分の狂いも無い。それだけでなく、その指先は天女のようにやわらかに動き、どこを取っても美少女であった。だから、取り巻きがいる雑言の彼女の美しさは霞んでしまうようで、それにひどく尊厳を傷付けられた顔で、雑言の少女はその場を少々乱暴に足音を立てて去っていった。取り巻きたちが慌てながら追い掛けていく。

 寮の談話室にあるソファーを陣取っていた本好きの少女は、寮長に恭しく頭を下げた。


 「いつも申し訳ありません、寮長」

 「構いませんわ、それより、あの方達の言葉で傷付いてはいなくて?」

 「お気遣い傷み入ります、私はなんともございませんので。それより寮長に、その、何か・・・ご迷惑はおかけしてませんか」

 「それこそ大丈夫よ」

 寮長は微笑む。

 美しいその姿は、宗教画にある天使そのものだ。本好きの少女の中では、寮長は聖母ではダメだった。聖母は子供を産んでいるし人間だ、寮長の美しさを人間で例えてしまうのはおこがましいとさえ考えている。当然ながら寮長は崇拝する者も多かった。だが本好きの少女は、美しさに溜息を吐くことはあるが、それでも本の文字の中にある自分の想像力を超えた”未知”の方に心を寄せていたので、崇拝とまではいかなかった。

 だがそれを本人の前には出さないようにしている。地上に降り立つ天使に対して、人間がする行いは膝を折って祈り、その身もこころも献身することだ。だから寮長に深々とお辞儀をし、本好きの少女は本を大層大事に抱えると、誰の目にも付かないようにと自室へと戻っていった。過去に借りた本を破られるなどの嫌がらせを受けた事があるのだ。その際も寮長が進言し、本好きの少女はお咎めなしになった。


 本好きの少女は授業はきちんと受け、淑女たれとなるべきこの学校の成績は中の上だ。知恵があるからといって、教師に楯突くこともない。ただ本が好きで、その学んだ内容を紙に写して自分だけの知識の結晶を作る事に注力を注いでいるだけである。大層な変わり者であった。女性特有の、集団に属していることへの安心感と責任感がまったく欠如しているので、孤独を好む彼女が不満や不服の捌け口にされるのは、本を読んでいてなんとなく理解出来た。だからますます、この世の事を教えてくれる本に彼女は夢中になり、他の生徒を解剖するかのような目で見る事に周囲は遠ざかった。それが通り過ぎる通行人程度なら良かったのだが、全寮制の学園では異端をきわめて排除し、同じでなければならないという強迫性が育まれる。本好きの少女は孤立をものともしないが、それで寮長の迷惑に繋がるのであれば友人くらい作ってもいいと考えていた。

 寮長とは友人にはならない。彼女は天使であるから、私と同じ目線になることなど望めないのだ。それに寮長と友人であれば、後ろ盾を作ったとみなされて、より集団行動を好む彼女らの尊厳を踏みにじることになるだろう。だから本好きの少女は、本日も無事である本にこっそりと口づけをして、もう一度胸に抱きしめた。それが彼女の恋人であるかのように。子供特有の最大限の性欲が発散されるまで抱きしめると、落ち着いた彼女は、ベッド脇に本を置いて眠りに就くのだった。


 この学園には教師である若い男性を好き合う以外にあまりに娯楽が少ない。楽器を演奏したり、花を活け、赤子のおくるみを縫って、ベッドの上のマナーを学ぶ。その繰り返しで型どおりの淑女が出て、学校を出ればどこかの良家に嫁いでいく。天使の寮長も誰かに嫁いでいってしまうのだろうか、とふと授業中に本好きの少女は気付いてしまった。誰とも分からない男に、天使が汚される。当たり前である人生の通過点を思い描くと、本好きの少女は少しだけ心の泉が汚されたような気がしてしまった。こういう時は本を読むに限るので、授業を片方の耳で聞きながらも次読む本のタイトルを思い出していた。

 本好きの少女は、生まれつき本に関して特殊な能力を持っていた。本棚を一目見ただけで記憶出来るのだ。だからこの棚の三番目の列のここまで読んだ、次のタイトルはこうだと思い出せる。だがこの世界では今一つ発揮されない特殊能力である。淑女は本棚を覚える必要などないのだから。


 「それは一体、なにを書き写しておられるの?」

 入学してから真っ先に天使に話しかけられた記憶を、片方の頭で思い出す。片方は授業を聞いているが、片方は時間旅行によって過去へと戻っていた。片方の頭は鮮明に、脚色さえして少女を入学当初に五感を連れて行った。だから授業を聞く頭は感覚が鈍くなって、その頭と繋がっている手の先に感覚はない。もう片方の頭の手は、記憶の中で羊皮紙に書き写している。

 「結晶です。雪の」

 「あら、雪というのはそんな形をしているのね。私知らなかった」

 天使は、知らないことは惜しげもなく知らないと言える人だった。そして興味を持ってくれる人だった。その慈悲と慈愛は天から降り注ぐ陽光そのもので、本好きの少女に優しかった。その天使はその時、自分と同い年だったはずだ。そして当然のように若くして寮長に任命された。本好きの少女の頭の奥底でちりっとした違和感がある。だが瞬きをすると治った。目が疲れただけだったので、少女は時間旅行を終えて授業を受けることにした。


 「寮長も、どこかの王族の方とご結婚なさるんですね」

 この寮を出たら大抵の淑女はそうする。本好きの少女は相変わらず談話室の片隅で読書に勤しんでいて、その彼女に近寄ってきた天使にそう告げてしまった。少しの嫉妬心のような羨みのようなものが混じった声音は、どこか濁っている。自分の鼓膜にもそう聞こえたので、天使に気を遣わせたと思って本好きの少女は顔を上げた。天使は笑ってくれている。

 「ええ、そうね。そういうものだもの」

 「申し訳ありません。どこか遠くに行かれるのが、少し、さびしく思ってしまいました。無礼をお許しください」

 「構わないわ。気になさらないで」

 「ありがとうございます」

 本好きの少女は頭を下げ、上げようとした時に視界に入ったものにぎょっとした。談話室の窓から入り込む月光に照らされて、天使の影が床へ伸びている。その影が何故か見慣れた伸びきった人間の姿ではなく、角や翼がある異形に見えたのだ。だから思わず床を凝視してしまった。そしておそるおそる顔を上げる。

 天使がそこにいた。だがいつの間にか、その肌はそのままだった、だがその背からは黒い翼が生えて人ならざる二本の角がまるで押し合いへし合いするように絡まっていて、左右の頭に一つずつ生えている。天使が悪魔になっていた。

 「寮、長」

 「やっと気付いてくれましたのね」

 寮長がいつもの笑顔でにっこりと笑う。白い肌に薔薇色のほほ、透き通るプラチナブロンドの髪に、長いまつげに彩られたまあるい大きな茶色の瞳。どれも彼女であるものばかりのものがその顔の中にあって、それが彼女であると間違いなく自分に教えてくれる。それなのに人ならざる物が追加されていて、どうしてだか足が竦んで、恐怖にこころが押しつぶされている。

 本好きの少女は、あれほど本から得られる”未知”を楽しんでいたのに、いざ目の前に未知が現れるとどうしていいのか分からないでいる。未知との出会いを本を書き記した人間は、自分よりずっと剛胆なのだと今更ながらに自分との差に気付いた。

 一介の読者だった彼女は、いつの間にか自身が著者に近い存在だと錯覚するほどに大勢の著者の言葉を読み込んでいた。だからこその無知の傲慢さが、今粉々に砕け散っている。

 「な、んでですか」

 「そうですわね? あなたを見込んでみたのですわ。この世界ってつまらないでしょう?私みたいな悪魔は、本当に退屈で退屈で」

 にんまりと天使の顔で笑って、本好きの少女の顎を掴んで自分の方に向かせる。天使の瞳はいつも通りだったが、隠されることのない悪意の色が滲んでいた。


 「この子もそれを望んでいたようで、私がいただきましたの。とぉーってもいい子だったから、ホンキになっちゃって」

 「何を、するんですか・・・?」

 「そうね、手始めに。この学園を壊しにいきませんこと?」

 貴方なら言う事聞いてくれそうですものと天使だった悪魔が言う。悪魔の言葉をなんとかかみ砕くと、彼女はいつからか、望んで悪魔に身を差し出してしまったのだろうか。それが何時なのか、どうしてなのか、と本好きの彼女は興味を持った。本の海を歩く時と同じような好奇心と文字になった人間の感情を征服するあの心地良さが、淑女たらしめない欲求が彼女のこころを支配する。


 「さあ一緒に行きましょう? 行かないのなら、八つ裂きですけどね」

 「分かりました。・・・まだ。生きていたいので」

 「そういう物わかりがいい子だと知ってたわ。だって。ずっと貴方を見ていたんですもの、この子」

 天使が? あの誰にでも優しい天使が?

 本好きの少女のこころは、寮長という対象物にすっかり魅入られていた。悪魔への恐怖や興味を乗り越えるほどに。

 「じゃあ、これからよろしくお願いしますわね」


 天使か悪魔、どちらかが笑った。本好きの少女も少しひきつりながらだが、笑い返したのだった。きっとこれまでの知恵がこれからの私を救ってくれるのだろうと、少々の楽観と、この世界で女性に認められていない武器を必死の思いで抱きしめている。


原典:一行作家

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