デジタルミーム その五
真っ赤に染まった手を洗う
何もしていないのに、鉄の匂いに溺れる。
何もしていないから、その匂いに慣れていく。
それでも男は微かに動きを見せ、絡められた体に力は無さそうだが油断はできない。警察機関に電話を入れ、学校側にも応援を呼ぶ。その後、被害者の女性の方へと足を勧めたのだが。
その現場は凄惨足る光景で、首筋と背中から流れ続けるそれは、素人目から見ても重症だ。止血処置をしてはいるが、流れ続けるそれは縫合などの処置が必要だろう。針や糸はもちろん持っていないし、私は医者ではない、タオルでどうにか代用をしているが、溢れ出る血液は止まりそうにない。
鋭い何かに裂かれたのだろう。
血管は、肉は切り裂かれて現れていた。
放心状態の彼は抵抗する事は無く、何か単語のような言葉を並べている。女性の首元を押さえながら、救急車の手配を片手間に済ませ、其の言葉に耳を傾けた。
「動け動け動け動け動け」
目を見開き、唾液を飛ばしながら、成人男性はボソボソと言葉を続ける。
耳元にはイヤホンが見えて、何か音楽らしきものを聴いているのが分かる。ただ、何を聞いているのか分からない。耳元からは音楽の気配は無く、ただ、そのコードは何処にも繋がっていない。抑えながら男の耳元からイヤホンを取った詩奈が、その先にあるはずの機器が無いと呟いた。
スマホであれレコード機器であれ。彼はそういった持ち物を持ち合わせていない。
男はその言葉を数分続けると、ふと言葉を無くす。
そして、糸が切れた人形のように、グッタリと首を垂れた。
その顔は、青白く生気が無い。
不気味なほどに、それは死人に似ていた。
「……とりあえず止血中。生きてるけど、分かんない」
「アオ。タオルもう一個ある?」
「縛る?」
「それ用」
「了解」
カバンからもう一つのタオルを取り出した。
受け取った詩奈は手慣れた動作で手首を縛り上げ、その上に座る。そして自身のカバンからスマホを取り出すと何処かの電話をかけ、無関心の人々に少しばかり目線を投げた。
「どれくらいで来る?」
「十分ぐらいだと思うけど」
「それじゃ、持ちそうだね」
「事後処理どうするの?」
「警察の方に任せる。……って方がいいんだけと、書類めんどくさいから後でやりたいレベルだしなぁ」
「お前がやった事だから償いなさい」
「俺が犯人みたいに言わないでください」
冗談交じりのそんな事を言いながら、僕は被害女性に目線を合わせた。意識は見られるが、意識レベルは確かに低下している。多量の出血によるものだとはすぐに理解できる。
「救急車呼びました。ちょっと待ってくださいね」
「……淡々としすぎでしょ」
真っ赤に染まり切ったタオルを押さえつけながら、更に圧迫を続けるが止まる様子は無い。救急車やパトカーが到着する頃には、二枚目さえも染まり切る程度になっていた。詳しい状況の説明と、庭師である詩奈が解放されたのは、日がそろそろ落ちかける程になっていた。
この街では、これが日常と化している。
他人事を貫く人々も、面白がりながら繰り返す狂人も、何もない善良な被害者も。
全部が全部当たり前で、日常だ。
「……ねえ、アオ」
ひと段落したらしい詩奈が声を掛ける。
僕はそれで、良いのだろうか?