47:エピローグあるいは、女悪魔との別れ
シージェを捕獲して三週間。ようやく、新月の夜を迎えた。
ラクナスとアンリルは感慨深い思いで、月明りのない、黒一色の空を見つめる。
そして二人揃って、前方の人影を見た。
たくましい腕を組み、夜空をねめつける武人──いや、女悪魔。
「……空が泣いておる。まるで、我の心を映し出すように」
低いバリトンで、そう呟いた。ラクナスより渋い。
「いや、マジでおめーは誰なんだよ。なんで一人称まで変わってんだよ」
自分より三倍はあろうかという大きさに膨れ上がった、筋骨隆々の背中を眺めるアンリルは、これまで何度も重ねた疑問を再度口にする。
サマルカンド家預かりとなったシージェは、ルビアンの監視下に置かれた。
「思い込みが激しくてワガママな性格を、私が叩き直してあげます」
乗馬用の鞭──直接触れれば加護を与えてしまうので、必須である──を振り振り、ルビアンはやる気十分だった。
そしてメイトリス孤児院仕込みの、スパルタ更生塾が開校されたのだ。
ルビアンを除く一同は、シージェが早々に根を上げると考えていた。悪魔は一様に体力がない、というのは有名な話である。
しかし彼女のどの琴線に触れたのかは定かでないが、シージェは食らいついた。
地獄のようなしごきにも、這いつくばってでも付いて行ったのだ。その様はまさしく、鬼教官と鬼生徒であった。
その結果、たった三週間だというのにシージェは見違えるようになった。
筋肉を纏った体は二回り以上大きくなり、顎は割れ、眉も太くなった。ついでに声も、マッシヴな男性のものになった。
明らかに更生の域を超えた肉体改造であるが、本人は生まれ変わった姿に
「これが、我……であると?」
と、うっとり目を輝かせていたので、誰も止めなかった。正確には、怖くて止められなかった。
当事者たち以外の四人は、武神による超常現象の賜物だと感じていたが、そっとしておいた。自分の顎が割れては事だからだ。
シージェを眺めるラクナスは、つい自分の顎を撫でた。
──良かった、割れていない。
安堵の吐息を漏らした時、何気なく傍らへ視線を向けた。
アンリルも、全く同じ動作で顎を触り、ほー……と長い息を漏らしている。その彼と、目が合った。
彼もまた、ラクナスが顎を撫でていることに気付く。
少々気まずい空気が、二人の間に流れた。
男たちの胸の内など露知らず、山男──と言うよりも山そのものの教え子に、ルビアンがニッと笑いかける。
「お別れは寂しいですが、シージェさんとの三週間は本当に楽しかったです」
「我もです、師匠」
重々しくシージェが頷く。渋いを通り越して、なにかと重々しい。
ルビアンも夜空を見つめ、そしておもむろに、右の拳を突き上げた。
「筋肉とはッ!」
そして吠える。すぐさまシージェも逞しい腕を振り上げ、後に続いた。
「決して、己を裏切らぬ存在であるッ!」
「筋肉とはッ!」
「王道の先にそびえる山であるッ!」
「筋肉とはッ!」
「この薄汚れた世界において、たった一つの真実であるッ!」
見事な問答を繰り広げ、二人は凛々しく笑い合っている。
「……ヤベーよ……何なんだよ、あの儀式……どう見ても邪教じゃねーか……」
「今さらだ、アンリル。今さらじゃないか」
青ざめるアンリルを、遠い目のラクナスが宥める。
師との別れを交わしたシージェは、空中へ雄々しく魔法陣を描いた。描き切るとそれは、低い唸りを上げて鈍く光り始める。
周囲に紫煙も立ち込めて、魔法陣はそのまま、魔界に通じる門へと変容する。
巨体を曲げて門を潜りながら、シージェが振り返る。男二人は無意識に、肩を震わせた。
「皆様方、お世話になり申した」
「あ、ああ……魔界でも、その、元気で」
強張った笑顔で、ラクナスは手を振る。
「筋肉に、正直に生きるんだよ」
ルビアンは麗しい笑顔だ。ただ言っていることは、ラクナスにもよく分からない。
二人へ微笑み返したシージェの視線が、アンリルに留まる。
蛇に睨まれた蛙のごとく固まった彼へ、渋さと悲哀の入り混じった笑みが向けられた。
「さらば同郷の友よ……そして、我が初恋よ」
「おお……じゃ、じゃあな……」
カクカクと手を振るアンリルは、壊れかけのおもちゃのようである。
最後に彼をじっとにらむ、否見つめ、シージェは門を潜り終えた。その瞬間、門は閉じ、夜空に四散する。
「……怖かった……前とは違う意味で怖かった」
門が閉じるや否や、アンリルがその場にしゃがみこむ。ラクナスも気持ちは十二分に分かったので、優しく肩を叩いた。
「もう大丈夫だ。全て終わったんだ」
「怖かったよ……日に日にデカくなってく、あの背中が……」
「過ぎたことだ。忘れるんだ、アンリル」
「頑張る女の子に、なんて言い草」
ルビアンが腰に手を当ておかんむりだが、涙目のアンリルは憤然と立ち上がる。
「どこが女の子だよ! 猛者としか呼びようがなかったわ! ってか、原型なさすぎだろ!」
「仕方ないでしょう。予想外に適性があって、見る見るうちに育ったんだから。途中から私も、『これ、どこまで育つんだろう』って楽しくなったし」
「楽しむんじゃねー! 良識の範囲で止めろ!」
悪魔に良識を解かれる妻を、ラクナスは微笑のまま傍観する。
──我が家としては、平常運転だな。
そもそも悪魔を、こっそり従僕にしている一家である。今更良識を問われても、困ると言うもの。問うているのも、件の悪魔本人であるし。
諦念の姿勢を崩さぬラクナスの長い髪を、冷たい風が巻き上げた。
ここ数日で、夜は随分と冷え込むようになっていた。未だ言い争いを繰り広げる二人へ、声を掛ける。
「冷えて来たし、そろそろ中に入ろう。ばあやがホットチョコレートを作って、待っているはずだ」
彼の呼びかけが届くや否や、食い気の強い二人は、ぴたりと口をつぐむ。
そしてそそくさと、ラクナスの左右にくっついた。ぐいぐいと両側から、彼を屋敷の方へと誘導する。
息の合ったその動きが、まるで本当の姉弟のようで、微笑ましい。
二人を眺めてクスリと笑った彼へ、アンリルが胡乱な視線を向ける。
「なにニヤニヤしてんだよ、旦那?」
「いや。君たちは案外、仲が良いなと思ったんだ」
「やめてくれ。オレはこんな脳筋じゃねーし。頭脳派だし」
地面を蹴るアンリルへ、ラクナスと手を握り合うルビアンがニヤリ、と笑いかける。
「やってみなきゃ分からないよ? アンリルもシージェみたいに、すごい素質があるかもしれないじゃない」
「やめろよな! 俺みたいな童顔がマッチョになったら、キモチワリーだけじゃねーか!」
「童顔の自覚はあったのか」
再び言い合う二人に挟まれたラクナスが、感心したように言う。
しかしラクナスも自覚していないが。
じゃれ合うように、連れ立って歩く三人の姿は、まさしく家族そのものであった。