44:失われたものはプライスレス
シージェの投げ放った枝が、ルビアンに届くことはなかった。
鋭い聴覚で彼女の挙動に勘づいていたラクナスが、素早く枝の軌道に回り込み、裏拳で粉砕する。
そして、シージェへと振り返った。
野獣のそれとは違う、静かな殺意を秘めた目で、彼女を見下ろす。
「ひっ……」
エプロンを──否、肩を切り裂かれた時の恐怖を再度ぶり返し、シージェはその場に力なく座り込んだ。腰を抜かしたのだろう。
だが、それで手を緩めるラクナスではない。
彼は紳士だが、それ以上に愛妻家である。妻に苦痛を与えた輩を、たとえ女性とはいえ、許すわけにはいかないのだ。
「安心しろ。貴様に、神の加護は、与えない。あまりにも、贅沢だからな」
そう言って、縮こまって震える彼女を見る目は、どこまでも酷薄だ。
宣告と同時に、彼は腰の鞘を外し、振りかぶる。
「ひぃっ……やめっ」
やめて、と言い終わる前に、決着が着いた。
ラクナスの振り下ろした鞘が、シージェの脳天を強く打つ。ごっつん、と鈍い音がホールに響く。
「ぐえっ」
白目を向き、よだれを垂らし、シージェは倒れた。
先のやり合いでひびだらけになったタイルへ、そのまま突っ伏す。
枝が粉砕される音で、企みに気付いたルビアンとアンリルも、揃って彼女を眺めていた。
「おめーなぁ……長生きしたけりゃ、もうちょっと大人しくしやがれよ……」
うんざり顔のアンリルが、首をふりふり息を吐く。
ストールを抱きしめたルビアンは小走りで、ラクナスへと駆け寄る。
「殺しちゃいましたか?」
直球ストレートに尋ねられ、彼は困ったように喉を鳴らす。
「いいや。幸か不幸か、生きては、いる」
彼女の肩に、自身の上着を掛けてやりながら、ラクナスは肩をすくめた。
「そうですか。うん、ラクナス様らしいですね」
屈託なく笑う彼女を見つめ、ラクナスも安堵の吐息を零した。
途端、彼の輪郭がぼやけ、人の姿に戻る。
それと同時だった。ラクナスに突き飛ばされ、ホールの隅に転がっていたクレムリン氏が、苦しげな声を発するのは。
「ううぅぅぅ……」
身を起こした彼は、意思の戻った目を苦痛に歪め、体を震わせる。
その動きに合わせて、ふぁさり、と周りに落ちるものがあった。細い、糸のようなものだ。
床に散らばったのは、クレムリン氏の最も貴重な財産であろう、毛髪だった。
「げっ」
「うわっ」
アンリルとルビアンが同時に声を上げ、慌てて顔をそらす。
ラクナスは無言で仰天していた。ややあって、アンリルを窺う。
「アンリル、クレムリン男爵のその、あれが……」
「言うんじゃねー。今、笑いを堪えるのに必死なんだよ……たぶん、シージェに操られて、ついでに生気も吸われてたんじゃねーかな」
支配下にあった男爵夫妻の生気で、魔力の肩代わりをさせていたのではないか、とアンリルが震え声で推測を立てる。
声だけでなく、全身もぶるぶると震えていた。
「なるほど」
「……ま、命があっただけ、良かったんじゃねーか?」
笑いを咳払いでごまかし、アンリルは肩をすくめる。
「良かった、のだろうか……?」
クレムリン氏はラクナスたちの存在に気付かぬほど、周囲に散乱する毛を見つめ、狼狽している。
やや遅れて、少し離れた場所から、甲高い悲鳴も聞こえて来た。老いた女性の声だ。
おそらく、夫人の発した声だろう。
ラクナスとアンリルが視線を交わす。
「抜けたのだろうか」
「抜けたんじゃねーかな」
どこか警戒するように、ルビアンが横目でアンリルをにらむ。
「ラクナス様の髪の毛は、抜かないで下さいよ」
「しねーから。ってか、オッサンの毛を集める趣味はねーから」
気の抜けたこのやり取りが、耳に入ったらしい。
クレムリン氏はようやく、ラクナスたちに気付く。
「ひぇっ……あ、貴方がな、何故我が家に……ああ! 家がメチャメチャだ!」
ラクナスたちの存在に気付くと同時に、周囲にも目が向けられたらしい。四方を見渡し、クレムリン氏は悲鳴を上げた。
ルビアンがとどめを刺した扉に、ラクナス達の抗争で床も壁も調度品もボロボロになったホール。外観以上に、廃墟感が漂っている。
ラクナスたちは顔を見合わせて、何とも言えない表情を浮かべた。
しかし、こういった場合、口八丁で丸め込むのは貴族の務めである。
咳ばらいを一つして、ラクナスは一歩前へ進み出た。