43:キツネの君の手綱
「おい……旦那……?」
剣が折れた途端、膝をついたラクナスの背中に、アンリルが恐々と声を掛ける。
しかしラクナスはそれに応えない。ただよだれを垂らし、獰猛に光る目で周囲を睥睨する。
獣そのものの唸り声を上げる彼の様子に、シージェもただならぬものを感じたのか。
思わず魔術をかき消し、数歩後退する。
その顔も、青ざめていた。
「アンリル様……そのキツネは、どうしちゃったんですか?」
どこか他人事のような口調に、アンリルは激昂した。
「てめーのせいだろうが! てめーの魔術で剣が折れちまったから、理性が飛んじまったんだよ! この、クソアマがッ!」
「クソだなんて、酷いです!」
「あァッ? ひでーのは、てめーの頭だろうがッ!」
その声が耳障りだったらしく、ラクナスが振り返る。
「げっ……」
野獣そのものの形相に、アンリルは顔を引きつらせた。
彼の懸念はまさに正しく、唸りを上げてラクナスは飛びかかった。
「だっ……旦那、やめてくれっ……オレだよ、アンリルだって!」
悲鳴に近い叫びを上げながら、アンリルは転がるように、それを間一髪で避ける。本当に紙一重であった。
その証左に、頬と耳介に一筋の傷が出来ている。
「旦那落ち着け! オレ襲ってどうすんだよ!」
ラクナスから逃げつつ、アンリルはシージェ目がけて走る。死ねば諸共の精神か。
彼の意図を察したシージェの顔が、ますます青ざめた。
「やだやだ! こっち来ないでください!」
「てめーも責任取れ! 旦那を早く拘束しやがれ! ただし殺すなよ!」
「むっ……無茶言わないでください! こんな速い生き物、拘束なんて……きゃあっ!」
鋭い爪が、シージェ目がけて振り下ろされる。彼女のエプロンが裂けた。
肩をえぐられた記憶がよみがえったのか、シージェの全身から冷や汗が流れ出る。
ラクナスの脳内は、混乱の坩堝となっていた。
魔界の剣で理性を束ねていた反動か、思考は混線し、支離滅裂になっていた。
ただひたすら、目の前にいる生き物を殺さなければいけない、という正体不明の衝動に突き動かされる。
凶悪に笑った彼が、アンリルをひたすら追い回し、ついには壁際まで追い詰める。
獣性は、「こいつの血を浴びたい」と叫んでいた。
幸いにして、ラクナスには牙も爪もある。その欲求を、すぐに叶えることができる。
振り上げられた彼の腕を見、アンリルは涙目で、しかしはっきりと叫ぶ。
「旦那! ルビアンはどうすんだよ! こんなことして、あいつんとこに戻れるのか!」
ルビアン。
懐かしさと愛しさをはらんだ名前に、ラクナスの腕が空中で静止する。噛み締めるように、彼もその名前を呼んだ。
「そうだよ! あんたの大事な嫁さんだ! あいつを助けるために、ここに来たんだ! オレを食うためじゃねーだろ!」
アンリルの言葉に、脳が揺さぶられる。ラクナスは唸りながら、側頭部を押さえた。
しかし、獣の衝動を抑えるには至らなかった。
束の間理性の灯った瞳は再び、破壊の欲求に塗りつぶされる。咆哮が上がった。
大きく口を開け、諦念から泣き笑いの表情になったアンリルへ飛びかかろうと、腰を落とす。
その刹那。
──ラクナス様ぁー!
遠くからかすかに、彼を呼ぶ少女の声がした。耳が、その方向に傾く。同時に彼の動きが、ぴたりと止まった。
アンリルは涙でぐしゃぐしゃになった顔のまま、呆然と彼を見上げる。
優秀なキツネの耳にしか聞こえなかった声は、蹄が地面を蹴る音と共に近づき、やがて悪魔たちの耳にも届いた。
「馬のいななきと、聞き覚えのある拳王の声がする……」
状況も忘れて、アンリルがぼそり、と呟いた。
その呟きから間を置かず、半開き状態のままだった扉が、再度蹴り開けられる。蝶番と共に、戸板が吹き飛んだ。
「ラクナス様、大丈夫ですか! アンリルも生きてるっ?」
寝巻姿のままのルビアンが、背後に馬を従え、荒い息で彼らを探す。
さして間も置かず、アンリルの眼前で硬直するラクナスと、ルビアンの潤んだ瞳がかち合った。
その瞬間、分厚い霧に包まれていたラクナスの思考に、晴れ間が見えた。
──そうだ。剣なんて、なくても。彼女がいれば、私は自分を見失わない。
彼女の声と視線によって、剣を折られた衝撃も、獣性に取り憑かれる快感も、遠くへ流される。
思考が冴える。
彼岸に押しやられた自我を、彼は取り戻した。
振り上げたままだった腕を握り、ラクナスは自分の頬を強かに殴った。
痛みが、わずかに残った獣性をも綺麗に洗い流す。
呆気に取られてそれを眺めるアンリルの前に、ラクナスはしゃがみこんだ。
「……だ、旦那?」
「すまなかった、アンリル」
噛み締めるように、そう謝罪すると。灰色の瞳からボロボロと涙が零れ落ちた。
泣きながら、アンリルは食って掛かる。
「すっ……すまねぇじゃねーよ! めちゃくちゃ怖かったじゃねーか! ばかやろー!」
なおもあうあうと号泣する従僕の頭を撫で、再度「すまなかった」と伝える。
なんだか、息子が出来た気分だった。
ラクナスは苦笑の代わりに喉を鳴らして笑い、ルビアンへ視線を向けた。
そこではた、と気付く。
彼女が何とも新妻らしい、可愛らしくも艶っぽい夜着姿であることに。
仰天したラクナスの長い尾が、ぶわりと膨らんだ。
「ルビアン! なんて恰好を、しているんだ!」
「すみません。居ても立ってもいられなくて、着替える時間も惜しかったもので」
頬をかくルビアンに、反省の文字は見受けられない。
お仕着せの袖でぐい、と涙を拭い、豪快に鼻をすすったアンリルも、力なく笑う。
「マジで、なんて恰好で出歩いてんだよ。痴女かよ、おめーは」
「失礼ね。ちゃんとストールで隠して来ましたよ」
確かに、小脇には抱えられたストールがあるものの、そういう問題ではない。
「いや、あのさ、そういう問題じゃねーだろ。その服で外に出ようっていう、おめーの図太さがダメなんだよ」
ラクナスの心を代弁するように、案外真面目な悪魔が滔々と語る。
ルビアンの登場で途端に砕けた空気になった中、静かに立ち上がる影があった。
シージェである。
彼女はボロ雑巾のようになったエプロンをまさぐり、もう一本のヤドリギの枝を取り出した。
そしてそれに魔力を込め、ルビアン目がけて飛ばす。




