42:女悪魔は諦めが悪い
よだれと胃液(または胆汁)まみれだった剣を携え、ラクナスはクレムリン邸の前にいた。彼の姿は既に、キツネの獣人だった。
今日も庭のダンゴムシが、良い働きをしてくれたのだ。
ラクナスの隣には、険しい顔のアンリルも控えている。
アンリルから託された剣によって、ラクナスの思考は転化前と同じく、冴え冴えとしていた。
「凄い剣、だな。持っている、だけで頭が、すっきりと、している」
「だろ?」
「当の剣は、ねばねばの、粘液まみれ、だったが」
「それは忘れろって」
アンリルに脇を小突かれる。ふかふかの体毛越しに、その衝撃が微かに伝わった。
小競り合いの後、改めて二人で屋敷を眺める。
クレムリン邸はかつてのサマルカンド邸のように、荒れ果てている。そこから、クレムリン夫妻の逼迫具合を窺い知ることが出来た。
庭は全く手入れがされず、生え放題の伸び放題。
窓は土埃や手垢で汚れ、外壁もどこか色あせている。
そのためだろうか。二人にしては幸いなことに、周囲の人通りもほぼ皆無であった。
廃墟と大差ない有様に、アンリルは鼻筋にしわを作る。
「人の気配もしねーな」
「ばあやが、言っていた。クレムリン家は、家計が火の車。使用人を全員、辞めさせた、と」
「はっ。悪魔が忍び込むにゃあ、おあつらえ向きってことだな。大方あのクソアマも、メイドのふりして堂々と潜り込んだんだろうよ」
鼻で笑ったアンリルが、両手から鬼火を発生させる。
それを屋敷の扉目掛けて、投げつけた。破裂音と共に、扉の鍵が壊される。
「アンリル。あまり、目立つ行動は、しないように」
「いいじゃねーか。意趣返しってことでよ」
にやりと笑う彼につい、内心憤怒に駆られていたラクナスも犬歯を見せて唸る──いや、笑う。
次いで足を振り上げて、鍵が壊され半開きとなった扉を蹴り開けた。
「旦那も目立つ行動してんじゃねーか」
言ったそばから、とアンリルが苦笑する。ラクナスは横目にそれを見、肩をすくめた。
「意趣返し、だ」
玄関前のホールには、メイド服姿のシージェが立っていた。彼女は扉を蹴飛ばしたラクナスを見とめるなり、目を吊り上げる。
「ちょっ……どうして、アンタまで来てるのよ!」
「てめーが一人で来いって、指定しなかったからだろッ!」
ラクナスの背後から、アンリルが応酬する。彼が怒鳴ると同時に、ラクナスが地面を蹴った。シージェへ肉薄する。
「ケダモノの分際で!」
黒い光球を放ちながら、シージェが飛び退る。ラクナスも光球を避ける、あるいは剣で打ち落とす。アンリルも鬼火を撃ち、彼を援護した。
ひらりと舞ったシージェのエプロンから、真っ赤な何かが飛び出した。棒状のそれは、軽い音を立ててタイル張りの床を転がる。
シージェの顔が強張り、アンリルは目を見開いた。
「旦那! ソレがヤドリギの枝だ! 壊しちまえ!」
「分かった!」
ラクナスがヤドリギ目がけて走る。
しかし彼が手を伸ばして枝を掴もうとした瞬間、丸い影が突進して来る。
ラクナスの胴にしがみついたのは、虚ろな表情のクレムリン氏だった。
「放せ、男爵!」
彼の頬をしたたかに打つも、その腕は少しも緩まない。未だ、シージェの支配下にいるらしい。
しかし理性を保っているラクナスは、彼に深手を負わせられずにいた。
もがきながら、ラクナスは狼狽える。
その隙に、シージェが枝へ駆け寄ろうとして──アンリルの炎に襲われた。
毛先と頬を炙られ、シージェは涙目になる。
「ひどいわ、アンリル様! なにするんですの!」
「それ、てめーが言うかッ?」
がなりつつ、アンリルも枝へ駆け寄る。
ラクナスもようやくクレムリン氏を突き飛ばし、走った。
二人の姿に、シージェが激昂した。
「アンリル様が好きって言ってくれるまで、渡さない!」
手前勝手に叫び、黒い閃光で一振りの剣を生み出す。
それを無防備なアンリルの背中目がけ、投擲した。
「アンリル!」
ラクナスがいち早く気付き、剣をかざして彼を庇う。
魔力で出来た剣は、ラクナスの剣にぶつかるや否や、爆散する。
その威力にラクナスの剣が折れるのと、アンリルがヤドリギの枝を踏み潰すのはほぼ、同時であった。
途端、ラクナスは頭部を、鈍器で殴られたような衝撃に襲われる。
剣によって繋ぎ止められていた理性が、束の間砕けた。
しかしその刹那は、獣性が支配権を握るのに十分な長さだった。