39:ヤドリギの枝
クレムリン夫妻は、定刻通りにサマルカンド邸を訪れた。
建て替えたばかりの四阿に、二人は通される。
アンリルが出迎え、庭へ案内する間も夫妻は大人しかった。素直を通り越し、従僕のアンリルへ丁重な礼を述べる程に。
前回と百八十度違うその態度には、アンリルですら首を捻って、怪訝な顔を浮かべている。
窓からこっそり、その様子を窺っていたラクナスとルビアンも無論、その違和感に襲われる。
「……何と言うか、従順だな」
「ちょっと不気味ですよね」
顔を見合わせ、二人で首を傾げた。
四阿に用意されたティースタンドを囲んでお茶を楽しみつつも、クレムリン夫妻をつい、不審の目で見てしまう。
だが、疑いの目を向けられているにもかかわらず、
「この前は申し訳ありませんでした。ルビアンが子爵様と結婚したと聞き、つい、欲に目がくらんで……愚かで、浅はかな行為でした」
そう言って、クレムリン夫人が頭を下げる。
隣のクレムリン氏も、頬に流れる汗を拭いつつ、何度も頷いた。
「私どもがこの子にとって、誇れる親でなかったことは重々承知しております。それでもやはり、六年間彼女の保護者だった者として、せめて祝福したいと思った次第でございます」
どちらも謙虚だが、それでいて卑屈さを感じさせない口調だ。
一言で言えば、誠実な声である。
目を閉じ、彼らの言葉だけを聞いていれば、そこに裏がないと思えてしまうだろう。
だが彼らの表情は、どこか虚ろだった。生気が乏しいのだ。そのことに、ラクナスは違和感と共に微かな不安を覚える。
一方のルビアンも、身体全体で「胡散臭い」という疑念を発していた。
「あの、お二人とも毒キノコか何かを食べたんですか? さっきから妙と言うか、らしくないですよ」
それを言葉でも表明する。それにしても酷い言いようである。
しかしこれにも、
「あら、いやだわ。ルビアンったら、冗談が上手いのね」
「そうだな。ユーモアもあって美しい。正に自慢の娘だよ」
夫妻は朗らかに笑うばかりであった。本当に怪しいキノコの類を、食べてしまったのではなかろうか。
──だが、刃物を持ち出しての刃傷沙汰というのもなさそうだ。毒にやられておめでたい心境にあるだけなら、そっとしておくべきか。
傍らには念のため、アンリルも控えさせている。万が一の場合にも大丈夫だろう、とラクナスは紅茶をすすった。
ルビアンも、打っても響かない養父母に疲れたのか、一度天を仰いでティーカップへ手を伸ばす。
「そうだわ、ルビアン。大したものじゃないけれど、結婚祝いを持って来たの」
手を合わせ、夫人が楽しげに言った。ルビアンはティーカップを持ったまま、当惑する。
「え、いいですよ、そんな」
「そう言わないで。本当に大したものじゃないから、受け取って頂戴な」
夫人はいそいそと、バッグの中に手を入れる。
その手がナイフを握って現れるのでは、と無意識にラクナスの腰が浮いた。
しかし夫人が取り出したものは、宣言通り可愛らしくラッピングがされた、十五センチにも満たない長さの、棒状のものだった。
「万年筆だよ」
クレムリン氏が微笑む。その言葉に夫人も、満面の笑みで頷いた。
箱にも入れず、剥き身のままラッピングされている点に疑問を覚えるが、それ以外に不審点は見当たらない。
「ありがとう、ございます」
虚ろな瞳の笑みに、ルビアンはためらいつつも、手を伸ばす。ラクナスもそれを止めない。
だがその光景を眺めていた、眠そうなアンリルの両目が大きく見開かれる。
「ルビアン! それに触るな!」
「えっ?」
鋭い制止の声で、反射的に彼女の手が引っ込む。
が、それよりも早くクレムリン夫人が動いた。
「受け取りなさいよ、ルビアン!」
高揚に満ちた、甲高い声を上げる。
叫ぶと同時に、夫人はルビアンの手のひらに、棒状の何かを押し付けた。
途端、炸裂音と共に、黒い閃光がルビアンの体に巻き付いた。
「ぁっ……」
か細い悲鳴を上げ、黒い光に包まれたルビアンの体が、力なく崩れ落ちる。
「ルビアン!」
ラクナスが上ずった声で叫び、彼女を抱き止めた。
黒い光は既に消え失せていたが、ルビアンの顔から血の気は消え失せ、視点も定まらない。息も絶え絶えになっている。
「彼女に何をした!」
眼前で妻を傷つけられた激情に任せ、ラクナスは恫喝する。
しかしクレムリン夫妻は、のっぺりとした薄ら笑いを張りつけたままだ。
くすくすと笑いながら、夫人の乾いた唇が動く。
「ヤドリギの枝で、彼女の神力を封じたわ」
唇からこぼれ出た声は、クレムリン夫人のものではなかった。舌っ足らずで甘さを含んだ、若い女性の声である。
「……シージェか?」
四阿へ身を乗り出したアンリルが、そう問うた。今度はクレムリン氏が、女悪魔の声で笑う。初老の小太り男性が、出して良い声ではない。
「だって、アンリル様が意地悪するんですもの。それに、そっちの獣人には傷物にされちゃったし。だからこれは、そのお返し」
「だったらオレと旦那にすりゃいいだろ!」
「そんなの駄目ですわ。アンリル様が酷い目に遭うだなんて、アタシ耐えられません」
笑ったクレムリン氏もといシージェは、酷薄な視線をラクナスに注ぐ。
「あと、獣人は自分より、奥さんの方が大事なタイプでしょ? 顔が良くて愛妻家だなんて、素敵よね。まあ、アタシのタイプじゃないけど」
「奇遇だな。私も貴様のような、思い込みの激しい女性は嫌いだよ」
ルビアンを横抱きにしたラクナスは、獰猛な笑みを見せる。
「わざわざ名乗りを上げたんだ。何か目的があるんだろう。言ってみろ」
「顔も良くて愛妻家で、おまけに肝も据わってるのね。やだやだ、完璧超人って好みじゃないわ」
両手で頬を覆い、いやいや、とシージェは首を振った。
しかし、身体はクレムリン氏であるため、眺めていて厳しいものがある。アンリルなど、頬まで粟立っている。
ラクナスも当然、不景気顔で呻いた。
「……早く言え。吐き気がする」
「老け顔なのに心が狭いのね。まあ、いいわ。他人の体を借りるのって、結構疲れるのよね」
シージェが指を一本立てる。
「要求は一つ。アンリル様を返してちょうだい。そうすれば、アンタの奥さんも元に戻してあげる」
言い終えるや否や、クレムリン夫妻も黒の光に包まれ始める。
「待て!」
ラクナスが制止の叫びを上げるも、彼をあざ笑うかのように眼前で閃光が弾けた。ルビアンを庇いながら、ラクナスは後ずさる。
結局近寄ることも叶わぬまま、夫妻は光に覆われ、そして姿を消した。