36:ポケットの中身は
ルビアンを抱き寄せて身構えたまま、領民を隙なく見回すラクナスであったが、彼へ投げられたのは石ではなかった。
「領主様、ありがとうございます!」
安堵した笑みの中年女性が、まず歓声を上げた。
予想外の言葉に目を瞬いていると、他の領民も口々に、感謝を述べた。
てっきり石を投げられる、またはタコ殴りを予想していたので、真逆の展開にラクナスは戸惑った。
「……このような、姿だが、恐ろしく、ないのか?」
自身の姿をまじまじと見下ろし、ラクナスはおっかなびっくりそう尋ねる。
「まさか、滅相もございません」
老人が柔和に否を唱える。
隣にいる子連れの女性も、しみじみ頷いた。
「まあ、ちょっとはおっかないですけど。でも、領主様には頭が上がらないですから」
「そうですよ。子どもたちに勉強を教えてくれたり」
「水を引いてくれたり」
「ガス灯だって、使えるようにしてくれて」
「ありがたいったら、ありゃしないんですから」
領民は、知ってくれていたのだ。寝る間を惜しみ、彼が旧王都の復興に尽力していることを。
ラクナスの目頭が、熱を持った。
咄嗟に抑えて、こみ上げるものを押し殺した彼へ、パン屋を営む男性がおずおずと紙袋を差し出す。
「領主様にお出しできるようなものじゃあ、ありませんが……でも、これぐらいしかお礼が出来なくて」
涙を堪える夫に代わり、ルビアンがそれを受け取る。中に詰まったパンを覗き込み、彼女は無邪気に歓声を上げた。
「これぐらい、じゃないですよ。とっても嬉しいです、ありがとうございます」
領主夫人の輝く笑顔と言葉に、パン屋の主人は赤らんだ頬ではにかむ。
それを機に、青果店店主は熟れた果実や、麻袋一杯の根菜を。
食堂の女将は、籠に入れたシェパードパイを。
他にも酒や花束、果ては布地まで持たされる。大盤振る舞いだ。
「皆の生活も、決して楽では、ないだろう?」
ラクナスはそう言い、気持ちだけを受け取ろうとしたが、
「荒くれ連中の諍いを静めていただいたのに、そうはいきません」
庇護するべき領民たちからそう主張され、
「それでもお礼がしたいぐらい、皆さんはあなたが好きなんですよ」
ルビアンにそう微笑まれれば、受け取らざるを得なかった。
結局帰りの馬車は、渡された土産でいっぱいになった。
これには御者も、また唖然となる。
転化したラクナスに怯えさせてしまったり、山盛りの荷物で度肝を抜いてしまったり、彼には申し訳ないことをした。
「ほらね、言ったでしょう? 皆ラクナス様が好きだって」
戦利品のクッキーを一つ摘まみ、ルビアンは我が事のように誇らしげだ。
「そうだな」
人に戻ったラクナスも、彼女からクッキーを受け取り、口にした。卵の風味を感じられる、素朴な味だった。粗食派のラクナスにとって、好みの味である。
「ま、ギャングの連中も蹴散らして、食いものも貰って万々歳じゃねーか」
いつの間にか姿を消していた──大方安全地帯から、成り行きを観戦していたのだろう──アンリルもちゃっかり向かいに座り、背もたれに体を預けてヒヒヒ、と悪魔的に笑う。
──そう言えば、悪魔だったか。
すっかり不良従僕となったアンリルに苦笑したラクナスだったが、その目がすっと細められる。
「アンリル」
「あ?」
「そのポケットは何だ?」
「げっ……」
厳格な領主の声音に、アンリルの体が強張る。
彼のジャケットのポケットは、何かを詰め込み丸々と肥えている。そのため、中身が一枚、はみ出していた。
素早く、ラクナスがそれを引き抜く。
「あっ、ちょっ、旦那!」
アンリルは慌てて奪い返そうとするも、鍛錬を欠かさぬキツネ騎士が、俊敏にそれをかわす。
「紙幣、だな」
抜き取ったお札を掲げ、ラクナスは淡々と告げる。
アンリルはそれに答えず、俯き、石と化した。彼を見下ろすラクナスの視線は、平素になく険しい。
「お前、引き分けに賭けていたな?」
「ぅぶっ……」
ずばり核心を突いた氷の声音に、悪魔は思わず悲鳴を零した。
ラクナスの隣に座るルビアンが、ずずい、と身を乗り出す。そしてアンリルの胸倉を、たおやかな左手で掴んだ。
「賭け事は賭博の一種です」
「はい……」
「賭博が違法だって、知ってますよね」
「はい……」
もはや三度目である。アンリルは全てを覚悟した。いっそ微笑んですらいる。
「何考えてんだッ! この、ど腐れがァッ!」
領主夫人のものとは思えぬ怒声と、続く殴打の音、そして切ない悲鳴に、御者は再び恐怖するのであった。




