35:夕暮れの決闘
日が暮れつつある空は、いつもよりも赤く鮮やかだ。
「明日は雨かもしれませんね」
空を見上げ、ルビアンが呟く。空の色を映し、深紅の髪も一層美しく輝いていた。
ラクナスもつられ、視線を仰ぐ。次いで、紺碧の目が細められた。
「剣術クラブは、休み、か」
「かもしれないですね。ご愁傷様です」
どこか未練のこもった夫の声に、ルビアンは殊勝な様子で頷き、彼の背中を撫でる。
他愛のない会話を交わしながら、ピクニックから帰って来た二人を、屋敷の前にいるアンリルが出迎えた。
「ああ、帰って来──旦那、なんでキツネになってやがんだ?」
二人を見とめて明るくなった表情は、しかし、すぐさま訝しむものに変わっていた。
「……バッタが」
それだけ呟き、ラクナスは金褐色の両手で顔を覆って、その場にうずくまる。
「バッタがどうしたって言うんだよ? 犯されたってか?」
「ある意味では、そうなのかも」
一つ笑って、ルビアンが続きを請け負った。
「ラクナス様のお顔に、バッタが飛び付いちゃったんですよ」
「おーおー、運が悪いことで。で、それで転化しちまったのか」
ラクナスの虫嫌いは、サマルカンド家において周知の事実である。
震える両手で顔を覆うラクナスは、手と同じく震え声を絞り出した。
「間近に、見てしまった……緑の、ぶよぶよした、腹を……節のある、ひやりとした、独特の触感が、私の頬に……」
「やめろよなぁ! オレまで苦手になるじゃねーか!」
アンリルが両耳を塞ぎ、膝をつき、絶叫する。
「そのお腹が可愛いんだけどな」
ルビアンの呟きに同意する者は、もちろんいなかった。
大声でラクナスの恐怖体験をかき消していたアンリルだったが、途中で我に返る。
「……ってか、んなこと言ってる場合じゃねーし! 丁度いいから、そのまま来てくれよ!」
「丁度、いい?」
呪詛のように、滔々とバッタの恐ろしさを語っていたラクナスも、はたりと現実に戻った。
「喧嘩してやがんだよ、繁華街で!」
「喧嘩?」
「え、喧嘩ですか?」
そこまで慌てふためくことだろうか、とラクナスとルビアンは彼を見つめた。
そもそも喧嘩の仲裁は、領主でなく警察の仕事である。
「喧嘩してんのが、ギャングの若造共なんだよ! ポリ公も手出しできねーんだよ!」
「何!」
「アンリル、それを先に言わなきゃ」
アンリルの焦りが伝播し、二人も慌てふためく。
ために、ラクナスが人に戻る暇もなく、馬車を捕まえて繁華街へ向かった。
御者はラクナスの姿に縮こまったものの、それでも馬車は事故も起こさずに、無事目的地へ着く。
黄昏時の繁華街は、まるで地下闘技場の様相を呈していた。
ナイフを持って睨み合う青年二人を、血走った眼の男たちが囲んでいる。
青年二人は、それまでにも殴り合いを続けていたのだろう。あちこち傷だらけで血だらけだ。
男たちは二人を囃し立てながら、どちらが勝つのかと賭けをしていた。
それを遠巻きに、女性と子供たちが見守る──否、非難するような、怯えるような眼差しを注いでいる。軽く地獄絵図である。
「なんて大がかりな。ギャングって暇なのかな」
ルビアンはその光景に、腕を組んで呆れ果てている。
しかし領主であるラクナスは、傍観しているわけにもいかない。
二人の喧嘩がやがて、ギャング間の抗争へと発展しかねないのだ。
馬車を飛び降りたラクナスが、喉をうならせ不機嫌を露わにした。
次いで、朗々とした声を張る。
「何をやって、いるんだ!」
青空教室で鍛えた声量は、男たちの熱狂すらも上回った。
むさ苦しく暑苦しかった場が一変し、しんと静まり返る。誰もが表情を見失い、気が抜けたようにラクナスを見つめていた。
「うっ……うわああああ! キツネの騎士様だあああ!」
最初に叫んだのは、喧嘩中のギャングだった。片方が青ざめた顔で、裏返った悲鳴を上げたのだ。
硬直していたもう一方も、その声で動き出す。ナイフを放り出し、逃げたのだ。足を痛めていたのか、よろめいた彼を、喧嘩相手が支えた。
そのまま二人で、仲良く逃走する。喧嘩は引き分け、ということか。
そこから間を置かずに、観戦していた男たちも、蜘蛛の子を散らすように逃げ出した。
「キツネの騎士様だ! 怒られるぞ!」
「賭けがバレちまったら、なます切りにされちまう!」
確かに賭け事は、国法により禁止されているが。
注意こそすれ、間違ってもなます切りなんてするつもりはない。
ラクナスは結構傷ついた。耳としっぽが垂れ下がる。
そして好機とばかりに、垂れたしっぽをルビアンが掴み、おもむろに顔を突っ込んだ。
そのままスーハースーハーと、豊かな尾に顔を埋めたまま深呼吸。ついでにグリグリと、勢いよく頬ずりもする。
──私の愛する妻は、どうやら変態だったらしい。
「ああー、思った通りの感触です。ふわふわだ」
「……それは、何よりだよ」
しかし、ルビアンの奇行に呆れている暇はなかった。
女性や子供、そして決闘へ冷ややかな目を向けていた一部の男性が、二人を取り囲んだのだ。
──これは……やはり、石で打たれるのだろうか?
ラクナスの毛が逆立つ。
ルビアンを抱き寄せて庇いながら、訪れるであろう暴力に備えた。