30:転化の使いどころ
武神メイトリスから
『お願いだから、孫と我輩を怖がらせないで。君、熱心過ぎ』
と丸文字神託が下ったことで、ティルウスは一応の落ち着きを見せた。
しかし、まだ鼻息は荒く、目もケダモノのように爛々とみなぎっている。
ラクナスは無意識に、ルビアンを自身の背に庇った。
彼の肩越しに、ルビアンが警戒心丸出しの視線を向けたことで、ティルウスもようやく我に返ったらしい。
深呼吸をして、自身の頬を軽く叩き、落ち着きを取り戻す。
「……申し訳ない、孫娘様。久方ぶりだったので、つい興奮してしまった次第である」
「念のため言っておくが、彼女は私の妻だぞ」
やんわりとした口調こそ保っているものの、指を絡めて彼女の手を握り、身を寄せ、極太の釘を打ち込んだ。
どうやらラクナスも、若干冷静さを欠いているようだ。ルビアンが嬉しそうにはにかんだのが、幸いか。
「懸想はしていないぞ! 案ずるな!」
疑心暗鬼の友人の姿に、野性味溢れる、ティルウスの表情が強張る。
「どちらかというと、孫娘様を通じてメイトリス神にお会いしたい所存なのだ! 可能であれば、握手の一つでも出来ればいいな、と思っているだけなのだ!」
「動機が不純ですね」
「だよなー」
目を見合わせ、ルビアンとアンリルが「ねー」と声を揃える。まるで姉弟である。
──この少年は悪魔……なんだよな? 悪魔、という認識は間違っていないよな?
ラクナスの胸中に、一抹の疑念が芽生えた。
首を振って気持ちを切り替え、土台だけとなっている四阿跡地へ、視線を落とした。次いで、心なしか恐縮している友人へ、笑いかける。
「動機は全くもって不純だが、その孫娘様のために手伝ってくれると有り難いよ」
もちろん、とティルウスも頷いた。
「俺自身、身体を動かすのは好きだ。どんどんこき使ってやってくれ」
「助かるよ」
ティルウスと視線を合わせて一つ頷くと、ラクナスはアンリルを呼んだ。
「例のものは?」
アンリルが、お仕着せのポケットを軽く撫でる。
「おお、用意してるぜ。旦那、準備は良いか?」
「ああ……いや、少しだけ待ってくれ」
すっと片手で彼を制し、ラクナスは深呼吸をする。頬は強張り、眉間にも深いしわが刻まれている。
いつになく険しい彼の顔を、ティルウスは怪訝そうに眺めていた。
「ラクナスよ。何を始めるというのだ?」
太い首を捻った彼へ、ルビアンが小さな声で言い添える。
「大丈夫です。見ていれば分かりますよ」
「ふうむ……」
ティルウスは腕を組んだまま、未だ怪訝な顔であるものの、ラクナスを見守る。
やがて決心がついたのか、ラクナスはアンリルへ向き直る。緊張のため、耳は後ろへ反り返っていた。
「……大丈夫だ。アンリル、頼む」
「おう、任せとけ」
どこまでも硬い彼の声音に反し、アンリルの声は軽い調子である。
安請け合いした彼はポケットをまさぐり、丸められたハンカチを取り出した。何かを包み込んでいるようだ。
そしてそれをラクナスの眼前へ突き出し、はらりと広げる。
中から出て来たのは、数匹のダンゴムシであった。
「わあああああ!」
大の虫嫌いであるラクナスは、飛び上がって叫んだ。
たかがダンゴムシ数匹で、半径五十メートルに響き渡ろうかという大音声を発した。
肌を粟立たせた彼の輪郭は、たちまち歪んでぼやける。
そして、キツネの獣人へと姿を変えた。
「うああああああああッ!」
今度はティルウスが絶叫する番であった。
ただでさえ声量のある彼の叫びは、半径三百メートルに渡って轟き、周囲のガラス窓をも震わせる。
聴覚の優れているラクナスだけでなく、ルビアンとアンリルも、耳を押さえてうずくまった。
「うっ……さいんだよ、オッサン!」
最初に立ち直ったのは、アンリルであった。悪魔に人間界の爵位など関係ないので、大地を一つ踏みしめ、血気盛んに怒鳴り返す。
従僕に、本気で怒られたことなどないのだろう(普通は怒らないものだ)。
ティルウスはへどもどと、自身の後頭部を撫でる。
「す、すまん。まさか転化するとは思っていなかったのだ……ところでこれは、どういう仕組みなんだ?」
この姿になると会話が困難になるラクナスと、とにかくお口の下品なアンリルに代わって、ルビアンが説明する。
「ラクナス様は、恐怖に直面すると転化しちゃう体質なんです。で、虫が大の苦手なので、ダンゴムシに恐れ戦いて転化しちゃったわけです」
「……なるほど。しかし、何故わざわざ転化を?」
「四阿の修繕は力仕事ですから。獣人でいる時の方が、腕力もあるそうです」
「合理的なこいつらしい理由だな」
少々腰が引けているものの、そこはラクナスの友人。
キツネになった彼を眺め、微苦笑した。
ラクナスも黒い鼻をひくひくと動かし、ゆっくり喋る。
「驚かせて、すまない」
「いや、俺も君の細君を驚かせたから、お互い様だ」
腰に手を当てたティルウスは、そう笑い飛ばす。
武神が絡むと不審者であるものの、彼は基本的に良い奴なのだ。




