2.寺田さんとイチゴ
男性は猫背気味で喧嘩の真っ最中である3人を一瞥した後、何事も無かったかのように奥にあるキッチンでコーヒーを淹れ始めた。え、三馬鹿の喧嘩、止めてくれないの。私の微かな希望も虚しく、男性は呑気に鼻歌を歌い始めた。それから何分経っただろうか。コーヒー鼻歌さんは共有スペースからいなくなり再び4人だけになってしまった。
相変わらず喧嘩を続ける3人。主に三重吉さんが森田さんを強い方言で罵倒し、それに乗っかって「この自然主義者が」と小宮さんがすかさずダブル罵倒。小宮さんは温厚なタイプだと思っていたけれどそうでも無いらしい。この状況が数十分続き参ってしまったので共有スペースから退散する。ため息をついて廊下を歩いていたら、呼び鈴がピンポーンとなった。はーいと返事をしながら玄関に向かい、ドアを開ける。このシェアハウスには来客モニターが無いので誰が来たのか分からない。まあ、住んでいるのが全員男学生っていうのもあるんだろうけど、あの3人だけでもあんなにアクが強いから犯罪被害に遭わなそうだし。
「どちら様でしょうか」
できるだけ愛想良く、来客を出迎えた。
☆
「だーかぁらぁ、ボクが言ってるのはお前の言うことは嘘ばっかだって言ってんの!」
胃の中身を全部吐き出して気分が悪いのだろうか。小宮が子供っぽい口調で三重吉に反論する。先程まで2人に罵倒されていた森田は首を突っ込まずに隅で大人しくしている。
「おい小宮、ワシは嘘なんかついとらん!」
「ついてるんだよ、いつもいつも酒に酔ってて分からないだけでさぁ、お前の話は盛りすぎてんだよ!」
「なんじゃと、」
三重吉の口から次の言葉が出てくることは無かった。ある人物が2人にげんこつをしたからだ。
☆
「お前たちいい加減にせんか!」
2人は頭と肩を押さえながら同時に驚いた声である人物の名前を言った。
「夏目先生!?」
そう言われた後夏目先生は数十分のお説教をすることも無く、くるりとこちらを向いた。
「新しい管理人さんだね、先代さんから話は聞いてるよ。この馬鹿どもがすまなかった」
そう言って夏目先生は私に頭を下げた。
「いえ、大丈夫でしたから頭を下げないで下さい」
あの文豪に頭を下げられてしまった、という罪悪感が湧く。いたたまれなくなって視線を泳がせたら部屋の隅の森田さんと目が合った。
「あの、森田さんが小宮さんと三重吉さんに罵倒されてましたけど、大丈夫なんですか」
夏目先生に尋ねると先生はああ、と言ったあとこういう喧嘩は日常茶飯事だから気にしなくていいと仰った。視界の隅にいる小宮さんと三重吉さんはまだ頭と肩がげんこつで痛いらしく患部を押さえている。三重吉さんは先生より背が10cm程高く、先生の身長では頭にげんこつが届かなかったらしい。小宮さんはあまり背が先生と変わらないものの数cmだけ先生より高い。
そういえば、と挨拶にイチゴを持ってきたことを思い出す。
「皆さん、ご挨拶にイチゴを持ってきたんですけど先生も御一緒にどうですか」
先生は二つ返事で心なしか嬉しそうに見える。小宮さんがそっと私に耳打ちした。先生はね、甘いものが大好きなんだよ、と。
☆
イチゴを軽く水洗いして水気をふき取りヘタを取ってお皿に盛る。小皿に練乳を添えて皆が待つテーブルに出す。
「これは甘くて美味しいね」
先生が感想を言う。
「これは親戚から送られてきた規格外で市場に出せない物なんですが、毎年美味しいんですよ」
イチゴの感想を述べているうちにお皿は空になった。その時ちょうどあのコーヒーの人が2階から降りて共有スペースにやって来た。猫背気味で眠そうな目が見開かれる。
「先生、来てたんですか」
「ああ、近くで用事があったものでな」
先生がイチゴを食べていた時くらいニコニコしている。相当好きな門下の人なんだなと思いつつ隣の森田さんにあの人は誰かと聞いてみた。
「あの人は寺田さんだ」
え、会話終わり?早くない?そう思っていたら寺田さんが口を開いた。
「皆でイチゴ食べてたんだね。匂いがしてるから分かったよ」
僕も呼んでくれたっていいじゃないか、という空気を出す。なんとも言えない悲しそうな顔を寺田さんはする。中々の大好物だったらしい。そんな空気に耐えきれなくなった私たちの中で小宮さんが声を上げた。
「ボク、昨日コンビニで春いちごの新作スイーツ買ったんですよ。昨日のお酒でお腹があまりすいてないんでよかったらどうぞ」
さっきお酒を全部吐いていた小宮さんは焦りながら冷蔵庫から取り出したコンビニの袋とスプーンを寺田さんに渡す。
「そう?じゃあ有難くいただくよ」
寺田さんはでは先生また、と挨拶した後2階へ戻った。しばらく経ったあと先生以外の皆がはぁ、と胸をなで下ろした。
「小宮、グッジョブ」
三重吉さんがテーブルに突っ伏して疲れたように言った。
「ありがとうございます」
私もお礼を言った。
《寺田さんになんとも言えない悲しそうな顔をさせてはいけない》
三馬鹿と私はそう胸に刻んだ。
【夏目先生の弟子メモ】
〇寺田寅彦は物理学者で随筆家で俳人。
本業は物理学者。
寺田さんの好きなものは「イチゴ 珈琲 花 美人
懐手して宇宙見物」。
また、味覚が凄まじかったそうで普通のおにぎりに砂糖をまぶし、中の具は黒砂糖というおにぎりを食べていたそう。
そのせいで虫歯がひどく、小宮さん(小宮豊隆)に虫歯の詩を送ったことがある。
〇小宮豊隆は独文学者で文芸評論家で演劇評論家。
自他ともに認める「漱石に最も愛された弟子」。
門下筆頭は寺田さんじゃないの?と誰もが思うが本人はどうでもいいとのこと。
少年時代は内気だった。
髪はパーマを当てている。贅沢大好きでオシャレ。
門下はもっと沢山いるのでその都度書き足していきます。