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『芋と魚介類はかく語りき』後半 作者 三衣千月(ミツイ チヅキ)

 四章・試される大地、試される兄


 

 季節は冬になっていた。

 その年は例年より早く木枯らしが吹き荒び、テレビの気象予報では厚着を推奨するキャスターの声が流れている。師走の風は冷たく、今年も気が付けば年の瀬であった。

 兄はじゃがバターを食べながらコタツに潜り込み、妹の淹れたほうじ茶をすすっていた。あの日以来、律は家に来ていない。


「おねえちゃん、元気かなあ。

 あ、お義姉さんの方がいい?」


「あれは事故だ」


 ふてくされる兄に、妹は嬉しそうに自らの携帯を見せる。そこには朗々と愛の言葉を述べる兄の姿がしっかりと記録されていた。画面の端には泣き崩れる小池兄の姿も見える。


「小池君が録画しててくれたんだー」


「……随分と有能な忍びの者じゃないかチクショウ」


 しかしながら、兄にはその記憶がないのだ。酒を飲みすぎて記憶をなくすというのならば分かる。しかし兄は一滴すらアルコールを摂取していなかった。飲食したといえば教授とタケノコイモを食って茶を飲んだくらいである。

 思えば以前からおかしいと思うときはあった。まるで記憶が一部分だけ抜け落ちてしまうような感覚。記憶に完全なものなどないが、それにしても妙だ。考え込んだ果てに、兄は確かめる以外あるまいと考えた。


「妹よ。兄ちゃん、ちょっと出かけてくる」


「どこ行くの?結婚情報誌なら私が買っておいたよ?」


「気が早い小姑め。

 違う、そうじゃない」


「どこ行くの?」


 思い立ったが吉日、迅速に行動すべし。


「北海道に行ってくる」


 そこは律が数週間前に向かった先であった。北の幸を食べてくると言い残して、律は兄妹の目の前から消えたのだ。フィールドワークと称してはいたが、単に季節の美味い物が食いたかっただけに違いない。

 ええい、似なくていいところまで教授に似ているやつめ。そう心の中で悪態をつき、兄はダウンジャケットを取りに部屋へと戻った。

 妹がとてとてと後ろを付いてきて言う。


「またお兄ちゃんだけ会いにいくの?

 ずるい!私も行く!」


「お前は学校があるだろう」


「小池君に身代わりの術を使ってもらえば……」


「彼をホンモノに仕立て上げようとするんじゃない」


 妹は残念そうに口を尖らせた。兄は連れていけない代わりに土産をきっと用意すると約束して家を出た。見送る妹は手を振りながら有名な土産の名前を片っ端からあげつらっていた。




   ○   ○   ○




 兄は飛行機を乗り継ぎ、北海道南部の奥尻島にある奥尻空港へと降り立った。

 奥尻空港は函館空港から日に数便のみ運行している地方空港であり、フェリーと並んで奥尻島と北海道本土をつなぐ貴重な交通手段である。

 地図で見る限り、北海道の面積からすれば離島ともいうべき小さな島に見えるが、面積はそれなりに広い。おおまかにだが、車でドライブすれば一周約4時間ほどの島である。


 なんだってこんな辺鄙なところに来たのだあいつはと心の中で悪態をつきながら空港を出ると、なんとものどかな風景が広がっていた。見渡す限り平原である。人家も、建物も、ない。

 うむ。と一つ頷いて空港に戻り、兄はロビーで飲み物を買った。


「これは勢いに任せすぎたか?」


 試される大地の物言わぬ雄大な試練を前に兄は自らの矮小さを悟った。

 よくよく考えてみればなぜ自分は北海道まできたのだろう。なぜ離島の小さな空港にいるのだろう。携帯を取り出して律とのやりとりを読み返す。

 それは業務連絡めいた単語のやりとりであり、最後の通信は昨晩の「奥尻島に行く」というものだった。


「いや、俺はどうやら律に毎日芋を食わせると言ったらしい。

 ならばあればこれは契約を守らせに来ただけだ、そうとも」


 自らの行動の理由を暫定的に定めることで兄はいくらか落ち着いた。


「しかし北海道といえばじゃがいもの聖地であるというのに……

 このような離島ではキタアカリもコナユキもインカの目覚めも望めん」


 一つため息をついてから再び空港を出てタクシーに乗った兄は、そこで再び試練を受けた。道南地方特有の方言に苦戦したのである。なんとか標準語で話をしてくれようと相手も努力していたが、一つのことがらを伝えるのに非常に時間を要した。


 兄はしどろもどろになりながらも「魚介類好きの半魚人のような女性が行きそうなところはどこか」と尋ね、島の南部にある港へと向かった。

 しかしながらそこでは対した収穫が無く、というかむしろ人がおらず、ただ人気のない港から眺める北の海に向かって兄は「ああ、津軽海峡冬景色」と呟いた。


 自棄になった兄はタクシーの運転手に対して美味いものが食えるところへ連れて行ってくれと頼んだ。

 律にメールでもすればよかったのかも知れないが、それをしなかったのは兄のちっぽけなプライドによるところが大きかった。

 北の大地に試されても、兄は自らの矮小な自尊心だけは守り切ったのだ。


 しかし結論から言ってしまえば、律は見つからなかった。島の東部にあるフェリー乗り場でおこなった聞き込み作業の際に、律と思しき女性がこの島に来たと言う証言が得られている。


 各地食堂で海鮮丼やほっけのしゃぶしゃぶなどを食べ、腹は膨れた。この頃にはタクシーの運転手ともある程度意気投合し、次はどこへ行くだの、あれが美味いだのを方言交じりで語ってくれていた。


「おめ、宿は決めあんか?」


「いえ、どこかお勧めの民宿はありますか」


「うじさこ。そすが」


 兄は一瞬考えた後、この数時間でなんとなく覚えた単語を繋ぎ合わせて意味を考えた。どうやら、家に来いと言っているようだ。

 申し出は有難いがと告げようとする前に、運転手が言葉を続ける。


「三平っこまぐらえ。うじなあ、なまらめえぞ」


「是非」


 意味はあまりわからなかったが、美味いものを食わせてくれるようだという気持ちは理解した。ならば厚意を無下にするわけにもいかない。

 快く返事をすると、運転手はにっかと笑って携帯電話でどこかへ電話をしはじめた。これまでに輪をかけて難解な言葉遣いであったので、どうやらかなり気を遣って話をしてくれていたようだった。

 運転手の妻がこの地方の郷土料理を作ってくれるという。ここまでうまいもの尽くしならば、もう今日の所は律が見当たらなくともよいかも知れんと兄は考えた。




   ○   ○   ○




 日も暮れ、連れてこられたのは民宿だった。

 タクシーの運転手の家が民宿だったのかと驚き、案内されるがままに部屋に荷物を置いた。運転手の妻であるという人は民宿を経営しているだけあって言葉が標準語に近く、兄はようやく自分の知っている世界に帰ってきたような気になった。


「お夕食ば下の食堂へどうぞ。

 でげん今日は三平汁くらいですけ」


「三平汁……?」


 聞いたところ、それはニシンの塩漬けと野菜から作る汁菜であり、ここ奥尻町が発祥の地とされる郷土料理であった。現在ではタラやホッケなども身として使うことが多いと言う。なるほど律はこれを食いに来たのだなと兄は思った。


 小さい民宿であったため、食堂とは言っても一般家庭のダイニングのようなもので、まるで個人の家に泊まりに来ているような感覚であった。

 俺も家庭を持てばこのように暖かい食卓を囲むことになるのだろうか。いや、別に嫌な訳ではない。しかし、自分の知らぬところで事が動いているような気がしてどうにも落ち着かないのというのが兄の本音である。


 そんなことを考えていたせいか、ダイニングに置かれていたテーブルに、律によく似た人影が見えたような気がした。民宿なのだから他の宿泊客も当然いるだろう。同じ卓を見知らぬ人と囲むのもまた旅の醍醐味である。袖触れ合うも他生の縁というやつだ。


 しかしどうにも目の前の宿泊客は律に似ている。

 相手もこちらを見て微動だにしない。お互いに知人に似ているとでも思っているのだろうか。


 いやしかし、ここまで似ている他人が存在するのだろうか。世の中には3人は自分と同じ姿をした人間がいると言うが、それはあくまでも見た目だけに限った話であって、たとえ似ていたとしても禁煙パイプを銜えているところまでは似ないだろう。


 するとこれは、率直に考えるにあたれば、一般的にいう所の、とどのつまりは、律ではないのか。むしろ律ではなかろうか。いやどうみても律だ。律本人だ。


「……律」


 兄が呆けた声でそう言うのと、律の顔がみるみる赤くなって思いっきりそっぽを向くのが同時であった。


 そして律は何一つ無駄のない動作で立ち上がり、脱兎のごとく走り出した。

 何事かとこちらを覗いた宿の主人はすぐさま兄に向かって言った。


「ぼっかけるが!

 おどごば、おなごぼっかけるもんぜ」


 日中、共に行動をした仲である。言葉は通じなくとも、兄には理解できた。


「いってきますっ!すぐに戻ります!」


 兄は走った。なんの因果か、ここで律に会えたのだ。今を逃してはいけない気がする。そう、兄の直感が告げていた。




   ○   ○   ○




 律に追いついたのは、すぐだった。

 海の見える道路沿いの街灯の下で、兄は律の手を掴む。


「待て待て!何でアンタがここにいる!?」


「待てはこっちのセリフだ。なぜ逃げる」


 律はつないだ手を振りほどこうとしたが、兄は離すまいとしっかり掴んでいた。ひとしきり試した挙句あきらめたのか、律が大人しくなった。それを感じて、兄も掴む力を緩めた。

 そして律が口からパイプを外そうとするのを見るやいなや、もう片方の手でそれを制した。


「そのパイプ、やはり何かあるな?」


 兄は朝からずっと考えていた。律がパイプを使うようになったのは数年前からだ。つまり、自分たち兄妹が母を亡くした頃だ。兄妹が芋に念を込められるようになったのもその頃からである。この符号の一致と、律がパイプを外すのを見た後に記憶の欠如が起こることに思い至り、兄は事実を確認するためにここまで来たのだ。


 律はびくりと一つ身を震わせたかと思うと、観念したように口元にやっていた手を卸した。もはや抵抗も逃亡もしないと踏んだ兄は静かに律から手を離す。


「いつ気づいた?」


「確信を得たのはたった今だ。

 富倉祭の一件でおかしいとは思っていた」


「分かった。話す」


 律は自らの持つ特殊な能力のことについて話をした。別にパイプでなくとも何かを銜えていれば良いということ。会話した相手との間にだけ記憶を失くす効力が発揮されること。そしてどこか安心したような顔をして、能力を知った相手には効果がなくなることを告げた。


 街道沿いに広がる真っ暗な海を横目に見ながら、兄はもう一度、今度は静かに律の手をとった。


「では、俺にはもう効果はないわけか。

 俺の本心はすでに知っているのだな」


「呆れるほど聞いたさ。

 アンタが妹ちゃんをどれだけ大事に思ってるかも知ってる。

 でも、アンタだけが背負い込まなくたっていいじゃないか」


「それも富倉祭の時に分かったことだ。

 妹は妹なりに考えていたのだな」


「気づいてなかったのはアンタだけだこの芋兄貴が」


 そこで小さく咳ばらいをして、兄はまっすぐに律の目を見た。律の唇に手をのばし、銜えていたパイプをそっと外す。


「律。俺は芋を愛する男だ」


「ああ、知ってる」


「芋を愛するがあまりところかまわず芋への愛を語る変態だ」


「それも知ってる」


「そんな男でもいいなら、俺と結婚してくれ」


「ダメだと言っても却下するんだろうが」


「当たり前だ。俺は律を愛しているのだから」


「なら幸せにしろこの芋野郎」


 街灯の灯りの元、二人はそっと唇を重ねた。




   ○   ○   ○




 宿に戻った二人は郷土料理を食べ、酒を飲み、民宿の夫妻と大いに楽しい夜を過ごした。特に主人は兄に向かって何度も繰り返し「わのわげ頃みてっけさ」と肩をたたいていた。

 

 翌日、タクシーで二人は空港に送ってもらい、去り際に主人は「したっけ、まだご」と握手してくれた。兄はその手を力強く握り返し「必ず」と返した。


 ロビーで飛行機の搭乗手続きを済ませ、時間まで二人はロビーで缶コーヒーを飲んでいた。


「アンタ、いつ方言なんか勉強したんだ」


「男と男は心で通じるものだ。

 また来いと言っていた。なんだ、嫉妬したか?」


「まさか。変態ぶりが上がったなあと思っただけさ」


 兄は笑みを浮かべながら缶コーヒーを一口飲んだ。そして思い出したように律がパイプをしていない事に気が付いた。昨日の話からすれば、確かに二人でいる間は律にはもう必要のないものだ。あえてそれを話題にするものでもあるまいと兄は別の話題を持ち出した。


「そういえば、なぜ昨日は逃げたのだ」


「あん?恥ずかしかったからに決まってんだろうが。

 いいか?アタシは何度もアンタの本音を聞いてたんだ。

 ここまではいいか?」


「人権侵害だが不問にしよう」


「おう、でな?いつもいつも結婚はまだだって言われてた訳よ」


「お前、そんなことを俺に聞いていたのか」


「うるさい。で、あの文化祭の日は妹ちゃんがいたろ?

 アンタの本音を聞いてもらおうかと思ったんだアタシゃ」


「なるほど。繋がった。

 どのみち結婚を先送りされるとタカを括っていたものの、

 思わぬプロポーズに逆に恥ずかしくなったのだな。

 それでしばらく家にも来なかったのか」


 兄が事情を察すると、律は顔を赤くして俯いていた。


「詳細に言うんじゃねえよバカ」


「はっは、律にも可愛い所があるものだ」


 そして兄は追撃の手を緩めなかった。隠していたと思っていた自分の本心があずかり知らぬところでとっくに相手に知られていた挙句、肝心のプロポーズすら記憶に残っていないとなれば嫌味の一つや二つは言いたくなるものだ。


「小池学生はお前の魅力を滔々と語っていたなあ。

 しかし俺ならばあの数倍は言えるだろう」


「言えるもんなら言ってみろこの芋」


 兄は飛行機に乗って函館空港に着くまで、本当に律の魅力をとめどなく話し続けた。しまいには律が「分かった、アタシが悪かったよぉ」と羞恥やら何やらで紅潮した頬を手で覆いながら懇願した。兄は「分かればいいのだ」と満足げであった。


 函館空港から本州を目指す飛行機には乗らず、二人はそのまま札幌へと向かった。律を連れて帰ると連絡した兄が、妹から激しく責め立てられたためである。妹いわく、自分にも幸せのおすそわけが欲しい。幸せを感じられるものを持ってこい、具体的には札幌の時計塔の前で二人並んで写真を撮ってこい。とのことだった。


「家の主導権って、完全に妹ちゃんにあるんじゃねえ?」


「今頃気が付いたのか。あれは手ごわい小姑になるぞ。覚悟しておけよ」


「いや、アンタの立ち位置が低いだけだろ」


 札幌に向かった二人は札幌時計塔の前で写真を撮った。平日ということもあって人は多くなかったが、時計塔内の資料館には二人とも立ち寄ろうとはしなかった。兄は芋を愛し、律は魚介類を愛するからである。時計には残念ながら興味を示さなかったのだ。


 形だけでも観光しておくかと二人はそのまま札幌大通公園に赴いた。特に何もイベントらしきものは無かったが、屋台に売られているじゃがバターとイカ焼きを二人はそれぞれ食べた。


「なあ、そういえばさ」


 律が兄の食べているじゃがバターを見ながら言う。


「それ、今アタシが貰ったら惚れ薬になるのか?」


「なっ!? 情報の出どころは……妹か。

 結論から言おう。これは惚れ薬にはならん」


 兄は、作った芋料理にしか効果が及ばないことを語った。


「しかし、もう律には効果はあるまい」


「そうなのか?」


「家族には効果はないのだ。

 正確には、家族と認識した相手には、だな。

 でなければ妹にも効いているはずだろう?」


「ああ、確かに。じゃあアタシに効果はない、と」


「うむ。安心して俺の芋料理を食べるがいい」


「ま、アタシゃ自力でアンタを好きになった訳だし。

 今更、惚れ薬の一つや二つで変わらんけどな」


「俺も惚れ薬の力などなくとも振り向かせられた」


「言ってろ、芋ニート」


「なんだと半魚人めが」


 二人は軽口を言い合いながら笑いあった。決して悪意があるわけではなく、これが二人の距離感なのである。それはこれから先も変わることはないだろう。

 兄と律はそのまま札幌で美味いものを食べ、帆立や鮭、棒鱈、芋、銘菓類などを買い込んで翌日に連れだって家へと帰ったのだった。




   ○   ○   ○




 五章・芋と魚と家族の形




 律が兄の家で生活するようになってから一ヶ月ほどが経ち、役所への婚姻届の提出やら、各種名義の変更などで年末は慌ただしく過ぎていった。律は家にいる間はもうパイプを銜えなくなっていた。妹にも能力の事を話したからである。

 そして律の家族と兄は当然ながら面識がある。幼馴染であるのだからそれは不思議な事ではない。兄が改まって挨拶に行った時も、律に向かって「捕まえるのが遅い」と言ってのけたくらいであった。兄の家庭に父母がいないことは知っていたので、「アンタがしっかりするんだよ、でもいつでも頼っておいで」と兄に激励もくれた。兄は苦笑いをしていた。

 妹は大学入試が近づいてきたこともあってここの所は部屋に籠って勉強することが多くなった。


「妹ちゃん、夜食作ったよ」


「いつもありがとう、おねえちゃん」


 年末年始は驚くほど何事も無く過ぎた。妹が受験生だったということもあっただろうが、もともと兄も律も形式ばったことに気を回す人間ではなかったからだ。


「気にしなさんな。体調にはほんと気をつけなよ」


「うん、お兄ちゃんの二の舞にはならないから大丈夫!」


「アイツはほんと馬鹿だったよなあ」


 笑いながら、二人で兄の受験失敗談で盛り上がる。兄は自らの大学受験の際に神頼みと称して全国の芋と名のつく神社を片端から詣で、その疲れから試験当日に寝込んでしまった過去を持つ。幸い前期試験だったため、後期試験では律や妹を始めとする周囲の人間に徹底的に行動を監視され、まるで護送される犯罪者のような雰囲気で試験会場へと連行されたのだった。


「兄の悪口はそこまでだ二人とも」


 兄が自室から顔を出す。部屋で芋に関わる書籍を読み漁っていた兄は不穏な会話にたまらず割って入った。


「事実だろうが。ま、反面教師としては最高だよアンタは」


「なにおう。俺ほどできた人間もおるまい。

 人間、一つところに己を懸けるのが常道だろう」


「和を以って尊しと習わなかったか?

 合わせる人間の身にもなれ」


 あきれたように律は言い、妹はそれを見て微笑ましいと思う。


「はいはい、夫婦喧嘩はそこまでにしてよね。

 ねえ、お兄ちゃんってどうしてそんなに芋が好きなの?」


 妹はふと思いついた質問をぶつけてみた。当然のように受け入れていたが、そもそも兄の芋に対する情熱はどこから湧いてくるのだろう。いつからだったろうと思い返してみても思い出せない。兄はいつでもこうだった気がする。


「そういやアタシも聞いたことなかったな。

 中学ん時にゃあもう、イモイモ言ってたよな」


「そんなに大した話でもないぞ。

 あれは小学5年の運動会の時だ」


「何かあったか?」


「母が弁当を作ってくれた。妹よ。お前はまだちみっ子だった。

 ぴよぴよと音のなる靴を履いて母と共にいたのだぞ」


「思い出せないや」


「デザートが大学芋だった。

 兄ちゃんは生まれて初めてそれを食べたのだ」


「あ、思い出した。あんたノドに詰まらせてたね。

 周りが水を飲め、茶を飲めってのに全然飲まねえの」


「それほど惜しかったのだ。それほど美味かったのだ。

 流し込んでたまるかと思ったのを憶えている」


「結局気絶して保健室いったんだよな。

 おばさん、大慌てでアンタ担いで行ってさ。

 妹ちゃん置き去りにされたんだぞ」


「ぴよぴよの私が?」


「ああ。で、帰ってくるまでアタシが見てたんだ。

 妹ちゃんはあの時も今も可愛いのにアンタときたら……」


 どことなく、兄と律の顔が穏やかである。思い出話の中に出てくる母を思い出しながら話しているからかも知れないなと妹は二人を見ていて思う。自分の記憶にある母の姿は台所で料理をしている姿である。


「まあ、それがきっかけだな。後はまさに芋づる式だ。

 芋への興味がどんどん膨れ上がっていった」


「え、それだけ?」


「うむ。きっかけなど、運命の切れ端など、そんなものだ」


 もっと大げさなエピソードがあるかと思っていた妹は拍子抜けした。


「妹よ。お前にもいつか分かる。手繰りよせて初めて分かるのだ。

 兄ちゃんの場合はそれが芋だった。それだけだ」


 そんなものかなあと妹は分かったような分からぬような顔をして「ふうん」と言いながら一つ伸びをした。


「おいコラ。アンタの運命の相手はアタシだろうが。

 浮気か?それは浮気と捉えていいのか?」


「芋に嫉妬するヤツがあるか!」


「おねえちゃん、意外とツンデレなんだねー」


 頬を膨らませる律の機嫌をとるのに、兄は大変な労力を要したという。




   ○   ○   ○




 センター試験も終わったある日。妹は束の間の休息と称してコタツを占有しており、兄は数日前から隙あらば台所に立っていた。なんでも、手間のかかる料理をしているとの事で、何を作っているのかと聞いても「美味いものだ」としか答えてくれなかった。律は変わらず助教授として働いており、家の家事全般は相変わらず兄の担当するところであった。律はできる事を手伝うと申し出ていたが、兄が頑として譲らなかった。


 今日の兄はどこか緊張しているように見える。

 いつも間延びした雰囲気を纏わせている兄が襟を正すのは芋料理を作っている時くらいのものだと妹は思っているので、これは非常に珍しいことであった。


「妹よ。今日は来客がある。

 一緒に夕食を食べるからな」


「んー、分かったー。

 誰が来るの?おねえちゃんの友達?」


「なぜ兄ちゃんの友人の可能性を疑わないのだ」


「お兄ちゃんに友達いるの?」


「いない」


「ほらね」


「ま、まあいい。お前も前に会っただろう。

 律の研究室の教授だ」


 大騒ぎをしてしまった学園祭の記憶を引き出し、妹は申し訳ない気持ちになった。確かにちらりと会ったような気がする。穏やかそうな人だった。


「ふうん。おねえちゃんが教授になるとか?」


「はっは、まだまだ早い。

 詳しくは夕食の時に話す」


 そう言うと兄は再び台所に戻り料理を再開するのだった。


 夕刻、律が大学から戻って来た。彼女は帰ってくるなりパイプを外してコタツに潜り、まだコタツに陣取っていた妹に話しかけた。


「寒いなあ。あ、聞いてくれよ妹ちゃん。

 今日、うちの教授がなんかそわそわしてたんだよ妙に」


「一緒に来なかったの?」


「は?」


「お兄ちゃんが、今日は教授と一緒にご飯食べるって言ってた」


 エプロンをつけた兄がリビングに来て、「おかえり」と声をかけた。


「今日、教授来るのか?」


「聞いていないか?自分で伝えると言っていたが」


「なんかそわそわしてんなあと思ってたけど。

 何も聞いてないぜアタシは。何かあんのか?

 あ、ついにアタシが教授に推薦されるのか?」


「自分でもまだ早いと分かっているだろう」


「だよなあ。なんだろ、わかんねえな。

 そういや、妙にかしこまった服だった気もする」


 その時、インターホンのチャイムが鳴った。それが教授だと分かると、妹と律は慌てて自室へと走った。そのままでいいと兄は言ったのだが、「そうもいくか、この芋!」「私、部屋着だもん!」と兄を揃って非難した。

 兄は玄関を開けて教授を出迎えた。なるほど確かに整ったスーツを着ている。いつもラフな格好でフィールドワークに出る教授を見ているならば、確かに違和感を感じるだろう。


「いつもの格好で良かったと思いますよ」


「いやあ、緊張してしまってね。

 律君に言い出すきっかけも掴めなかった」


「意外な一面ですね」


「いやあ、すまない」


 教授をリビングに案内し、兄はしばらく教授と話をした。しばらくすると律と妹もそろそろと戻ってきて、4人はコタツを囲む形で座った。ではさっそく食事の用意にと兄が立ち上がる。

 何やら気恥ずかしいと感じているためか、律もすぐさま言った。


「ア、アタシも手伝おうか?」


「うぇっ!?」


 妹の口から妙な声が漏れる。確かにこの面子で教授と妹がリビングに残っても気まずいだろう。それを察したのか律は複雑そうな顔をしている。


「じゃあ私が手伝うよお兄ちゃん!」


「いや、ここは僕が手伝おうか」


 教授がおもむろに立ち上がる。「いや、教授は座っててくださいよ」と慌ててとめる律を見ながら、兄はコントのようだと愉快に感じていた。この場でただ一人、いつもの普段着である兄は静かに言った。


「では父さん、お願いします。

 今日は前に言っていた海老芋ですよ」


「おお、それはいい。楽しみだ」


 男二人が台所へ消えていくのを、女性陣は固まって見ていた。視線はリビングと台所をつなぐ空間に固定されたままだった。


「今、お兄ちゃんなんて言ってた?おねえちゃん」


「聞き間違いかな、うん、きっと」


「そ、そうだよね!」


 二人は混乱するまま、料理が出来上がるのを待った。台所まで確かめに行く覚悟を決めるには、あまりにも唐突な話題であったため、二人は天気の話題もろもろでなんとか場を繋いでいた。


 兄が一日かけて用意していた食事が卓に並ぶ。それはどれも兄が得意とする料理であった。つまり、芋を使った料理だった。これだけ芋が並んでいれば惚れ薬としての効果は抜群だろう。見て驚いたのは妹である。よもや教授を惚れこませてしまおうと考えているのではないかと内心、気が気でなかった。

 料理と兄とを交互に見る妹の視線に気づき、兄は目で落ち着けと諭し、口を開いた。


「食事の前に紹介しよう。

 こちら、うちの父だ」


「え、と、あの……。え?」


「教授……が?」


 脳の回転が追い付いていない妹と、何を言っているのだこいつはと兄と教授を見る律。答えるように二の句を継いだのは教授であった。


「正しくは元・父だけれどもね。

 僕は三行半を突き付けられた人間だよ」


 そう言って、教授は、いや兄妹の父は遠い目をした。しかしすぐに視線を料理に移す。


「まあまあ、話は食べながらだ君たち。

 冷めてしまってはもったいない」


 箸をとり、教授は小皿に乗った料理を取り分けて一口食べ、「うん、実にうまい」と言った。それを皮切りにめいめいが食事を始める。


 父はゆっくりと語った。


 父もまた、兄や律のように食を愛する人間である。それは今も昔も変わることはない。そして父は結婚を機に、それらの食へのこだわりを捨てる決意をした。


「僕も家庭を持ったならば、まして親となったならば、だよ。

 気軽にうまいものを食べに出てはいけないと思った」


 父は己を捨てて家庭を築くことを選んだ。


「しかしそれがいけなかったらしい。

 君らの母の目には、無理をしている事がばれていた」


 もとより風来坊の気質のある父である。それは兄も、同じ研究室にいる律もよく知っていた。


「もう20年近くも前になるかなあ。

 それなりに学者として頑張ってはいたのだがね。

 どうにもこのままでは大成しないらしかった。

 でもね、それでもいいと思っていたのだよ。

 僕と、あいつと、息子と。お腹の中の娘。

 四人で暮らしていけたらそれで良いと」


 静かに、静かに語られる話に、三人は聞き入っていた。父の声には、どこか後悔の念があるように感じられた。


「しかしね。妻に怒られてしまった。

 やりたいことをやらない僕など、芋以下の存在だと」


 そうして父は叩き出されるように食民俗学へと逃げ込み、その研究に没頭していった。家庭の事を忘れるほどに研究の成果は上がり、教授としての地位は高まっていった。


「心のどこかで後悔していたのだろうね。

 僕は家庭を捨てた人間だと、自分を卑下し続けた……」


「それでいいでしょう、別に」


 兄が不意に口を挟む。里芋の煮っ転がしをもぐもぐとやりながら兄はいつも通り平然としていた。


「家族の形は、人それぞれです」


「しかしだね……」


 言いよどむ父に、妹が言葉を紡ぐ。


「私は、お父さんにいて欲しかったよ……。

 どうして、お母さんが死んじゃった時に言ってくれなかったの?」


「済まない。今更、家族面などできようはずもないと……」


 父は俯いた。そして母を亡くした年、父はちょうど日本にはいなかった。食材を求めて諸外国を巡り、戻ってきてしばらくしてからその事実を人づてに聞いた。

 そして兄は遺品の整理や役所への各種手続きを済ませる中で、自らの父親がかつての恩師である教授と同一人物であることを知ったのだった。


「アンタ、何で妹ちゃんやアタシに黙ってたんだよ。

 言ってくれたってよかっただろう」


 律の目が非難の色を帯びている。兄はこれまた平然と山芋の短冊を口へと運んだ。


「何かワケがあるのだろうと思ってな。

 実の父とは言え、一人の人間だ。

 夫婦間の問題にやすやすと立ち入るものではない」


「それにしたって……」


 納得がいかないと言ったように律は乱暴にじゃがいもの天麩羅をかじる。


「僕が黙っていて欲しいとお願いしたんだよ。

 やはり、罪悪感の方が大きくてね……」


「罪悪感は煮ても焼いても食えんでしょう。

 今日、ここに父として来てくれた。

 俺は、それでいいと思っています」


「……ありがとう。本当に……。

 僕はなんと言えばいいのか……」


 そして、兄は周りをゆっくりと見回した。


「律よ。父が嘘をついていると思うか?」


「……あっ」


 弾かれたように律が言い、口元へ手をやる。律はもう、家の中でパイプを銜えていないのだ。つまり、父の懺悔は、悔恨の言葉は、何一つ飾りのない本心なのだ。


「妹よ。父が惚れているように見えるか?」


「見え……ない」


 それはつまり、兄や妹が心のどこかで父を家族だと認めている証拠に他ならなかった。芋を使った惚れ薬は家族には効き目がないのだから。


「俺はな、思うのだ。

 家族の形は、一つではないと」


 兄は思っていた。母が亡くなってから発現したであろうこの奇妙な能力は、今日、この日のためにあったのではないかと。母が兄妹二人と律に遺してくれたものなのではないかと。

 もちろん、科学的根拠はないし、実際にそれらがに証明されている訳でもない。しかし、これらの力が、兄妹と父を繋ぐ絆のように思えて仕方がなかったのだ。


「芋ばかり食う旦那がいてもいいではないか。魚を寵愛する妻がいてもいい。

 一個小隊を率いる妹がいてもいいだろう。ならば風来坊の父の何が悪い」


 兄は笑った。そして言った。


「これがうちの家族だ。

 異論はあるか。あればことごとく却下だ」


「アンタ、ほんとに屁理屈ばっかりだな」


 律も仕方がないというように首を振った。妹も、大きく息を吐き出してそれに続く。


「お兄ちゃんが言うならしょうがない」


 父は静かに一筋、涙をこぼした。


「君は本当に昔の妻にそっくりだ」




   ○   ○   ○




 穏やかに夕食が進む中、兄は「今日のメインです」と台所から人数分の小鉢を運んできた。それは兄が数日かけて用意していた料理だった。


「これは……"いもぼう"だね」


「ええ、前に言っていた海老芋が手に入ったので」


 いもぼう。海老芋と棒鱈を炊き込んだ料理であり、古都・京都の冬の名物としても有名なものである。兄がこれを作ったのには訳があった。


「出合いものか……」


「え、っと。お父、さん。出合いものって?」


「無理はしなくてもいいぞ、妹よ」


「私なりに頑張ってるんだからお兄ちゃんは黙ってて!」


 出合いもの。季節の食材の取り合わせの中でも、特に相性の良い海の幸と山の幸を材料に使った料理であり、調理の際にお互いがお互いの味を引き出す良い組み合わせのことを言う。


 特にこのいもぼうは乾燥した棒鱈を数日かけて水でもどし、さらに数日煮込むなど、手間暇をかけて作られる料理である。


「あー、こないだ北海道で買った棒鱈か。

 やっと食わせてくれるのか」


「棒鱈は確かに北海道の特産物だ。

 しかしこの料理は京都の名物だ。

 なぜだか分かるか、妹よ」


「え、知らない。なんだろう、京都で魚を食べたかったから?」


「はっは、30点やろう」


「ゼロじゃないんだ、やった」


 棒鱈は、鱈を天日で干し上げたものであり、保存に向いている食材である。平安の時代に都への献上品として棒鱈が京都に持ち込まれたのがその始まりであった。

 乾燥させたことにより旨味は凝縮され、より深い味わいをもたらす。炊き合わせる際にも、棒鱈から出る成分が芋の煮崩れを防ぎ、また海老芋から出る灰汁が棒鱈の身を柔らかくする効果があるのだ。非常に理にかなっている食材の組み合わせなのである。

 この食材の組み合わせの妙により、いもぼうのことを「夫婦めおと炊き」と呼ぶ地域もあるのだ。それらの事を簡潔に兄は語った。


「律と一緒になるのに、これほど良い組み合わせもないでしょう。

 どうしても父さんにこれを食べて欲しかった。

 この小鉢のように、良い所を合わせる夫婦でありたい」


 父は「うん、うん」と涙声になりながら一口食べた。そして小さく、掠れた声で「うまいよ、これは。うまい」と呟いた。


「僕は、妻の気持ちを分からぬイモだった。

 二人にはその心配はいらないね」


 涙を拭って父は笑った。兄は胸を張って言う。


「父子揃ってイモ。いいではないか。

 俺はイモであることを誇りに思うぞ」


「そんなの、お兄ちゃんだけだよ」


「根っからの芋野郎だな、アンタは本当に」


「芋に根が生えて何が悪い。

 芋を愛するが故に兄なのだ!兄が思う故に芋はあるのだ!」


「いいから食うぞほら。

 ご高説はいいから冷める前に食わせろ」


「あ、どうぞお食べ下さい」


 兄は高速で手のひらを返し、四人は朗らかにいもぼうを食べた。その日の食卓は遅くまで団欒の気配が佇んでいたのだった。




   ○   ○   ○




 春が訪れ。


 教授は変わらず大学で教鞭をとり、気が向いた時にふらりとうまいものを食いに出る。

 助教授は魚介類を愛で、研究室の学生たちはめいめいに好きな食材を研究する。


 妹は大学に合格し、義姉とともに毎朝大学へと通っている。


 兄は変わらず無職である。

 妹が大学に入学し、自らも所帯を持ったことをよい機会とみて再び定職に就こうと考えていた。現段階では状況は芳しくないが、兄は変わらず兄のままである。


「芋が芽吹くには時間がかかる。

 しかし大丈夫だ。俺は冬を越えて栄養を蓄えたイモだ。

 家族という良質の土壌を得た今、俺に怖れるものはない」


 兄は変わらずイモ野郎であり、イモ兄貴、イモ男爵、ポテト伯爵、ポテ男である。妻を始め、妹も父もそれを認めながら家族そろって暮らしている。

 本人たちがいいと言っているならば、それでいいのである。普通の家庭と違ってもいいのである。家族の形など、芋のように不揃いで、てんでばらばらなものなのだから。




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