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『芋と魚介類はかく語りき』前半 作者 三衣千月(ミツイ チヅキ)

URL:http://mypage.syosetu.com/207827/


一言:人生いろいろ、芋にもいろいろありまして。

   形が違ってもいいじゃない。ころころ転がったっていいじゃない。

   だって、芋だもの。   みつい


   そんな気持ちで書きました。

   十人十色な芋作品の一つに並べば光栄です。

一章・芋と兄妹



 秋という季節ほど多様性をもった季節もない。

 多くの人がそれぞれの秋を楽しみ、秋について思索する。読書に精を出す人もいれば、体を動かすことに余念のない人もいる。また、数多くの海山の恵みを存分に味わい尽くす人も。


 そしてここにも一人、秋を存分に楽しもうとする男がいる。

 家の台所に立ち、製菓道具を並べながら満足そうにしているのは芋をこよなく愛する男だった。その男は芋好きが高じて所かまわず芋についての愛を語りだすので、周囲の人間からはイモ野郎、イモ兄貴、イモ男爵、ポテト伯爵、ポテ男その他、様々な名で呼ばれながら遠巻きにされてきた。

 本人はそれらのことについて大変気に入っている。限りなく汚名に近い勇名であるが、本人が気に入っているならばそれはそれでいいのかも知れない。


個人の趣味嗜好など、まるで芋だと男は言う。芋のように不揃いで、てんでばらばらなのが世の常だと思っている。


 そんな男が西日の差し込む台所で手に持っているのはサツマイモだった。

 秋の盛りに旬を迎えるこの芋は、男の好む芋の中でも常に上位を占めている。


 庭で石焼にされたその芋は甘い香りを放っていた。石焼用の窯は、当然ながら男の自作である。芋を二つに割ってみるとまさに黄金とでも呼ぶべき色合いで中身がぎゅうぎゅうに詰まっていて、立ち上る湯気でさえもどこかしら輝きを放っているように見えた。


 他に誰もいない家の中で、男は口の端をあげてにやりと笑う。


「いい芋だよ、うん」


 幼子をあやすような優しい声で男は手に持った芋を撫でながら呟いた。その顔はまさに恍惚と言った表情であり、男がいかに芋を愛しているかがよく分かるものだった。


 そんな男が芋を愛でている所に聞こえてきたのは、ぱたぱたと廊下を鳴らす足音と共に台所に顔を出した彼の妹の声だった。


「お兄ちゃーん!お兄ちゃーん!

 うわキモッ。またニヤけてる」


「おかえり、妹よ。今日の芋は極上品だ。

 だからこれは仕方がない」


「キモい所は否定しないんだ。

 あ、焼き芋じゃん。半分ちょーだい」


 男には妹がいる。

 兄と違い、社交性その他もろもろをオーバースペック気味に搭載し、通う高校の中では男子学生のみならず女子学生からの人気をも集めているが、彼氏はいない。人気はあるのだが、誰もが口をそろえて人気すぎるが故に手が出せないとこぼすのだ。

 もちろん、妹もそれに気が付いている。非公認のファンクラブめいたものまであるらしい。しかし妹の本音としては親密なお付き合いの一つや二つしてみたいお年頃の18才なのだ。「受験生だって恋をする権利はある」とは、妹の口癖である。


「で、返ってくるなり台所に駆け込んできてどうした?」


「あ、うん。惚れ薬作って」


 兄から渡された半分の焼き芋をかじりながら妹は言う。


「またか」


「また」


「あのなあ。女子高生たるもの、惚れ薬くらい作れんと。

 いつまでも兄ちゃん頼りじゃ成長せんぞ?」


「いやあ、分かってるんだけどさー」


 もぐもぐと芋を食べることは決して止めずにあっけらかんと言い放つ妹に、兄はやれやれとため息をつく。手に持ったもう半分のサツマイモを妹に向けて、ゆらゆらと振ってみせた。


「ところで、さっき兄ちゃんの事をキモいとか言ってなかったか?」


「え、言ってないよ?

 お兄ちゃんは世界一カッコいいじゃない。

 やだなあもう、耳掃除したげよっか?」


「妹リフレはパスだ。法外な料金を請求されそうだからな。

 それで、誰に渡すんだ?」


「新聞部の人。一つ下なんだけどね。

 こないだ取材に来てくれてさ。校内新聞の。

 もうすっごい可愛いの。必死っていう感じで!」


「分かった分かった。なら、たまには手伝え。

 夕食が終わったら一緒に作るぞ」


「お兄ちゃんだけで作ったほうが効果高くない?」


「将来のためだ。

 手伝わんと作ってやらんぞ」


「ちぇー。しゃあない。

 ところで今日の晩御飯は?」


 妹が食べ終わった焼き芋の皮を自然と兄に渡す。


「何か食べたいものはあるか?」


「芋料理以外」


「レパートリーの八割九割が削られた。

 なんてこった。とんだ縛りゲーだ」


 受け取った皮を流しの三角コーナーに投げ入れ、兄はわざとらしく落胆の仕草をしてみせた。


「にひひひ。

 じゃあ私、課題があるから!よろしくねー!」


 言いたいことだけ言って、妹は2階の自室へと上がっていった。兄は手に持った半分の焼き芋にかじりつきながら、「芋を使えないとなると、普通の料理か。つまらん」とよく分からない呟きをこぼすのだった。




   ○   ○   ○




 その日の夕食は筑前煮と焼き魚だった。何の変哲もない普通の夕食を食べ、兄と妹は再び台所へと立っている。


「では兄上!

 よろしくおねがいするであります!」


「よかろう!

 まずは手を洗うのだ、妹三等兵!」


「サー!」


 妙な小芝居をしながら二人は惚れ薬を作るための材料を揃え、それに必要な器材を並べていく。


 はかり、ふるい、ボウル。そして夕刻に焼いていた芋、生クリームにバター。これだけ見れば、ただのお菓子作りに見えるが、これはれっきとした惚れ薬の材料である。


「バターの湯煎と芋の裏漉しを同時進行で行う!

 準備は良いかッ!」


「サー!バターの湯煎の後、砂糖および生クリームを量り取るであります!」


「良い手筈だ!

 裏漉しはこの兄に任せておけ!

 完膚なきまでに滑らかにしてみせる!」


「頼れる兄は素敵であります!」


「褒めても何も出んぞ!

 せめてつまみ食いを許可するくらいである!」


「やったであります!」


 珍妙なやりとりではあるが、やっていることはまったくもって普通のお菓子作りである。これがどうして惚れ薬になるのかと疑問に思うだろう。


 実は、この兄と妹は少しばかり特殊な技能を持ち合わせている。

 いや、特殊と呼ぶには少し物足りない力かも知れない。


 作ったものに魂が宿る。そんな表現を聞いたことがないだろうか。人形であったり、美術品、工芸品であったり、古い物にも念が籠るとよく言われている。もちろん、科学的根拠はないし、実際にそれらの力が物理学的に証明されている訳でもない。

 しかし、あるのだ。理論的ではない言い方になってしまうが、あるからあると言ってしまわなければ説明がつかない。


 この兄妹は、意図的に作ったものに念を込めることが出来る。ただし、決して万能な力などではなく、出来ることはたった一つだけ。好意の感情を増幅させる念を込めることだけが、兄妹に出来ることである。

 あくまでも増幅するだけなので、元がゼロであれば効果は無いうえに、念を込めることが出来るのは芋を使った料理だけ。しかも手渡した相手が目の前でそれを食べないと意味がなく、家族には元々効果がないなど、条件は決して優しくない。

 しかし条件さえ満たせば、第三者が用いても効果はあるのだ。兄は以前、それに着目して一稼ぎしようとした事があるが、惚れ薬と銘打ったそれが非現実的過ぎたためか近隣住民に通報され、危うく警察の世話になるところであった。


「よし。タネは出来た」


「サー!後はオーブンでありますね!上官殿!」


「あ、悪い、そのノリもう疲れた」


「うわ、ひっど。合わせてあげてたのに」


「楽しんでたのはそっちだろう。ほれ、焼くぞー」


 兄はいそいそとオーブンを操作しはじめた。二人でせっせとタネを成形し、艶出し用の卵黄をハケで塗っていく。

 レシピも至って普通。出来上がるのは、見た目も味も立派にスイートポテトであり、それ以外の何でもない。


 焼きあがったそれらを手早くラッピングしていく。


「ここが一番の肝だぞ、妹よ。

 ラッピングを一秒短縮できれば、10%美味しくなると思え」


「何それ。そうなの?」


「しっとり感が段違いになる。

 ほっておけば水分が抜けてパッサパサ」


「なーる」


 ちなみに、この時点ですでに念は込められている。どの段階でどれだけ込められているかは本人たちにも分からないらしい。


「ねえ」


「ん?」


「お兄ちゃんが作ると、どうして効果が高いのかな」


「そりゃあ、あれだ。

 芋が好きだからに決まっている」


「じゃあ絶対にお兄ちゃんには敵わないじゃん」


 がっくりとうなだれる妹。兄の芋に対する情熱は並大抵のものではないことを良く知っているからだ。どれくらい並外れているかと言えば、芋を追及すると公言して自ら進んで職を手放し、牙城である自宅で日がな一日を芋と戯れる程度であり、それゆえ、ご近所さんから芋ニートと陰で噂されているのも当然なのである。


「兄ちゃん以上に芋好きなヤツがいたら連れてこい。

 もしいたら、の話だけどな」


 兄はからからと笑いながらも、ラッピングの手を休めることは無い。美味いものを作りたい心意気はすでに無意識化で作業することさえも可能にしたようだった。

 そんな芋にまみれた兄を尊敬するわけにはいかぬと肝に銘じつつも、そのどこか超人めいた泰然さに妹は呆れを通り越して不思議な感情さえも覚えるのだった。


 こうして、スイートポテトの形をした惚れ薬が完成した。

 許可を得て一つだけつまみ食いした妹の証言によれば、「これを毎日食べられるなら、私は世界を敵に回してもいい」とのことだった。




   ○   ○   ○




 翌日。

 夕食の準備にと兄がせっせと台所で料理をしていると、妹が高校から帰ってきた。


 今日はてっきりそのままデートにでも行くのだろうと思っていたが、帰ってきた時間を確認すると放課後すぐさま帰ってきたような時間である。


「どうした、妹よ。

 お目当ての彼が欠席でもしていたか」


 台所から顔を出してそう声をかけるが、妹から返事は無い。ゆらりとリビングに入ってきた妹は兄の姿を確認するなり膝から崩れ落ちた。


「何事ッ!?」


 慌てて駆け寄る兄。ぼそぼそと何かを呟いているようだったので耳を近づけて聞いてみると、どうしていつも、どうして、と繰り返していた。

 すうっと伸びた妹の手が兄の肩を掴む。


「お兄ちゃんはどうして……」


「い、妹よ、痛い痛い」


「どうしていつも私の恋路を邪魔するのッ!?」


 大きく見開かれた目。ぎりぎりと力の込められる手。髪が一筋前に流れて、まるでホラー映画の幽霊のようだと兄は痛みをこらえながら考えた。そして、ああまたダメだったのかと事態を半ば呑み込んだ。


「待て待て。昨日は素材も申し分なかった。

 完璧な惚れ薬だったはずだ」


「じゃあどうして食べた相手がいきなり五体投地するのよっ!」


 五体投地。チベットやインド発祥の仏教において、相手に最上級の敬意をもって行われる礼拝の方法であり、両ひざ、両ひじ、額を地につけて行う礼拝である。

 平たく言えば、うつ伏せに寝るような姿勢になる。土下座の上位版とでも思っていただければ良いかも知れない。


「そりゃあ、崇め奉る存在だと認識されたんじゃないか?」


「私は神にも仏にもなりたくないの!

 心ときめく彼氏が欲しいの!」


 兄の肩を掴む手にさらに力がかかる。


「やめろ!頼むから右肩はやめろ!

 料理が作れなくなる!」


「うぅ……お兄ちゃんのバカぁ!

 なんでこうなるのおおぉ」


 ついに泣き崩れる妹をなんとかなだめ、リビングのテーブルへと座らせる。まだくすんくすんとすすり泣く妹にホットミルクを渡し、落ち着いて話せと兄は言った。


「また一人、妹の信者ができてしまったなあ」


「いらない……私を対等に見てくれる優しい彼氏が欲しい」


「で、つまりはあれか?

 手渡した惚れ薬が美味すぎて、好意が信心にジョブチェンジしたと」


「確かに美味しかったけど。美味しかったけど!

 食べた第一声が"My god..."て!その後に五体投地って!

 仏教なの?キリスト教なの!?宗派も何もありゃしない!

 起き上がったら泣いてるし!泣きたいのこっちだし!

 いつでも先輩の為に死ねますって言われたああぁ。

 いやだ、もう、死にたい。私が死にたい」


「死ぬ前に偶像崇拝は禁じておけよ。

 宗教は時に無用な争いを生む」


 一気にまくしたてる妹に、兄は冷静に返事をする。


「神も仏もねえわー。

 私は法王でも教皇でも尊師でもないのー」


 言いたいことを言ってすっきりしたのか、残ったホットミルクを飲み干した妹はカップをことりとテーブルにおいた。


「私なりに色々と考えてるんだからね。将来のこととか。

 お兄ちゃんは彼女つくらないの?」


「ぬぐっふ」


 兄から変な声が漏れる。妹に将来の心配をされては世話が無い。


「あ、あのな。妹よ。兄は彼女その他もろもろ、色恋沙汰になど

 興味を示しているヒマはないのだ。芋を極めなきゃならないからな」


九ノ宮(くのみや)おねえちゃんは?今でも遊びに来てくれるじゃん。

 お兄ちゃんの変態振りを知ってても引かないなんてスゴイよ?」


「アレは女であって女ではない。半分は魚介類で出来ている」


「ふうん。後で伝えとくね」


 妹はにやりと口の端を上げる。


「彼女ほど聡明で見目麗しい人は見たことが無い。

 兄にとっては高嶺の花だと伝えてくれ」


「手のひら返すの早っ」


 妹は妹なりに兄を安心させるため、良い彼氏を見つけようと努力しているようだった。なにせ、たった二人の家族である。数年前に母を亡くした際、妹はちょうど義務教育を終えようとする頃だった。兄が自分の世話のために仕事をやめてしまったのではないかと、妹は今でもそう思っているが、もちろん兄はそうではないと言ってのける。


 いつまでも兄に甘えていてはいけないと思うし、兄が自分のために色々なことを諦めてしまっているのではないかと考えると、妹は申し訳ない気持ちになってくる。

 それなのに、自宅でニートよろしく芋とイチャこらしている兄の姿を見ていると、何とも言えぬ複雑な気分になるのだった。




   ○   ○   ○




 二章・九ノ宮 (りつ)




 世の中には、二種類の人間がいる。

 魚介類を食う人間と、食わない人間だ。そして前者は正義であり、後者は最も唾棄すべき悪である。


 そう公言して憚らないのが、九ノ宮律という女性である。


 すらりと長い手足。肩口で短く揃えられた頭髪。切れ長で二重の目は、周囲に鋭いイメージを持たせるがイメージだけではなく彼女は実際に気が強く、いつも加えている禁煙用のプラスチックパイプも相まってキツイ女性だと周囲からは認識されていた。


 彼女は大学で助教授として働いている。研究室に調理場が併設されている独特なゼミであり、食民俗学という民俗文化の中でも食を専門的に扱う分野であった。


 彼女は職場に来るなり調理場に入り、持っていたクーラーボックスを開けた。

 中には今しがた手に入れてきたばかりの鰹が横たわっている。秋のこの時期の戻り鰹は身に脂がのっている旬の魚である。ざらりと氷をかき分けてそれを手に取ったところで、学生がやかんで湯を沸かしていたことに気がついた。


「なんだ、いたのか」


「あ、助教授。おはようございます」


「オハヨ。早いねアンタも。鰹、捌きたいんだけど、いい?」


 早朝から魚河岸に行って手に入れてきたそれは新鮮そのものであり、彼女は一刻も早くそれを食したいと考えていた。そして早朝であるが故に、まさか研究室に人がいるとは思っていなかったのだ。彼女の専攻は魚介類であり、時間さえあればフィールドワークと称して各地の食材を集めてくるのだ。


 学生が慌てて調理場のスペースを空ける。


「俺は夜勤バイト明けなんすよ。帰ったら起きられないと思って。

 そういえば、教授はどこ行ったんでしょう?」


 教授は気ままにフィールドワークに出かける人間である。思いついた時に、思いついたように行動する。数年前には諸外国を周っていたこともあるらしいが、最近では海外への食材探訪は控えているらしい。流石に大学事務の人たちに怒られたのではないかと律は思っている。


「ん。確か岐阜に行くって言ってたね。

 この時期だと鮎だよきっと」

 

 沸かした湯をカップ麺に注ぎながら質問した学生は、律の言葉を聞いて不思議そうな顔をした。


「鮎、ですか?

 初夏が旬の魚だと思うんすけど」


「落ち鮎ってヤツだね。

 詳しくは自分で調べな。ほら、どいてどいて。

 アンタも捌かれたいの?」


「あ、すんません」


 慌てて学生は調理場を後にした。

 ちなみに落ち鮎とは晩夏から秋にかけてとれる鮎のことである。鮎の習性の一つとして、成体の鮎は秋風のふく頃に川下へと下り、そこで産卵を行うことが挙げられる。そして生まれた稚魚は川上を目指して上っていくのだ。落ち鮎の魅力はなんといってもその成熟したうま味であり、夏の鮎に代表されるような爽やかな味わいとはまた一風違ったものがある。


 鰹を捌きながら、律はふらりと出かけた教授を思い出す。

 まるで近所へ買い物へでも出るかのように「下呂に行ってくるよ」と着の身着のままで出かけて行ったその姿は決して教授という肩書にはふさわしくない見事な風来坊っぷりだった。


「ま、教授らしいけどね。アタシには関係ないか」


 いや、助教授と名がついている以上はじゅうぶんに関係があるはずだ。事実、教授が担当している講義はどうなるのだ。隣の研究室で麺をすすりながら律の不穏な呟きを聞いた先ほどの学生は戦慄した。


 律は捌いた鰹をさらに三枚におろし、各部ごとにてきぱきと調理を始めた。

 中骨や頭の部分はあら煮に、上身は刺身に。下身は炙ってたたきに。


「九ノ宮助教授、その、今日の講義は……」


 調理が終わるのを見計らって、先ほどの学生が控えめに声をかける。


「あぁん?」


「なんでわざわざ包丁持って振り向くんです!?」


 先にも述べたが、彼女の風貌はキツめという表現がしっくりくる。さらにその上で半眼になり、調理に使った出刃包丁がぎらりと光る様子を見せられては、たいていの者ならば身の危険を即座に感じ取ることだろう。さらに彼女はいかなる時でも禁煙用のパイプを口から外すことがないと周囲には知られているので、それも相まって威圧感はさらに大きなものへとなっている。


「アンタがやっといて。って訳にもいかないか。

 修士課程だもんね、アンタ確か。

 休講でいいよ。事務への連絡はやっとく」


「代わりに助教授がやるのは……」


 おずおずとそう申し出る学生に対して、律は無言で包丁をきらめかせた。


「あ、はい、休講っすね、はい」


 彼は残念そうな顔をしながら、慌てて研究室を後にした。


 律の講義は学部の学生連中になかなかの人気である。教授の持つ深い知識に裏付けされた話も大変好評なのだが、律の講義は実際に自分の目で見て、その身で触れた体験を語ることが多い。大学の事務からはもっと講義の本題に沿うものにしてくれと小言が出るが、律はどこ吹く風で気ままに話したいことを話し、語りたいことを語る。


 作った料理を持ち運び用の器に入れて、律は研究室を後にした。

 彼女が向かう先は、芋をこよなく愛するある男の住む家だった。




   ○   ○   ○




 家の玄関の鍵は閉まっていた。しかし、家の主が留守にしていることなどない。ありえない。そう確信している律は鍵を取り出し、勢いよく扉を開け放って家の中へと入っていく。


「アタシが来たぞー。もてなせー」


「無作法にも程がある。

 おしとやかに出直してくれ」


 家の主、芋を愛するその男は台所で料理をしていた。


「なんだよ、せっかくアタシが来たんだぞ?

 聡明で見目麗しい半分魚介類のアタシが」


 律はジト目で男を睨んだ。妹からの連絡は滞りなく行われていたらしい。しかも、男が伏せて欲しかった内容まで詳細に伝わってしまっているようだった。


「……ようこそ、九ノ宮さん。

 お昼はまだかい?よかったら食べていくといい」


「アンタのその高速の手のひら返し、いつ見ても面白いわ」


「るせえ。で、今日は何を持ってきたんだ?」


「鰹。妹ちゃんに食わせてやってよ。

 アンタも食べていいけどさ」


 二人は軽口を言い合いながら昼食の準備をした。

 時々、律はこうして芋男の家を訪ねる。二人は幼馴染であり、幼い頃からずっとこうして気の置けない付き合いを続けている。


 芋男から言わせれば、彼女は魚介類で出来ている半魚人であり、また律から言わせれば男は他の追随を許さない芋野郎なのだそうだ。

 恋人かと言われればそうでもなく、他人かと言われるとそうでもない。ではなんだと問われれば、二人は考え込んだ末に近所に住む親戚のようなものだと答える。もちろん血縁関係ではないので、彼らなりの距離感の表し方なのだろう。


 出来上がった昼食を食べる段になって、ようやく律は銜えていたパイプを外した。

 男はその仕草をちらりと見てから律の目の前に皿を並べていった。


「刺身が新鮮で美味そうだ。さすが律だな。

 あら煮は夜まで寝かせておく」


「アタシの目利きを甘く見るんじゃないよ。

 たたきも夜か?」


「なんだ、今食べたかったか?」


「おう、出せ出せ。炙りがうまくいったんだわ。

 にんにくは?」


「あるぞ。なんなら土佐流でいくか?」


「やだよ、丸かじりなんざ。すりおろしてくれ。

 芋ニートと違ってアタシは昼からも仕事なんだよ」


「はいよ」


 男は職を持っていない。しかし家計に苦しんでいる訳でもない。贅沢などはしない男だが、食へのこだわり、特に芋に対してだけは情熱を余すところ無くつぎ込む。それゆえに、でんぷん質の過剰摂取が心配されるこの家の食卓に不足しがちな食材、および栄養源を届けるのが律の役目だった。


 その他にも律の狙いはあるのだが、今のところその企みが達成される気配はない。

 台所でにんにくをすりおろして戻ってきた男に対して、律は言った。


「なあ。芋ニート。

 いつになったら結婚してくれるんだ?」


「そうだな。やっぱり妹が心配でなあ」


「一緒に暮らせばいいだろうに。アタシは気にしないぞ?

 本当の家族のようなもんだし」


「そうなんだがな。

 なんていうか、責任みたいなものがあってな」


「責任ねえ」


「妹が独り立ちできるようになるまでは、俺が家を預かる。

 それまでは待ってくれないか」


「まったく……頑固モンの芋野郎が。

 いいよいいよ、いつまででも待ってやるよ」


 律はわざとらしくため息をついた。

 自分の事だけじゃなくて妹ちゃんの気持ちも少しは考えろこの芋兄貴が、と内心思いはしたものの言っても無駄なことはようく分かっていたので、それ以上は何も言わなかった。




   ○   ○   ○




 昼食を食べ終えて律は大学の研究室へと戻った。

 今朝、研究室にいた学生が同じようにカップ麺を手に持って出迎える。


「おかえんなさいっす。

 論文、見て欲しいんすけどよろしいスか」


「アンタ、またカップ麺?

 仮にも食民俗研究室の一員でしょうが」


「これが俺の研究テーマっす。

 カップ麺は21世紀の民俗食っすよ」


 食民俗。数ある民俗文化の中でもとりわけ食に関する部分だけを専門的に扱うこの研究室は、大学の中でもかなり異端とされる場所である。

 傍目から見れば、ただただ好き勝手に食べているようにしか見えず、大学の金でうまいもんを食うだけの金食い部門と揶揄されることもある。それでもこの研究室がつぶれないのは、やはり教授の力に依る所が大きいのだろう。

 東へ山菜を取りに出たかと思えば新種の植物を発見してみたり、西へ海の幸を求めていけば奇妙な土器を砂浜から堀り出す。またあるときには白米に合う調味料を自らの手で作ろうと試行錯誤している時に偶然に未知の化学物質が出来上がる。

 そして教授はそれらの偉大な成果を惜しみなくそれぞれの専門分野へと渡してしまうのだった。


 "だって君、名誉は煮ても焼いても食えんじゃないか"とは教授の言である。

 教授からして変わっているのだから、助教授以下、研究生たちが一風変わっているのもまた当然なのだ。


「そうだ、助教授。後で外に行きませんか。

 美味い大福の店見つけたんすよ」


 学生が言う。律はパイプをくわえたまま手をひらひらと振った。


「悪いね。飲み食いは一人でするって決めてんだ。

 それにアンタ夜勤明けだって朝に言ってたろ。寝ろ寝ろ」


 律は他人の前で決して飲食をしない。

 それは研究室にいる人間誰もが知っていることだが、常にカップ麺を食する1人の学生だけは懲りずにあれこれと誘いをかけてくるのだった。助教授に熱を上げるこの学生、名を小池(こいけ)と言う。


「今回もダメかあ。

 甘いものならイケるかと思ったのに」


「アンタも諦めが悪いね。

 ま、その根性は大切だ。大事にしな」


「諦めなければ叶うってことすね」


「さあね。さ、論文は?

 今はそれなりに時間があるから見られるよ」


 小池学生が落ち込んだ様子で論文を渡し、律は禁煙用パイプを銜えながらそれを読んだ。


 読む間、暇だったのだろう。小池学生が律に問う。


「そういえば助教授。タバコはお嫌いなんですよね?」


「ああ、舌が鈍るからね」


「昔、吸ってた訳では?」


「いいや、まったく」


 どうやらタバコをやめるために禁煙パイプを銜えている訳ではないらしい。では一体何のためだろう。「じゃあそのパイプは」と口を開きかけた所で、律が先手を打つ。


「いい女の条件って知ってるか?」


「はい?……や、見当もつかないっす」


「秘密を持つことさ。

 いい女には、秘密の一つや二つあるもんだ」


「そんなもんすか」


「ああ。

 そしていい男の条件は、それを詮索しないことだ」


 そう言って、銜えたままのパイプをゆらゆらと揺らした。

 小池学生はバツが悪そうにそっぽを向いて座り直し、律が論文を読み終わるのを待つ間にバイトの疲れもあってか眠りに落ちた。彼が目を覚ました時には日はとっくに沈んでおり、机の上には「考証材料不足。足で稼げ」と付箋の貼られた論文が置かれていたのだった。




 三章・富倉祭大捕物



 ある秋の日曜日。空は高く晴れ渡っていた。文化祭というものはえてして秋に行われるものだ。なぜそうなっているのか、詳しくは知らないし特に知った所で人生の役に立つこともあるまいと高をくくり、とある兄妹は歩いていた。兄の横には、秋空のように晴れ渡った笑顔の妹がいる。兄妹は大学の文化祭に行く途中だった。そこは兄のかつての学び舎でもあり、兄の幼馴染である九ノ宮律が助教授として働く場所でもあった。名を 富倉とみくら大学という。


「ダメだ。兄ちゃんは芋から半径30m以上離れると死ぬんだ。

 ああ、禁断症状で手が震えてきた……」


「じゃあ今度、芋をネックレスにしてぶらさげてあげる」


「あ、いいなそれ」


 芋と自分が気のおけない距離にいるその姿を妄想し、兄は少しばかり気力を回復した。


「ところで妹よ。どうして急に文化祭に行こうと言い出したんだ?」


「んー、進路の為に見ておきたい気持ちが半分。

 九ノ宮おねえちゃんに会いたいのが半分」


 妹の志望大学もまたその大学であり、模試では常に高判定を維持していた。


「別にわざわざ会いにいかんでも家に来るだろう」


「そうだけど。でも、こないだはお兄ちゃんだけ会ってたもん。

 私だって色々お話したいのにずるい」


「単に昼飯を食いに来ただけだがなあ。

 別段、変わった会話もしなかった」


「なに食べたの?」


「さて、なんだったか。思い出せん。

 何か持ってきてくれたとは思うんだが……」


「ひどいなあ。鰹でしょ?

 あら煮とお刺身、おいしかったもん」


「ううむ。それだけだったような、他にも何か食べたような……」


「なに、ボケたの? お兄ちゃん、まだ30にもなってないのに」


 首をかしげる兄に対して、妹は辛辣だった。

 しかし兄の名誉のためにも伝えておかなければならないが、彼は決してボケている訳ではない。律との昼食を思い出せないのには理由があった。

 思い出せないのではなく、憶えられないのである。


 九ノ宮律が普段銜えているのはなんの変哲もない市販の禁煙用パイプである。

 しかしこれは彼女がもつ、ある症状を抑えるためのものだ。彼女がパイプを銜えていない時、彼女と対峙した人間は嘘がつけなくなり、常に本音がこぼれる。ただし、律本人以外はその際のやりとりを記憶できない。

 特殊な能力を持つのは、芋兄妹だけではなかったのだ。


 いつからそうなったのか、本人にも詳しくは分からないらしい。数年前だったと律は記憶しているが、どうにも曖昧である。その頃はちょうど兄妹が母を亡くした頃であり、あれこれ奔走する兄を気遣いながら律が過ごしていた時期でもある。その幼馴染の芋男でさえも、彼女の体質のことを知らないでいた。


「物忘れくらいある。時に、律を探すんだろう?

 兄ちゃん、着いたら教授に挨拶に行ってくるからな」


「私も一緒に行く。

 おねえちゃん、部屋に籠ってるって言ってた」


 兄がかつて世話になっていたのは、食民俗研究に全てを費やす教授であり、今は律がその元で働いていることもよく知っていた。昔からよくどこかへ出かけてはあれこれと食っていた教授だ。その片鱗は今なおご健在らしい。この間まで落ち鮎を食いに行っていたらしいので、土産話でも聞きたいと兄は思っていた。ついでにそのまま研究室に居座って時間を潰すのが兄の目論見だった。

 文化祭などご大層なイベントが苦手な兄は、隙あらば安寧の地を求めてそこに居座る。その姿はまるで直射日光下での保存を嫌う芋のようであり、それゆえに兄の肌はなまっちょろい白さをしているのだった。


「部屋に引き籠るとはなんと不健康不健全な。

 妹よ。律を外に引っ張り出してやれ」


「その言葉、お兄ちゃんにも言えるよね」


「兄ちゃんは全てを棚に上げる人間だ」


「なにそれー。訳わかんない」


 やれやれと呆れながら妹は言う。

 しばらく歩くうちに大学の周りを囲むレンガ塀が見えてきて、その後に正門が見えてきた。門にとりつけられたアーチには、しなやかな文体で富倉祭と書かれている。


 このアーチもレンガ塀も昔から変わらんなあと兄が思っていると、大学構内各地に取り付けられているスピーカーから賑やかな音楽が流れ出し、同じように賑やかな声で何かしらのイベントの案内が始まった。


 ――ゲリラ借り物競争!ゲリラ借り物競争!次のターゲットは禁煙パイプを銜えた助教授!豪華賞品も出るよっ。


 条件にあてはまるであろう人間を一人、兄妹は知っていた。

 お互いに顔を見合わせて、よく分からないながらもとりあえず律の研究室に行ってみるかと足早に律のいる研究室へと向かうのだった。




   ○   ○   ○




 さかのぼること少し前。九ノ宮律は研究室に引き籠っていた。

 教授が文化祭を見に行かないのかと問うても、「なんで行かにゃならんのですか」と部屋から出る姿勢を見せなかった。


「僕は少ししたら見て回ってくるよ。

 うちの研究室の子達が面白い屋台をやっているらしくてね」


「あー、なんか盛り上がってましたね。

 世界の携行食だとかなんとか」


「そうそう。それ。うまそうだろう?」


「魚介類は保存と利益率の関係で扱ってないそうで。

 アタシは興味ありません」


「かわいそうに。小池君なんぞ、張り切っていたのに」


「間違った方向への努力は認められないもんです」


「そりゃ真理だねえ」


 穏やかに教授は笑った。

 その時、例の賑やかなアナウンスが鳴り渡った。ターゲットは禁煙パイプを銜えた助教授。大学界隈広しといえども、そうそう何人も助教授がいる訳ではないし、おまけに禁煙パイプを銜えていると限定までされた日には、個人情報を特定しているようなものだ。


 律は驚きのあまり立ち上がった。その拍子に銜えていたパイプがコロリと転がる。

 朝からゲリラ借り物競争なるイベントをやっていることは知っていた。赤いナース服を着た眼鏡の人だの、ハート型の鞄を持つとある歌手のファン歴5年以上の人だの、良く分からない具体的なターゲットを指定してはイベント本部へと連行させる。そのイベント自体に異論はないが、ターゲットは事前に了承をとって決めておくべきではないのか。


「律君でも取り乱すことがあるんだねえ」


「なにを呑気に笑ってるんです」


 ジト目で教授を睨むが、彼はなにやら訳知り顔で愉快そうにしている。


「何か知ってますね?」


「いやあ、小池君がね。

 イベント本部にかけあって君をターゲットにしてくれと頼み込んだらしい。

 合法的に手をつなぐ千載一遇の機会なのだそうだ。

 面白そうだったから僕が許可した」


 転がったパイプを素早く銜え、こうしてはおれぬと律は研究室を飛び出した。文化祭の空気に浮かれる阿呆どもめ。特に小池。許しておけぬ。若さゆえの過ちは認めるが、罪は必ず償わせる。そう胸に誓って逃避行を開始するのだった。




   ○   ○   ○




 兄妹が研究室にたどり着いた時に見たものは、悠々と茶をすする教授の姿と、がっくりとうなだれる一人の学生の姿だった。


「助教授、素早すぎるっすよ……」


「まあ頑張り給え。小池君。諦めが悪いのが君の取り柄だろう」


 話を聞けば、律はアナウンスとほぼ同時に研究室から飛び出していったそうだ。


「いつもの助教授なら、調理場に籠って居留守を決め込むと思ったのに!」


「うん、確かにいつもの彼女ならそうだねえ」


 教授も言われてみればと不思議そうな顔をする。


「まるで、君が来ることを知っていたようだ」


「教授、変な事言ってないっすよね?」


「僕は何も言っていないよ君」


 そこに兄妹が割って入る。兄はかつての恩師に折り目正しく礼をした。


「え、お兄ちゃん、そんなに真面目なことも出来るの?」


「失礼な妹だなおい」


「で、そちらの方も九ノ宮……助教授を捕まえにきたんですか?」


 つい、いつもの呼び名が出そうになるところを妹は強引にねじふせる。


「ああ、うん。そうなんだ。俺もこの研究室の人間でね。

 この大学で禁煙パイプを銜えた助教授なんて、うちの助教授しかいないからね」


「豪華賞品って何なんでしょうか」


 妹はあどけない仕草で学生に問う。その仕草は男性の庇護欲やらなにやらを掻き立てるにはじゅうぶんすぎる効果があったようだ。彼はなぜか自慢げに言った。


「豪華も豪華!聞いておどろいてくれよ。

 なんと日本一有名な某テーマパークのペアチケットさ!」


 それは学生がバイトを増やしてまで必死で用意した、血と汗と涙と欲望その他もろもろが形を成したものだったが、もちろんそれを口に出したりはしない。イベント部隊にちょっといい値段のカップ麺一年分を貢物として献上し、会議費と称する飲み会の代金を支払った挙句にようやく私的利用にまでこぎつけたのだ。この機を逃す訳にはいかない。


 しかし賞品を聞いて目の色を変えたのが妹である。


「捕まえた人がおねえちゃんとペアで行けるんですね!?」


「おねえ……ちゃん?

 え、あ、うん、まあ、そうかな」


 たじろぐ学生を尻目に妹は素早い動きで携帯を取り出し、どこかへと連絡したようだった。数秒とたたぬうちに研究室に誰かが駆け込んできて、妹の前に片膝をついた。


「馳せ参じいりまするは新聞部、小池にございます」


「小池君。話は聞いてたよね。

 大学構内の地図と、ターゲットの最終目撃情報を」


「奏上いたします。

 御方、六号館方面から八号館方面へと向かっていたとのことです」


 家臣か。そうでなくば忍びの者か。

 そう妹に対してツッコミを入れようとした兄だったが、それよりも早く言葉を発したのが先ほど教授と話をしていた学生だった。


「浩太ッ!?」


「あれ、兄貴」


「お前、いつから忍びの者に……

 あ、ってことはこの子か?お前の女神さまとやらは」


「馴れ馴れしいよ兄貴。この方と呼んでよ」


「えっと、小池君の、お兄さん?」


「ははっ、畏れながらも左様にございます。

 件の賞品もこの愚兄の用意したるもの。

 お望みとあらば如何様にもお使いくださいませ」


「待て待て!あれはダメだ!あれだけはダメだ!

 助教授とテーマパークに行くのは俺だ!」


 なにやら賑やかになってきたなあと蚊帳の外にいる兄は考えていた。そしておそらくあの少年が妹が言っていた新聞部の後輩とやらなのだろう。なるほど、りっぱに信者になっているようだった。その責任の一端は惚れ薬を作った自分にもあるのだが、あえて今いう事でもあるまいと兄は何食わぬ顔で事の成り行きを見守っていた。


 喧々諤々の論争の末、早い者勝ちだと言う結論に達したようだった。

 かくして、カップ麺大好き小池兄と、妹を神と崇める小池弟の争いの幕が切って落とされたのである。妹も共に駆けだして行った。


 部屋に残された教授と兄はのんびりと会話を交わす。


「いやあ、若いというのはいいねえ」


「教授もお若いですよ。落ち鮎は美味かったですか」


「ああ、実にうまかった。季節の物を食べるのはいい。

 僕は生きていると強く思うね」


「お変わりないようで。

 土産にと思って持ってきたものがあるんですが食いませんか」


 教授が兄がひょいと掲げた袋を見る。


「タケノコイモです。ここいらでは珍しいでしょう」


 それは秋から冬にかけて出回る芋であり、その見た目の特徴から名前がつけられた芋である。肉厚であることも特徴の一つだ。


「京イモか!いいねえ!焼いて食おうか!

 そっちの部屋に瀬戸内産の粗塩があるよ君」


 ちなみに、京イモとも呼ばれるが主な原産地は京都ではなく宮崎である。


「是非使わせていただきます。調理室、お借りしますね」


「君も昔から変わらんなあ。相変わらず芋ばかりかい?」


「芋を食わねば人は生きていけません」


「律君は魚を食わねば人ではないと言う。

 まったく昔から二人は面白い」


「あれは半魚人だから良いのです」


 教授は愉快そうに笑った。美味いものを食べ、よく笑うことがよく生きる秘訣だと常に教授は説いている。そしてそれを一番実践しているのも、まちがいなく教授その人であった。




   ○   ○   ○




 大学構内はにわかに活気づいていた。

 食民俗研究会の面々は人が増えたことを喜ぶ反面、勝手に持ち場を離れた小池兄に対してアンチクショウという思いを抱いてもいた。

 しかしそれにしてもさっきのアナウンス。あれはどう考えてもうちの九ノ宮助教授だろうと考え、それならば小池が暴走する気持ちも分からんでもないと思っていた。それはそれとして、持ち場を離れた罰は打ち上げの会費を負担させることにしようと本人不在のまま、満場一致で決がとられていた。


「助教授、まだ捕まってないんかな」


「どうせ研究室に籠ってるんじゃないのかな」


「でも小池君が行ったよ?」


「戻ってこない所を見ると捌かれたかもなあ」


 てんで好き勝手に話をする面々。

 だが彼らは知らない。大学構内で増加する人の群れのほとんどが高校生であることを。そして一人の少女がそれを扇動していることを。すべての騒動のあと、迷惑をかけた詫びにとその群衆が屋台の品物を根こそぎ買い取っていくことを。




   ○   ○   ○




 九ノ宮律は捕まらなかった。

 小池兄は自らが通う大学だという地の利で以てさまざまな場所を探すが影も形もなく、小池弟をはじめとする妹軍団は数を活かしたローラー作戦を決行するものの目撃情報の一つも得られないでいた。妹が招集した軍団の数はおよそ100。各種運動部、文化部の混成軍団であり男女比のバランスがとれたその軍団でさえも見つからないとなると、これは関係者しか入れないようなエリアに逃げ込んだのではないだろうかと妹は考えた。


「小池君。情報をまとめて。

 敷地内で入れなかった場所と、そこに通じる経路を確認してほしいの」


「これにございます。

 婦人用の厠の個室も把握してございます」


「ありがとう。じゃあ、次の手も打ってあるのね?」


「はっ。各経路に見張りを立て、人相書きを配布しております。

 これを抜けるのは不可能かと」


「あとは持久戦ね。絶対に捕まえるんだから!」


 妹は招集した面々に【オペレーション・天岩戸】の発動を通達した。かくして富倉祭会場の人口密度と緊張感は増大し、それと反比例するかのように静寂が会場を包んでいくのだった。




   ○   ○   ○




 日が傾いていく。

 ゲリラ借り物競争の実行委員たちはいよいよこれはおかしいぞと思い始めていた。

 小池が「すぐに連れてくるから」と言うので部外者をターゲットにしたものの、一向に本人は現れない。ターゲットも見つからない。イベントは停滞してしまっている。

 小池の用意した豪華景品ペアチケットを餌にイベントを盛り上げるつもりだったが、こうも間延びしてはやっていられない。


 実行委員の一人が食民俗研究会の屋台に行ってみたが、小池はいないし助教授の場所も分からんと言う。


 また別の実行委員が教授のいる研究室に訪ねてきた。


「困るのです。イベントを盛り上げるには適度な加減というものがある。

 そろそろ捕まっていただきたい」


「そうはいってもねえ君。僕も許可を出しただけで。

 どこにいるかは皆目見当もつかない」


 困り顔の教授を尻目に、実行委員は頭を掻きながら言う。


「やっぱり部外者を噛ませるんじゃなかった!

 だいたい、あの高校生の大所帯はなんなんだ!

 あちこち聞きまわっているとこっちに苦情がきている!

 無関係だ!予測不能だ!不可抗力だ!

 ああもう!イベントが台無しだ!」


 実行委員は言いたいことを言い散らかしてぷりぷりと嘆きながら去って行った。ほくほくに焼き上げたタケノコイモに塩を振って食いながら教授は言った。


「律君は人気者だねえ。

 そして妹君もたいへん面白い」


「お恥ずかしい。どうもあれは突っ走るというか、

 感情をストレートに出すきらいがありまして」


「うんうん。昔の君に似ている。

 まあ、ここいらでお開きにした方がいいかなあ」


「真面目にイベントを企画した人間に申し訳ない。

 そろそろ迎えにいってきます」


「うん。それがいいね。

 今日は美味い芋をありがとう」


 朗らかな顔で教授は言った。兄は、これほどゆっくりとした時間を過ごしたのはいつぶりだろうかと内心驚いていた。


「またいつでも持ってきますよ」


「次は海老芋がいいなあ。あれもうまいからね」


「冬が旬ですね。

 では、楽しみにしていてください、教授」


「君、君。もう少し、くだけてくれてもいいんじゃあないか?

 ここには今、僕と君しかいないのだから」


「いいえ、ここは大学で、あなたは教授であり、恩師です。

 それなりの良識は持っているつもりですよ」


「そういうところも昔から変わらんなあ。

 まあ、気を付けていっておいで」


「はい。では失礼します」


 兄は来た時と同じように、深々と礼をして研究室を後にした。

 教授は穏やかな笑みを崩さぬまま、しばらくドアを眺めているのだった。




   ○   ○   ○




 兄は大学構内を歩く。

 ここで学生として学びを得ていたのはもう何年前になるだろうか。


「10年……いや、もうちょっと経つか」


 日々を芋と共に過ごす生活を続けているせいか、具体的な年数を思い出すのが難しい。しかしそれらはまた思い出す必要性のないものでもある。


「しかし異様な光景だなおい」


 独り言が思わず漏れてしまうほど、構内のいたるところに並々ならぬ緊張感を纏った高校生たちが直立不動の姿勢でそれぞれの持ち場を守っている。これも妹のカリスマのなせる業か。

 兄は6号館の横を通り、8号館の中を抜けた。目指す途中で幾度も「この女性を見ませんでしたか」と律の人相書きを見せられた。


 まったく、周りの事を考えない妹め。周りを混乱させてどうする。帰ったら説教だな。兄はそう考えるとともに、妹の非凡なカリスマ性にあらためて空恐ろしいものを感じるのだった。


 大学というものは多くの場合いくつかの建物が敷地内に建設されている。そしてそれぞれの建物に1号館であったりA号館であったりと名前がつけられているものだ。棟などと呼ばれる場合もある。

 ここ、富倉大学では号館で名称は統一されており1号館から12号館まで存在する。そしてそれとは別に研究棟や事務棟、図書館、体育館などがある。


 兄は8号館から一番近い門を通り、一度大学の敷地から外へと出た。そしてぐるりと回り込むように敷地を囲むレンガ塀に沿って歩いていく。場所にして、5号館と6号館の間。ここに一つ扉がある。よく見なければ分からないような、周りと同系色の扉。ここを通れば、5号館と6号館の隙間にある二畳ほどの空間へと繋がる。何よりも特殊なのは、他の場所からはそこへたどり着けないという点だろう。

 その空間は、かつて5号館と6号館を繋いでいた場所で、大学の耐震工事によるリフォームの際に取り残された空間であった。現在は別の渡り廊下で繋がってしまっているため、外から見えることもない。


「律、やはりここにいたか」


「お、来たか。飲むか?

 インスタントのコーヒーくらいしかないけどな」


「いただこう」


 ここは、かつて二人が偶然見つけた隠れ家のような場所であり、何か考え事があると、二人はよくここへ逃げ込んだものだった。


「私有地占拠みたいで気が引けるけどな。

 今でもたまに使わせてもらってんだ」


 カセットコンロの火をつけ、やかんで湯を沸かす。


「で、教授と何を話してたんだ?」


「まあ、色々と。落ち鮎は美味かったと言っていた」


「そうかい」


 やかんが鳴り出すまで、二人は黙ったままだった。甲高い音が鳴り始めるやかんを持ち上げて、紙コップに湯を注ぎながら兄は言った。


「しかし律よ。敷地外に逃げる手もあっただろうに。

 変な所で真面目なヤツだな」


「お仕事中だからな。一応」


 それが建前であることは兄にも見て取れたし、律自身がそれを一番よく分かっていた。


「そういうことにしておいてやろう。

 熱いから上を持てよ」


 兄はそういって紙コップを律に手渡す。


「そう言いながら自分は下の方を持つのな」


 なんだその自然な優しさは。アンタは昔からそうなんだ。妹ちゃんのことにしてもそうだ。アンタが全部を被らなくたっていいじゃないか。


「面の皮だけではないんだぜ。厚いのは」


「うまくねえよ」


 律はパイプを銜えたまま、器用に一口すすった。

 アタシにも頼れよ。アンタが妹ちゃんを支えるんだったら、アンタの事は誰が支えるんだよ。そんなに強い人間じゃあねえだろう。知ってるんだよ。自分だけ格好つけてんじゃねえよ。


「このイモ野郎」


「そうとも、俺は類稀なる芋男だ。崇めたまえよ」


「るせえ。飲んだら行くぞ。

 アンタに捕まったことにしといてやるよ」


 本当は。

 アンタならここに来てくれるんじゃないかと思った。勝手な妄想だ。それでも、そう思いたかった。妹ちゃんから兄妹で文化祭を見に行くとメールをもらって。昼に急なアナウンスで研究室から逃げることになって。真っ先に思いついたのがこの場所だ。

 アンタになら、捕まってもいい。ってか早く捕まえろよこの芋野郎。


「しかし妹がやたらと張り切っていた。

 あんな妹は久しく見ていなかったから愉快ではあるな」


「じゃあ妹ちゃんに捕まった方がいいか?」


 兄は飲み干した紙コップをことん、と置いた。


「いいや、妹にも譲らん。

 たまには俺も羽目を外すことにする」


 そう言って兄は律の手を取った。




   ○   ○   ○




 そこからの富倉祭は大混乱と言うより他はなかった。

 兄が律の手を引いて8号館近くの門から入るなり、見張りをしていた妹軍団の一人が「いたぞー!」と叫び、あちこちから高校生が湧いた。


 二人はそのまま8号館へと入り、上へと逃げる。


「追い詰めろ!入り口は固めておけ!」


 おそろしくガタイのいい一人がそう命じて、数人を引き連れて8号館内へとなだれ込んだ。逃げる二人と追う軍団は館内を歩く人々をすり抜け、時にぶつかり、時に展示物を押し倒した。

 兄は空いている講義室へと律を連れ込み、すばやい仕草で鍵をかけた。


「アンタ、自分から袋小路に逃げ込んでどうすんだよ」


「相手が追い込んだと思ってくれているなら好都合」


 講義室の外ではリーダー格の男がどこかへ連絡したのか、増援が次から次へとやってくる。「ピッキング班はまだか!」と叫んでいるのを二人は聞いた。


「妹ちゃんがその気になったら犯罪集団の出来上がりだな」


「彼らは高校で何を学んでいるのだろうなあ。

 いやはや、多様な人材を持っていることにおそれいる」


「暢気に言ってる場合か」


 言いながら律が兄の方を見ると、兄は窓際でなにやらごそごそとやっていた。

 非常時用の避難装置である緊急梯子を展開していたようだ。


「うむ。さあ、行くぞ律」


「あーあ、もう、勝手に使って怒られるぞ」


「これは非常時に使ってこそのものだろう。

 今は非常時。何も問題はあるまい」


「アンタ、屁理屈って言葉知ってる?」


「屁理屈とて理屈のうちだ」


 これ以上の問答は無用と兄は律を抱え、そのまま器用に梯子を降り始めた。


「待て待て!アタシは自分で……」


「暴れると落ちるぞ。しっかり捕まっていろ」


 律を抱え、するすると器用に梯子を降りる兄。下に着く頃にちょうど部屋の鍵開けが完了したらしく、上の窓から「いないぞ!」「窓から逃げた!」などと聞こえてきた。

 兄はなおも走る。しかしその方向はイベント本部とはてんで違う方向だった。


「どこ行くんだよ!」


「言ったろう。妹にも譲らんと。

 兄の威厳を見せてやらんとな」


 イベント本部から離れるように走ったかと思えば、建物の中へと消える。また別の入り口から出てきたかと思えば踵を返してあらぬ方向へと走る。

 妹軍の情報は混乱し、指揮系統は乱れに乱れていた。


 いかに妹が優秀であろうと、多様な人材を抱えていようとも、統率が取れていなければ軍として成り立たない。ただ獲物に集まるだけの烏合の衆であれば御するのはたやすい事だ。

 追うことに必死になり、各員連絡を取り合えるような状況ではなくなっていた。様々な情報が入り乱れ混乱する中、別の場所で指揮を取っていた妹は情報の断片をまとめながら兄が奔走しているのだと理解し、そして悔しそうに言った。


「お兄ちゃんめ……また私の邪魔をするのねっ!」


 らちがあかないと妹は走り出した。

 つまるところ、目指しているのはイベント本部である。そこで二人を止めれば良いのだ。


 そうしてもう一人、混乱の中で同じ事を考えていたのは小池兄だった。


 それぞれがイベント本部へと向かい、この妙な混乱騒ぎもまもなく終焉を迎えることとなる。




   ○   ○   ○




 息を切らせて走る兄と律は、ようやくイベント本部近くまで迫っていた。


 二人の後をついて走る妹軍団は四方八方から集まり、ついにイベント本部が見えてきたというところで速度を緩めた。本部前に彼らの総大将がいたからである。


 凛々しくたつその妹の姿に、軍団員は自然と跪き、こうべを垂れた。

 自然と、イベント本部のテント周りに人の壁ができる。その中心にいるのは手を繋いでいる兄と律。それを真剣に見つめる妹だった。

 イベント本部にいる大学生の面々はもう何がなにやら分からないと言った風にことの成り行きを見守るほかなかった。


「そこをどいてくれないか、妹よ」


「どかない」


 妹の胸中は複雑だった。もう自分でも何が正しくて何をしようとしているのか明確に説明できないでいた。


「お兄ちゃんは、ずるい」


 厳しい眼差しを向けたまま、妹は言う。


「全部一人でなんとかしようとする。

 仕事もやめちゃうし、色んな事を一人でこなしてた」


「そりゃお前、兄ちゃんは兄ちゃんだからな」


「守られてばっかりなのは嫌なの。

 私、そんなに頼りない?」


 睨み付けんばかりだった眼差しは、徐々に緩くなり、何かを必死で堪えているような顔になっていった。


「うちにはお父さんがいなくて。

 お母さんも死んじゃって。誰も助けてくれなくて……」


「いや、お前、それは」


 口を挟もうとした兄の手を、律が強く握る。兄を見て、ゆっくりと首を横に振った。しっかりと妹ちゃんの気持ちを聞いてやれこの芋が、と目で語っているのが分かった。


「ずっとお兄ちゃん頑張ってた。

 だから、恩返ししたいと思ったの。

 チケットで、二人で旅行に行って欲しいなって」


 イベント本部の何名かがうっすらと目に涙を浮かべている。


「でも、お兄ちゃんがおねえちゃんと一緒にいるって聞いて。

 お兄ちゃんに負けたくないって思った……。

 勝てば私もしっかりしてると思ってくれるんじゃないかなって。

 なのにやっぱり勝てなくて……」


 そこまで言うと、ついに妹の目から大粒の涙がこぼれ落ちた。周りを取り囲む妹軍団も涙している。兄の手を握っていた律の手が離れた。


「ほれ、行ってやれ。

 兄の威厳とやらの見せ所だ」


 律が銜えたパイプを揺らしながら諭すように言い、兄の背中を叩く。

 さっきまでの壮大な捕物劇でもパイプを落とさなかったのかと妙なところに関心を持ちながらも、兄はゆっくりと妹に近寄った。


 そして妹に声をかけようとしたその時。

 イベント本部テントを取り囲む人壁の中から律に向かって飛び出す人影があった。


 それは妹軍団に紛れて、自らの勝機を坦々と狙っていた小池兄だった。

 彼は律の手を取り、兄に向かって叫んだ。


「お前も助教授を狙っているのか!そうはさせん!

 どうして皆して俺の恋路の邪魔をするのだ……。

 俺は助教授に惚れているのだ!二年前からずっとだ!

 助教授は素敵な人だ。そうだろう、違うか!」


 そう言うと小池兄は恥ずかしげも臆面も無く自らが恋慕う九ノ宮律という女性の魅力を語ってみせた。論文を読む時の伏し目がちな姿の美しさ、魚を捌く時の真剣な眼差し。講義で語られるその豊富な経験。凛とした声、麗しい姿。両手の指でも足りないほどの褒めちぎりっぷりだった。

 その青春の暴走っぷりにイベント本部の面々は私的利用を許可したことを後悔し、高校生連中は追い詰められた人間の怖ろしさを教科書の外で初めて感じたという。


 あまりの熱にあてられ、涙もなにもかも乾いて引っ込んだ妹は隣の兄に言う。


「お兄ちゃん、あそこまでおねえちゃんの良い所言える?」


「悪いところなら同じくらい言えるぞ」


「聞こえてんぞ芋ニート、コラ」


 慌ててコホンと咳払いをした兄は、サスペンスドラマの犯人を諭すかのようにあえてゆっくりとした口調で尋ねた。


「あー、その、小池君、だったか。

 君はどうしてそんなにその半魚、いや、助教授が好きなんだ?」


「……あれは忘れもしない二年前の9月の事だ……」


 ゆっくりと、小池兄が語り始める。


「あの日、助教授は俺に手作りのスイートポテトをくれた。

 食った瞬間、体中を電気が走った。俺は思った!

 これが運命だと!分かるか、いや、分からんだろう。

 あれは、あの衝撃はッ!感じたものにしか分からんものだ!」


 周りを囲む人壁が、皆一様に納得したような顔で頷く。自分たちも妹に同じものを感じていると雰囲気で語っていた。


 おずおずと兄が問いを続ける。


「その、それはあれか。ムラサキイモが練りこまれていなかったか」


「そうだ!淡いピンクの恋模様だった!」


 兄妹は全てを察した。それは兄がかつて作ったスイートポテトだったからだ。

 なんのことはない。元を正してしまえば全ては兄が元凶らしかった。


「アンタねえ。そんな昔のしょうもないこと憶えてたのか。

 ありゃアタシの手作りじゃねえよ。あれに感動したってんなら、ほれ。

 あの冴えない男がアンタの運命のお相手だ」


「なっ!?」


 小池兄は硬直した。

 人間は真に驚いたとき、まったく何も出来なくなる。そして自らの生き様の土台が崩れ落ちていく中で、小池学生の顔はみるみるしわくちゃになっていった。


 小池学生は泣いた。男泣きに泣いた。


「俺は、今まで男の作ったイモ菓子に心奪われていたのか」


「そんなに美味かったか?」


「……あれを毎日食えるなら、俺は助教授を守るために

 世界を敵に回してもいい覚悟でした……」


「まあ、市販のヤツよかうまいなー、くらいには思ったけどな」


 ずるりと崩れ落ちた小池学生は地面にうずくまって咽び泣いた。その見事な泣きっぷりを見て、イベント本部の一人がテントから歩み寄り、「すまん、これは返すよ」とそっとテーマパークのチケットを手に持たせた。

 周囲が言葉を失う中、小池兄の嗚咽だけが聞こえていた。困ったような顔をしながら律がようやく口を開く。


「あー、なんだか良く分からんがアタシゃ研究室に帰っていいか?」


「いいや、許さん!」


 次に声を張り上げたのは、芋をこよなく愛する兄その人だった。


「はぁ?」


「お、お兄ちゃん?」


 怒気を孕んだ声に周りの面々がたじろぐ。


「律よ!さっき何と言った!」


「あ?だから研究室に帰っていいかって」


「その前だ!」


「あ、冴えない男って言ったの怒ったか?悪い」


「その少し後だ!

 俺が冴えないのはこの際認めてやる!」


「認めるのかよ。なんだよ面倒だな。

 どこが気に食わなかったんだよ」


「俺の芋が市販品より上かなー、程度だと!?」


「そこかよ」


 唖然とした律は銜えていた禁煙用のパイプを落としそうになり、慌てて指を口元に運んだがふと周りを見回して「そういや、妹ちゃんがいるな」と瞬時に考えを巡らせた。妹ちゃんに兄貴の本音を聞かせるいい機会かも知れない。

 そして、律はパイプをゆっくりと外した。


 これで、目の前に相対する兄は嘘がつけず、本音をこぼすはずだ。指で挟んだパイプを兄に向けて律は言う。


「じゃあ、もっと食わせろよ。

 アタシを唸らせることが出来たら評価を改めてやるよ」


「どこまでも傲慢な半魚人め!

 いいだろう、毎日料理を作ってやろう」


「そりゃあれか、弁当でも届けてくれんのか?」


 兄は首を横に振り、大きく息を吸い込んで、そしてゆっくりと吐き出した。


「にぶいヤツめ。

 結婚してくれと言っているのだ!」


 あまりにも。あまりにも唐突なその言動に周りが目を丸くする。律も同じように驚いたが、この場で取り乱してしまうことは助教授としてのプライドが許さなかった。意識して口の端を上げて言葉を継いだ。


「い、言ったな?アタシゃ面倒な女だぞ?」


「知っている。知っているとも。

 悪いところを挙げれば両手の指では足りないくらいだ。

 しかし、良いところを挙げれば足の指を使っても足りん」


「アンタも物好きなこった」


「好きだから好きなのだ。文句はあるか」


「文句あったらどうなんだよ」


「却下するに決まっているだろう」


 指に挟んでいたパイプを銜えなおし、律はくるりと兄に背中を向け、下を向いて歩き出した。


「そういうことなら仕方ないね。末永くよろしく頼むよ」


 ひらひらと手を振って場を去っていく律を、ハッと我に返った兄はぽかんとした顔で見送った。隣では、妹が再び涙で頬を濡らしている。


「おめでとう、お兄ちゃん」


「……今、何が起こったんだ、妹よ」


「大丈夫、夢じゃないんだから。

 おねえちゃんが本当のおねえちゃんになってくれるって!」


 にわかに沸き立つ群衆。飛び交う歓声。イベント本部の面々も慌ててマイクで放送を流しだした。


 ――ターゲット捕獲!ついにターゲット捕獲!まさかまさかの大円団!ゲリラ借り物競争にて一組の夫婦が誕生!豪華賞品はまさかのお嫁さんでしたぁ!お幸せに!お幸せに!


 やまぬ歓声の中、混乱する兄は何も言えずにいたが周囲はそれを肯定的に捉え、自分たちが人生の貴重なワンショットに立ち会えた興奮も混ざって騒ぎはしばらく続いたのだった。


 そして地面に伏せて泣き崩れていた小池兄だけが。皆がそろって兄妹を見つめる中、彼だけが去り際の律の顔を見あげる形でのぞき見ることができた。

 律が浮かべていた、幸せをしっかりと貼り付けた乙女のような笑顔を見て。彼は完全なる敗北を察し、彼の人生においてスイートポテトという言葉は禁句となったのだった。


 さらに泣き面に蜂とはよく言ったもので、小池兄は文化祭の後始末にと同じ研究室の面々に打ち上げにかかった飲食の金を要求され、律からは勝手に人をターゲットにした罰としてペアチケットで教授と二人きりでテーマパークに行って来い、助教授と教授とでは一文字しか変わらんだろうが。と凄まれた。ちなみに教授は割と乗り気だった。

 小池兄は「一文字違いで大違いだ!性別まで違う!」と泣いた。



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