表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
14/22

『紫の花が咲く頃に』 作者 おいぬ

一言:芋と神様を結び付けたい、と考えてこのようなものを書き綴りました。少し長めですが、よろしければお付き合いくださいませ。



「神様……私共に恵みの雨を……豊饒たる大地を……」

 雨が乾いた男たちの顔をたたきます。そこには女子供は一人もおらず、男たちの顔もひどく痩せこけて今にも死にそうでした。

 時は江戸、天保の時分です。……ここまで至れば察する事の出来る方はいらっしゃるでしょう。ええ、天保の大飢饉と呼ばれる、未曾有の飢饉です。飢饉ですから食べ物などもちろん存在しません。村人たちにあるのは、年貢を納めるためにためていた米のみ。その米でさえも、百余名の村人たちが食べるとなると、たちどころに消え去ってしまいます。それから一週間もたてば……。

「食べ物……食べ物を……」

――当然ながら、食べるものは存在いたしません。

 男たちは食物への渇望を重ねに重ね、ついには執念といっても過言ではないほどのおぞましい感情をまとい始めました。獣のように草を食み、土をも食らうその姿は、まさに悪鬼羅刹のようでした。しまいには今も昔も禁忌とされている食人さえ犯してしまう。……なんと罪深く、救いのない状況でありましょうか。

 そして、そんな男たちも一人二人と、崩れ落ちていきます。食人を重ねていけば、人が持っている病に引っかかってしまうからです。

 そんな状況下で、果たして救いはあったのか。

 ええ。説明いたしましょうとも。――あったのです。


 

 ……さて、まずは皆様に物語の舞台とその背景を把握しておいていただきましょう。

 舞台となりますは平成二十八年水無月の下の月――つまり今年の六月下旬。江戸の時代は終わり数百年の時がたっています。そんな時を超えて存在する、村は慌ただしい雰囲気を、行灯の数と比例させて増しておりました。

 準備したるは芋の奉納祭。それはこの村になくてはならない行事でございました。

 豊穣の女神様へと今年の豊作を報告するとともに、来年の豊作と安寧を祈る儀式でございます。知ることは許されない神の聖名に於いて、その祭りは盛大に開かれます。一つの行事と侮るなかれ。その規模は寒村で開かれるに盛大でございました。

 ここで奉納される芋とは、すなわち馬鈴薯。起源を遡ると、はるか遠方より齎されたことがわかる植物でございます。

 はてさて、なぜこのような――見方によっては余所者とも言える馬鈴薯に対する忌むべき祭事――を行っているのか。その理由は、江戸時代に数多くの死人を出した、天保の飢饉まで遡ります。そうです。男たちが喘ぎに喘いだ、あの飢饉でございます。

 男たちにもたらされた救いとは、果たして何だったのか。答えは、食物のそれ以外はございません。飢餓に喘ぎ、食人をも犯した村人たちに馬鈴薯が齎されました。

 して、その経緯はと言いますと、当時の村人含め、誰も理解出来ていないのでございます。――理解できなかった、ともいえるでしょう。後世に生まれた村人たちは、なぜ馬鈴薯を齎されたのか理解できなかった。

 そんな折に、人々を説得させるために必要だったのが――神威でございました。

 それは置いておきまして。村に齎された馬鈴薯のお陰で、この村は飢饉を乗り越えることができました。その時の感謝を忘れてはいけない、と時の村人たちが作り上げたのがこの祭りでございます。

 長々と語りましたが、ゆるりと、お話へと移っていきましょう。今から語りますのは男女の睦。今は廃れた信仰の光と陰。それでは、ゆるりとお話しましょう。



 時刻は午後六時。毎年六月二十日から三日間に渡って行われる奉納祭の開始時刻でもありました。

 村人は自らの手で作り上げた、簡易的な祭殿に満足気な声を漏らしています。木造建築である祭壇は、村人達の半分が仕事の合間を縫って作り上げた、まさに血と涙と汗の結晶でございます。制作期間は約半年。

 この制作期間からも察せるとは思いますが、この祭壇は『簡易』と呼ぶには余りに上出来なものでありました。それこそ、小さい神社仏閣のそれと見まごうような。

 そんな祭殿を見て感嘆の息を漏らす大人達に混じり、一人だけ小さくため息をつく青年がおりました。名を『穣多(じょうた)』と言う青年は、その憂いの目を神殿の方向とは逆――北の方角を向けていました。それはひとえに、東北の方へ出稼ぎに行った妹を心配するが故です。

 しかし大人達は穣多の気持ちや考えていることなど知るはずもありません。人目もはばからずため息を何度もついている穣多に対して、あまりいい感情は抱きませんでした。その中でも、この祭壇を作るために心を砕いてきた村長は穣多のその反応に明確な不快感を示します。

 そんな視線に穣多は申し訳なさと居心地の悪さを感じてしまい、ゆっくりと祭壇から離れていきました。

 さて、そんな穣多は村の西方――山の方へと向かいます。そこには彼のお気に入りの場所があるのです。

 分け入り、枝葉をかき分けて、さほど標高が高くない山を登ります。幸いこの山は、現在の穣多のように、山登りに適しているという服装でなくとも登れる山でした。

 その中腹に差し掛かった時、突如として視界が開けました。そこにあったのは、一つの切り株。真ん中にちょこんと、何かを待つように佇んでいます。

 そう。この場所こそが、穣多が時折訪ねているお気に入りの場所なのでした。

 穣多はどっかりと腰を下ろします。深いため息。そのまま穣多は、切り株に寝転ぶかのようにして、体を横にします。……穣多は疲れていました。ええ。疲れていたのです。

 世の中のどこに、過酷な農作業と祭りの準備を連日やって疲れない人間がいるでしょうか。可哀想なことに穣多は、村の中唯一の青年ということもあってか、馬車馬のように働かされていました。

 再度深いため息を吐いた穣多を抱きしめるかのように、長い木陰が穣多の方に伸びました。六月のじっとりとした独特の暑さを、この木陰は和らげてみせました。

 穣多はそんな木陰に感謝をひとつ送り、瞳を閉じました。するととたんに、睡魔が襲ってくるではありませんか。しかし穣多はそれに抗わず、むしろ流れに身を任せる形で、そのまま夢の世界へと漕ぎ出していきました。


 一方その頃、祭りの方は、飲めや騒げやの大宴会とその形相を変化させていました。村人全員がそこに集まり、酒を飲み交わし、料理を食べる。その様子たるや、飢饉の時の影など微塵もありません。

 だからこそ。そんな熱狂した様子だからこそ、村人たちの誰もが気づきませんでした。西方の山から、数秒だけ淡い光が伸びていることに。そしてその光のそばには、その場にいなかった唯一の青年、穣多がいたことに。

 いや、少しだけその様子に違和感を覚えた村人もいた様子ではありました。しかし、いかんせんその状況が悪かったのです。なんだ酒の影響か、と、酒のせいでぼやけた視界のせいにしてしまったのです。

 はてさて、その結果がどう転ぶかは、神様のみぞ知るところでございます。



 あたりに少しだけ朱色が混ざりつつある時間に、穣多は目を覚ましました。時刻にして三時過ぎくらいだろうか、と穣多は考えます。そしてそのままゆっくりと起き上がろうとして――

「――起きましたか」

 少女の声を聞きました。

 穣多は不思議に思います。なぜならば、あの村にいる少女の声のどれにも当てはまらないような声だったのです。普通の少女は鈴のような響きの声を出しますが、この少女は、夏の風鈴のような静やかな声音だったのです。

 声の方向に振り向くと、そこには物の怪がいました。

 物の怪と聞いて、普通の方ならぬらりひょんなどに代表される妖怪などを思い出した方も少なくないでしょう。しかし、その姿は奇妙なほどに人間に似ています。

 秋の小麦色の髪の毛が、風になびいてしゃらりと流れています。茶色の目は大きくくりっとしています。ええ、ここまでだと人間なのです。奇っ怪たる所以は、その頭頂部に存在しておりました。

「……? これが気になるのですか?」

 その女性が――と言っていいかは穣多にはわかりませんでしたが、該当する語彙がこれくらいしかありません――指さしたのは、その人外たる象徴でした。それはぴこぴこと動き、まるで独立している機関のようです。

 それは何なのか。穣多には理解できるようで理解できませんでした。ある程度日本の文化に慣れ親しんでいる穣多は、ゆっくりと、その象徴を指さして、ぼそりとつぶやきました。

「獣耳……」

 そう、ぴょこんと生えている獣耳こそが、その人物が人外であると説明している最も特徴的な部位なのでした。

 髪の毛と同じ、秋の小麦畑を思い出させる黄金色。ふと何かを思い出した時にピコピコと動くそれは、穣多に一種の驚愕を覚えさせました。

 それもそのはず。空想の中だけだと思っていた獣耳を持つ女性――しかも見目麗しい――が現れたのですから。しかし、そんな状態である穣多に何かを考えさせる時間を彼女は与えません。

「……かなり時間が経っているようですね。今の時代は……? 慶安ですか? それとも安政……?」

「あのえ、えっと……」

「あ、すみません。唐突に現れちゃったので少し混乱していらっしゃいますよね?」

 穣多の背丈よりもあたな一つ小さい、少女とも言える女性は、その身の丈に似合わないほどの奇妙な存在感を放ちました。その存在感は、獣耳以上の衝撃はないものの、穣多にちぐはぐな印象を与えて混乱させるに十分な要素でした。

 当然、次のような自己紹介文も聞き流してしまいます。

「私は――――。村人たちの信仰により発生した、豊穣……特に芋に関する豊穣を司る神です」

 神とは、何を言っているんだコイツ。とち狂ったんじゃないか? などと思っていらっしゃる方も多いでしょう。しかし、神でないというならば、この場所、この期間に、まるで空間を飛び越してきたかのように、唐突にそこにいる理由はなんなのでしょうか。――ほら、説明のしようがないでしょう?

 ……ああ、ちなみに。聞き流した件についてはどちらが悪いというわけでもありません。穣多は穣多で困惑していたのはしょうがないです。神と名乗った少女もまた、そんな青年の心の機微を完全に汲み取れていなかったのは仕方のないことなのです。だって彼女は、神なのですから。

 この神と名乗る少女を、適宜的に「少女」、と呼称しましょう。

 少女はゆっくりと穣多へと近づいていきました。歩く度にその巫女装束が揺れ、甘い香りが匂い立ちます。からんっ、と下駄の音が鳴る音が穣多の耳に届いた時には、少女は穣多の目の前にいました。

 ……なんと美しい顔でしょうか。長い睫毛にまるで瑪瑙のようにキラキラと色を変える瞳。のぞき込まれるだけで吸い込まれそうなほどの美貌です。

 この世のそれとは隔絶された美しい顔を見て、穣多はその胸の鼓動を高鳴らせます。穣多という青年は、今この時を持って、その美貌に心を掴まれました。

 しかし、先ほども申しました通りに、この少女、人の心の機微には疎いのです。穣多の困惑など知る由もなく、その顔の距離を狭めていきます。ついにはおでこをおでこにくっつけて、んー、と声を漏らします。……ええ。この少女は常識にも疎かったのです。

 十数秒の後、少女は穣多から離れました。もう穣多の内心は、怒涛の如き勢いで脈打っております。

「大丈夫ですか?」

 もちろんですが穣多が大丈夫なわけはありません。普通ではありえないものを見て、さらにえくぼが映える麗しいかんばせを至近距離に寄せられてしまったのです。村育ちで女性に縁と言う者が見つからなかった穣多の精神は、そこで津波を起こしてしまいました。たちどころに意識という防波堤は崩れてしまいます。

 ぷつんと切れそうな意識の中、穣多が見たのは、その顔を青くして体を強く揺さぶる少女の姿でした。

「……どうしよう」

 さて、少女のほうはと言いますと、この事態に困惑しておりました。よもや自分の守護する土地の人間を、自ら害してしまうなどと、この神たる少女は思いもしなかったのでございます。

 どうしよう、どうしよう。とあたふたしておりますと、ふと、祭囃子が聞こえてまいります。ぴくぴくと耳を動かしながら、少女はひらめきます。

 すなわち、この青年をあそこまで抱えていけば、それですべてが丸く収まる、と。

 善は急げ。この少女の信条の一つでもありました。まずは自分の耳を妖術で隠します。次に、切り株に横たわっている青年の背中と太ももに手を回すと、するりと持ち上げました。

 驚くべき膂力です。十三、十四の歳の頃だと思われる少女が、もう二十に達しているであろう巨体を持ち上げているのです。その顔に浮かぶのは苦悶といったものではなく、早くこの青年を届けなければいけないという責任感と焦燥だけ。穣多のことを重いなどと思っていないのです。

 そのまま、風もかくやといった速度でかけていきます。少女は巫女装束に草履といった、走るに難い服装でありましたが、その速度は衰えるどころか増すばかりでした。



 さて、少女が村へ到着した時分は、午後四時半。宴もたけなわ。村人たちは手に持った杯を酌み交わして、ある村人は肩を組んで高らかに歌を歌っておりました。

 そんな様子を見た少女は、村人たちが健やかに、元気に過ごしている姿を見て安堵します。そして背中にあるずしりとした重みに気付いて、そんな場合ではないことを思い出します。

 ぐるりと村人たちを見渡して、見知った顔を探します。探すのは祠の管理者――つまり村長でした。一方的に村長の顔を知っているのみでしたが、それでも彼の信心ぶりを見ると、きっと相手も理解してくれるだろうと判断したからです。

 そして少女は、その姿を祭壇の前に確認しました。一か月前に見た時よりも少し太っていますが、その姿を見間違えるはずがありません。

 嬉々として(心の中には焦燥が巣食っているのに、この表現は何ともおかしいものです)村長のほうへと駆け寄り、ぺこりと挨拶をします。

 村長も見慣れない人間のため、一応ぺこりと頭を下げますが、その表情は怪訝なものでした。ましてその背中に姿が認められるのは、自分の村の青年。怪しいものを見るような目で見るのは仕方のないことでありました。

「村長、ですよね」

「は、はい。そうですが、何か御用ですかな。背中にうちの村の若いもんを背負っているようですが」

「あ、ああ!! そうなんです!! この方が私と会ったとたんに倒れてしまって……。生きていらっしゃるので、こちらへと運んだ次第なんですが……」

「穣多が倒れた……? まぁ、うちの若いもんが迷惑をかけました。運んでくださってありがとうございます。……つかぬことをお伺いしますが、お名前は」

 村長にそう問われ、少女は自分の名前を名乗っていないことを恥じます。胸中が申し訳なさでいっぱいになり、深々と頭を下げながら、自分の名前を口にします。

「私の名は、――――と申します」

「……は? すみません、老いて耳が遠くなってきたのか聞こえません。もう一度お願いしてもよろしいでしょうか?」

「――――と申します」

「……? もう一度」

「えっと……。――――です」

 さて、思い出していただきましょう。この少女はそもそも人間ではありません。神という一種概念的な存在である彼女の名前は、それこそ人間には知覚できません。

 平面が人間の名前を知ることができないように。異なる次元に存在する神の名を、人間は知ることができない。その聖名というものは神聖で、犯しがたいもの。また――名は存在そのものでもあるのです。

 そんな名前を、村長はその耳に収めました。頭の中で言語化をしますが、ついぞ村長はその名前を言語化できませんでした。

「……気味が悪い」

 理解しがたい事態に直面した村長は、その少女をまるで悪魔のようだ、と形容します。その言葉を聞いた少女は、呆然としてしまいます。

 そんな少女に、いたいけな少女に。村長は心底気色が悪いと、その邪険な目線を送ります。

――致し方ないことなのです。村長が悪いというわけではありません。信心深い村長は、神がおわすこの土地に、得体の知れない人間を長居させるわけにはいかないと、そう判断しました。

 そしてその原因を作ったであろう穣多にも、少しの侮蔑を滲ませた視線を送ります。徹底的ともいえる排他主義である村長は、村の和を乱すような行為をした穣多に、多少なりのあきれを抱いていたのです。

「……いったいどこから来たのかは知らんが、帰りなさい。ここは君のいるような場所ではない」

「え、でもこの男の方は……」

「もとより一人暮らしの男。それにこの男にはよそ者の血が混じっているからな。面倒を見る義理もない」

「そんな! それが私が見守ってきた村の長の発言ですか!」

 少女の悲痛な叫びに、村長はその顔を怒りの色に染め上げました。

「私が見守ってきたとはなんだ!! お前にこの村の何がわかる!? よそ者風情が、思い上がるなッ!!!」

「私はあなた方の熱心な祈祷により生まれ出でたのです!」

「よりにもよって神を騙るなど! 烏滸がましいにもほどがあるぞ、小娘!」

「騙ってなどおりません! 信じてください!」

 と、その時でした。喧喧囂囂たる口論に先導されて、穣多が目を覚まします。

 起きたばかりであまり頭が回っていない穣多は、ろくに今の状況の確認をせずに、惚けたあくびを一つかましました。そののんきな様子に、村長はさらにいらだってしまいます。

 穣多の首元をつかみあげて、顔をこれでもかと近づけて怒鳴り散らします。

「穣多ァッ!」

「な、なんですか村長さん!」

「あの奇怪な娘をなぜ連れ込んだ!!」

「えっ、あっ、ここ村だ……。というか連れ込んでなんかいませんよ! 俺でさえ、気づいたらここにいたんですから!!」

「だからなんだ! 気絶したお前をここに運んできた時点でお前の責任だろうが!」

「んな横暴な! 第一彼女がどこから来たかさえわからないのに、関係もくそもないですよ!」

「だがお前に責任があるのは事実だ! 何とかしろ!」

「なんとかって、何を……」

 村長は、村の外を指さして、少女を追い出して来いといいます。穣多にはなんだかそれが、ひどく薄情に見えました。そのまま勢いに任せて、こんなことを言ってしまいました。

「どこから来たかわからない少女を追い出せって、あんまりですよ! せめて親御さんと連絡が取れるまで、村で保護するとか――ダメなんですか!」

「……そんなに言うなら、勝手にするといい。我々は一切関与しない」

「……ッ。まさかこんなにも薄情だとは思いませんでした!! いいでしょう、やってやりましょうとも。それでいいんでしょう?」

 村長はふんっ、と鼻を一つ鳴らして、勝手にしろ、とつぶやきます。

 怒った穣多は、少女の華奢で抜けるように白い手を掴んで、ぐんぐんと家のほうに進んでいきます。その背中を、村長は疎ましいものを見るような目線で見ておりました。

 このようにして、村の守り神たる少女と、よそ者の血が混じる青年・穣多は出会いました。この後穣多は少女を自分の家に上げて事情を聞くわけですが、もちろん出自など聞いたところで意味がありません。何せ彼女は神様なのですから。

 ところで、神という存在は何を糧にして生きているのでしょうか。何も必要としない。ただそこに概念として「ある」だけ、だとおっしゃる方もいらっしゃるでしょう。

 答えとしては、「信仰」でございます。信仰がなくなれば神は存在できなくなりますし、神が与えた加護も消え去ってしまいます。裏を返せば「信仰」さえあれば、神はとこしえに存在することができるとも言えるでしょう。

 ……しかし、何事にも例外は存在するのものです。

――して、その例外とはなんぞや

 答えは……おのずとわかってくるでしょう。

 そしてその答えは、ゆっくりと、主人公との安穏たる暮らしの中で、徐々にその片鱗を見せつけてきます。

 時は祭りの期間の二日目。六月二十一日。その日は曇りといった、何とも言えない気候でございました。村人たちは雨が降らないかどうかとやきもきしながら、農作業をこなします。その中の一人に穣多もいました。

 穣多の家の裏にある水田の水を換えるために、栓を開いて水を排出します。完全に抜ききってから、少しの間時間をおいて、山頂から流れる川の水を水田へと注いでいきます。いつも通りの綺麗な水です。

 いつも貯めている水量に近づいていき、今日やるべきことはあっただろうか、と穣多が思案を巡らせている折でした。突如として、水田に注がれる水に、茶色の何かが混じり始めます。

「……泥、ですかね」

「どうもそのようだ。まいったなぁ」

 少女の声に肯定の意を示して、その栓を閉めます。これ以上泥が混入しては、農作物の品質が劣化してしまうからです。もし仮に枯れたとしても、隣には馬鈴薯などを栽培する畑があるので最低限収入は得られますが、穣多の収入で最も大きな場所を占めるのは米の販売です。これを失えば、多大な損失を受けてしまうでしょう。

「……?」

 腕で鼻の下についた土をぬぐった時でした。ふと、この場所では嗅ぐ可能性が皆無であるものが穣多の鼻に香りました。そして、その正体に気が付いて、穣多の顔は青ざめます。

 ……皆様も見慣れているものでございます。ほら、台所に。場所によっては玄関に。そう、塩でございます。

「嘘だろ……! おいおいおい……!」

「……塩、ですか。一体何故……」

 塩による被害は数え切れません。塩自体が植物に対しては毒になる場合が多いからです。土地に塩分が含まれてしまうと、そこでは農業ができないという大きな痛手をこうむることにもなります。

 とっさの判断で、穣多は栓を開けて排水を行います。いくらかの米は無事でしょうが、おそらくは半分ほどの米はダメになってしまったでしょう。農家として米に詳しい穣多も、そのことは理解しておりました。

「……」

「大丈夫、ですか?」

「………大丈夫じゃない。ごめん、ちょっと休む」

「え、ええ」

 穣多はこの一瞬だけでどっと疲れてしまいました。ゆっくりと自分の部屋へ引き上げていく穣多の背中には、人の心の機微に疎い少女でさえも、深い悲しみを感じ取ることができます。

「穣多さん……」

 少女は、青年の名前を深い慈しみの感情をこめてつぶやきました。

 このままだと彼が可哀想だ。その理由がどうあれ、私はこの村の住人である彼の嘆きを取り除きたい。――神たる義務で、この事態を何とかしたいと、強く願いました。

 かくして、神威は発動します。

 少女は山を統括する神として、水の精に呼びかけます。高らかに歌い上げるように。朗々と歌い上げるそれは、一つの口から二つも三つも、緻密に絡まりあう旋律となってあたりに響き渡ります。

 それはまさしく、人間では考えられないほどに美しい旋律でした。もしここに穣多がいれば、その人の常識からはおおよそ違う歌唱を見て口をおっぴろげて惚けていたところでしょう。

 元々が澄んだ声です。そんな美しい声で、美しい旋律を歌い上げられたら、もちろんのこと人の目を集めます。ですが、その歌唱は誰からも注目されていません。人は神威を目の当たりにできない理由こそが、ここにあるのです。

 神の詠唱を知覚できないのです。人間の脳のつくり、精神のつくりが、その概念の段階にないモノの知覚を阻んでいます。もっとも、人間には、知覚できないことすら知覚することができません。

 人智を超えた歌唱を終え、少女はただそこにたたずんでいます。そこには少女のあどけなさはありませんでした。ただ何か、威厳めいたものをまとう、神としての少女がそこにいるばかりです。

「では、お願いします」

 厳然としてつぶやくと、どこからともなく水が発生し、それが水田を満たします。もちろん適正な量に収めるのも忘れません。さながら魔法のように行われた一幕は、しかし数秒で幕を閉じました。

 ふぅ、と少女は一つ息をつき、がくりとそこに膝をつきます。神威の発動は、どんな軽度のものであれど、それなりの力の消費を伴います。人間だって動いたらおなかが減ります。神もそうなのです。

 最も、人間のそれとはわけが違うわけでございますが。

「帰らなきゃ……。心配されてしまいます」

 足をゆっくりと引きずって帰る少女を視認するものは、誰もいませんでした。そう、異常なほどに。



「……ううむ」

 数時間後。空にあかねが混じり始めてきた時間に穣多は目を覚ましました。まだ回り始めていない頭のまま、外に備え付けてある井戸へ赴き、そこで顔を洗います。

「うわっ! しみ、しみる!」

 なんで塩水なんだよ、と心の中で叫んで、ふと今日あったことを思い出します。……畑に塩水が入ってきていたのです。ふわふわと浮遊していた意識は、一気に覚醒しました。

「……一応、様子見に行かないとな」

 そう一つつぶやいて、ゆっくりと水田のほうへと足を進めます。水田にたどり着いた穣多は、目の前に広がっている光景に、三度目を瞠りました。そこには磯臭さを感じない水がたたえられた水田があったのです。そしてその端っこには、見覚えのある黄金色。

 昨日からの知り合いだが、その美貌を何度も意識した少女が、そこに横たわっていました。穣多は水田に水がたたえられていた時以上の驚きをもって、少女のもとへ駆けつけます。

「おい、大丈夫か?!」

「……すみ、ません。ちょっと力を使ったら……この体たらくです……。なんとお詫びしたら、いいものか」

「これを、お前が?」

 少女は一つ頷き、体を起こそうとしました。ですが、思うように力が入らないのか、体がぐらついて、水田へと落ちそうになってしまいます。

「危ない!」

 穣多はそれを危機一髪のところで抱き寄せて回避します。そのまま少女の体重に持っていかれるようにして、少女の上に跨る体勢になってしまいます。

 少女は顔を夕焼けの太陽のように赤らめ、穣多は突如起きた事故にただ慌てて惚けるのみでした。数秒が経過し、少女が恥じらうように、一つ声を上げます。

「あ、あの……。どいていただけると……」

「あ、あ……っ! すまん!」

「い、いえ。いいんです。穣多さんは私を助けてくださったわけですし。感謝こそすれど怒るといったことはありません」

 少女がそう笑うと、穣多は少し照れくさそうな顔をして、上から退きます。むくりと上半身を起こす少女の服には、不思議なことに土埃などの汚れがついておりませんでした。そのことを不思議に思いつつ、あの耳以上に不思議なものではないと判断し、意識から切り離します。

 そのまま穣多は少女のすぐそばにしゃがみ込み、両腕を後ろに回します。

「えっと……」

「乗れ。碌に歩けないんだろう?」

「え、ええ。では、失礼して……」

 穣多の首に、白くて細い腕が回されます。柔らかな肌に、ほのかに香る金木犀の香りが、穣多の心拍数を跳ね上げました。しかし、ここで彼女を落とすわけにはいきません。心を跳ねさせながら、それでも慎重に少女を背負います。

「……加減のほどは大丈夫ですか?」

「大丈夫だ」

 穣多はそう呟き、ゆっくりとその足を動かし始めます。夕焼けの赤が二人を染め上げて、顔に影を作ります。――お互いの表情は、お互いから伝わりません。

「……穣多さん」

「なんだ」

「私たち、まだあって二日目ですよね」

「そうだな」

「なんで、ここまで親切にしてくれるんですか?」

 少女の純粋な疑問でした。いくらいい人であっても、ここまで無条件にやさしくできるはずがないからです。だからと言って穣多の優しさを否定したいわけでもありません。なので必然的にこのような言い回しになったのです。

 穣多は、そんな言い回しを聞いて、少しだけ脈打つ勢いが増したことを自認します。その鼓動を抑えて、ゆっくりと少女に語り掛けます。

「俺を助けてくれたからだ」

「……え?」

「ほら、初日。俺を抱えて村長のところに走ってくれたんだろ? だからだよ」

「あれって、そもそもの原因は私で――」

「でも助けてくれたっていう事実には変わりないしな」

「……」

 少女の顔が、少しだけ疑問に歪みます。

「でも……それだけでご飯をくれたり泊めてくれたりはしない人のはずです。だったらなんで……」

 ぴたり、と穣多の動きが止まります。少女からは、何か言おうとしてしり込みして、口をもごもごと動かす音しか聞こえません。え、なんですか、と少女が聞こうとした瞬間、穣多は意を決して、その口を開きました。

「……美しかったから、かな」

「~~~!」

「あ、あっ! 勘違いするなよ! 別にその身目に惹かれたわけじゃない!」

 惹かれたところもあるけど、と細くつぶやかれた言葉は、幸いにして少女には聞こえませんでした。

「あれだ、その。たたずまいが、って言ったらいいのか……。なんだか、触れがたい美しさを目にしてしまった気がした。風が吹けば崩れるような、そんな脆くて儚い硝子細工を目の前にして、陶酔してしまった……とでも言える」

 恥ずかしさに顔をうつむかせながらも、なおも穣多は続けます。

「なんかな、その精神の美しさっていうのに、見入ってしまったんだよ。だからかな。だから俺は、お前に接したくなる。誰かのためを思って行動できるお前を、助けてやりたいと思う。できるなら友達にもなりたいな、なんてな。……まだであって短いのに、なんでこんな気持ちを抱いてるんだろうな、俺」

「……」

「笑ってくれよ……! なんかこっぱずかしいじゃないか!」

「い、いえ。こう、なんといっていいかわからないんですが、胸がほわっと暖かくなりました。この気持ちを笑うのは失礼かなって、そう思って」

 少女は照れくさそうにあははと笑いました。その笑いは穣多が今まで聞いてきた度の笑い声よりも親し気で、そして健気な笑い声でもありました。

 やはり夕日は互いの顔を影で包み隠しています。互いの顔は見えていません。普通の青年なら、ここで少女の顔を見たいと思ったことでしょう。しかし、穣多はその声だけで十分少女の感情を感じ取ることができました。――それだけで十分だったのです。



 そして三日目になりました。祭りの最終日でございます。

「……チッ。まだいたのか」

「ええ。親御さんとの連絡がつかないものでして」

 そんな祭りの会場の一角にて、村長と穣多、少女はあいまみえておりました。

 少女のことを快く思っていない村長が目についた少女に突っかかってくるのは、火を見るよりも明らかでした。なので穣多としては、あまり目立たない端っこのほうで話でもして時間をつぶそうと考えておりました。

 出席しなければいい、と声が聞こえてきそうなので補足させていただきますと、この祭りは絶対に出席しなければいけないと村のおきてで決められております。逆らうと食料品の融通などをしてもらえない上に、何が起こるか分かったことではないとうわさされているのです。(もちろんですが、これは村長が主体になって行っております)

 村長から無視され、実質的な孤立状態の穣多であれど、食料品の融通をしてもらえないのは大問題です。まして昨日のあの出来事があった以上、これからはその融通が頼みの綱になりかねないという差し迫った事情もありました。

 しかし、村長と出会ってしまって、その気苦労もすべて水泡と化したのですが。

「……しかし、そこの小娘、神を騙っておいて平然とできるなど、よく今まで成長してこれたな。そういう子供は周囲から隔離されるのが常だというのに」

「……なぜ。なぜですか村長……。何故そのような言葉を……」

「まだ神様の演技に浸ってるんだな……。いい加減にしろ、不愉快だ」

「演技などではありません! 私は――」

 穣多は、それ以上を言おうとする少女を遮ります。少女の目には涙が浮かんでおり、村長の顔は醜悪なものを見るようにゆがみ切っていたからです。

 これ以上話しても、平行線をたどるだけだ。穣多はそう判断して、少女を遮ったのです。その行為に少女は少しの驚きを伴った視線を穣多へと向けております。

 対する村長は、涙を浮かべる少女を、視線で射殺せたら射殺す――それほどの殺意のこもった視線で睨みつけました。











 ……何事にも例外はつきもの。この場合もそこに「例外」は存在する。ご多聞に漏れず。それこそ、例外なく。

「穣多さん」

 少女はうつむく。その顔にあった秋の陽だまりのような優しい笑顔はそこにはない。あるのはただ黒い……どこまでも暗い顔だった。

「私は村長さんに」

 甘やかな日常でさえも、安らぎを追い求める修行の日々であれども。「例外」は万物を狂わせる常套句と成りうる言葉。

 そしてその常套句は。

「――村長さんに、村の人々に疎まれているのでしょうか?」

 そしてこの娘――宇迦之御魂神うかのみたまのかみの系譜に連なる神の一柱たる芋神――の平穏な日常をも、崩す。

「何を……」

 穣多が言葉を紡ごうとした、ちょうどその時。村の彼方此方から悲鳴が上がり始める。その悲鳴の方向では、緑色の何かが家屋や人間を覆いつくしていた。平穏な村は、一瞬にして阿鼻叫喚の地獄へと転換を遂げる。

「穣多さん」

「……おい、しっかりしろ!」

「私は、やはり疎まれているのですね。芋の蔦を通して、村人たちの生命の声が聞こえます。芋神に対する信仰心なんて、ありません。こんな形式ばった儀式だけやって、心の内ではくだらないと思っていたんですね」

「おい!!」

「くだらない……。なんてくだらないのでしょう。なんで私は、こんな人たちを……」

 芋神はゆっくり立ち上がると、蔦が作る地獄の中をひたひたと歩く。まるでこの村は自分のものなのだと。横柄な、不遜ともいえる歩み。

 途中で蔦を一瞥し、少し悲しげな顔を浮かべて、また歩く。それを何度も繰り返しながら、山のほうへと進んでいく。――右手に衝撃。

 芋神が振り向くと、そこには穣多がいた。穣多は決死の表情で、芋神の右手を掴んでいる。顔に移るは焦燥。あれほどに優しかった少女が変貌してしまったことに対する、確かな困惑。そしてそれが自分のせいなのか、という見当違いの責任。

 芋神は、村人はともかく穣多のことをとても良い人間だと思っていた。見ず知らずの自分を――半ば流れもあったが――家にかくまってくれたからだ。それに彼の人間性は、見ていて心地が良いものだった。だから、彼だけは蔓に包んでいない。

 ……否。芋神としては包みたくなかった、といったほうが適切だろう。芋神の眷族たる蔓は、人の考えを、生命の脈動を読み取ることができる。自分が信じた人間が、少しでも自分を嫌っていたり、疎ましく思っていたらたまらなかったから。もしそうだったら、人間をもう信じられなくなるから。また人間を信じたいから。

 だから、そんな甘さが、優しさが、芋神の……『少女』の足を止めた。

「……お前、何しようとしてるんだよ」

「山へと還るんです。ここ一体の自然の権化たる私の居場所は、あそこしかない。ここに私の居場所は、ないんです」

「――――っ。お前、ソレ本当にそう思ってるのか?」

「ええ。皆さんに嫌われてしまいました。穣多さんにも迷惑をかけました。私の居場所なんてものは、ここにはありません」

 少女はそう言うと振り返ります。夕日の影を顔に纏わせながら、ひたひたと山のほうへと歩いていく。影に映るのは、涙か、あるいは後悔の歯噛みか。穣多には、少女がどんな表情をしているのかわからなかった。

 だけど、わかった。穣多は口から呟きを漏らす。その声に耳聡く反応した少女は、背後の穣多へと、そのまま問いかける。

「何が、わかったんですか」

 その声は、怒気とも言えないし、悲哀の感情とも言えない。穣多が今まで向けられることのなかった感情だった。まるで希うような。……縋るような。そんな言葉の色。

「お前が何かを、強く願っているってことだ」

「……以前までは、強く祈っていました。村人たちの安寧を、豊かな暮らしを。しかし、私は疎まれている。だからもう、何も願ってなど――」

「じゃあなんで懇願するような声音なんだよ! その表情はなんなんだよ!」

 少女の肩を握って、振り向かせる。神とは言えど体躯は少女。その華奢な体を引き寄せるには易かった。

 その顔は、悲痛に歪んでいた。何かを切望していた。何かを諦めようとしていた。穣多が見ほれた顔は、見るも悲痛。そして薄桃色の唇からは、血が滲み出ている。よほど強く唇を嚙んだのだろう。それが容易に察せられた。

 穣多が少女を呼び止め、少女のちぐはぐさについてもの申した時には、表情など見てもわからなかった。だが、やはり穣多はこれも「わかった」。少女はちぐはぐだったから。こうなっていると、なぜか直感で理解できた。

「なぁ、答えろよ。お前は何を願ってる」

「何も願ってなんか――」

「目は口程に物を言う。お前の目には、表情には。何も願っていないなんざ、書かれてない」

 穣多は、少女の両の頬を掌で包み込んだ。そのまま、目と目を至近距離で見合わせる。その様子はさながら父親のような、そんな雰囲気をまとっている。

「……目と目を合わせて、話をしよう。お前は何を望んでる」

「……」

「目を逸らすな。わかった。そんなに答えにくいなら俺が当ててやろうか」

 ただ目をぱちくりさせる少女。穣多は少女の目をのぞき込みながら、雁字搦めになった糸をほどいていく。

「村人たちと仲良くしたい? ……違うか。このまま消え去りたい? というわけでもなさそうだ。じゃああれか。――昔と同じ状態に戻りたい、とか。……半分ってところか?」

「……わ、私、そんなこと一言も言ってないです!」

「表情を見てればわかる。お願いが合っているとき、口角が上がってるぞ、お前」

「えっ、う、嘘?!」

「いや、嘘じゃないから……」

 穣多は、その瞳を再度のぞき込む。そこには焦りの色が浮かんでいて、穣多が言ったことが願いにかすったことを証明していた。当たらずも遠からず。そのことを理解した穣多の行動は、追及の一手に限られる。

「昔と同じ状態に戻りたいが半分なら、もう半分は……このまま人間の姿でいたいとか。……口角を上げまいと努力しても無駄だぞ。口元がひくついてるからな。あ、あとは、昔の状態に戻ってほしいものとそうでないものがあるとか、そんな感じか?」

「ぁ」

 少女から、小さい声が漏れた。その口は大きく広げられていて、瞳をのぞき込まなくても、その言葉が的中していることを指し示していた。

 なるほどなぁ、と穣多は一つ頷く。しかし、穣多にはいまだにわからない点が二つほどあった。一つは、なんで人間の姿のままでいたいのか。二つは、昔の状態に戻ってほしくないものとは一体何なのか。

 さて、皆様方も想像していただきたい。もし自分が声も出せず、目も見えず、声も聞こえない状態であったとき。おおよそ健全とは言えない状態であると。

 つまり芋神とはそのような状態だったのだ。唯一それらしいことができるのは、村長が祈祷をささげる、一年に三日の機会のみ。しかも祠にいて何をすることもできない。それが約三百年程度続く。

 それが今、このようにして人間の体を得て、見たり聞いたり食べたり寝たり会話したり……。とにかく何もかもが新しく、きっと何に関しても楽しいだろう。そんな状態から、元の空虚な時間に戻れるか? 答えは否。断じて否である。つまり、芋神の答えは。答えこそは。

「……私はもう、あんな暗くて何もできない場所にいたくないんです。だから、このまま人間でいたい」

「それのどこが悪いんだ? このままの姿でいたらいいじゃないか」

「……神というのは信仰があってこそ生きながらえることができるものなのです。その信仰が受肉している私の身に向いていない状態が今なんです」

 そういいながら、芋神は近くにある蔦に触れる。その蔦をゆっくりと撫でながら、悲しみに顔をしかめて、滔々と話し始める。

「別の家に桶にためられた水は、当然ながらその隣の家の人間には使えません。それと同じです。一時期別の存在となった私とご神体は、別の桶。そして存在するための力をためておく桶――こちらの桶は空っぽ。……だからほら、御覧なさってください。芋をつかさどる私の権能が、制御する力を失ってしまって暴走しています。それがこの蔓なのです」

 芋神はそう言いながら、一つ笑う。その笑顔はとても見れたものではなかった。まるで清水の中に黒の墨汁を垂らしたかのように濁った笑顔。心からの笑顔ではない、ただ上っ面の笑顔。

 そんな笑顔のまま、芋神は忌々しいことにこうのたまった。

「だから、人間のままではだめなんです。これらを制御する力を、取り戻さないと」

 芋神は、そうやって気味の悪い笑みをまた浮かべる。

「取り戻す必要なんて、あるのか」――そんな気色悪い笑みを、穣多が見過ごすはずがない。

「なぁ、それってさ。本当に取り戻す必要はあるのか?」

「あります。私が権能を握ってるんです。制御して、村の人を助けない――」

「それって本当に助ける必要性があるのか? あいつらはお前のことを信仰してない。それに、排他主義の極みみたいな人間だ」

 穣多はあえて、芋神にその言葉を投げかける。

「なぁ、本当に助ける意味なんてあるのか?」

「そ、それは……」

「お前言ってたよな。蔓を通して、私のことを疎んでいる声が聞こえるって。それならさ、助ける必要なんてないだろ」

「でも、私は……皆さんの信仰から生まれた神なんです! だから、村の皆さんを助けることは――」

「――義務、とでも言いたいのか」

 穣多の怪訝な目線に少しびくりとしつつ、芋神は頷く。

 して、その言葉に関しての穣多の返答は、極めて簡単だった。

「何でそれが自分のやるべきことか、考えたことはあるか?」

「え……? だから、信仰によって生まれた神だから――」

「そういうことじゃない! お前の感情としてはどうなんだ? 芋神としてのお前ではなく、今ここにいる少女……お前の感情として」

「そんなの……唐突に言われてもわかりませんよ。神は義務なんです。私欲なんて持っては――」

「じゃあもうすでに我欲を持ってる以上、神失格だな。そんなヤツ神にならなくてもいいわ」

 穣多の煽るような口調が、少女に突き刺さる。しかし少女も負けじと言い返そうとして、その口をつぐまざるを得なかった。なぜなら背後で揺らめいている蔦が、ついに最低限残っている自分の管理能力に逆らい始めたからだ。

 少女は前に進まなければいけない。しかしどうやっても目の前の青年は通してくれそうにない。どかすためには、きっと諦めるか、蔦で強制的に釣り上げなければいけない。でも少女としては、穣多を蔓で包みたくない。芋神としては包まなければいけない。

 ……決断の時間は、少女の煩悶の度合いに対して、異常なほどに早かった。これまでの問答で、芋神はある一定の答えを得ようとしていたのだ。

「……うぉっ! ちょ、おま! 待て! 逃げる気か! 逃げるなァ!!」

「ごめんなさい。でもこうしないと、穣多さんまで傷つけてしまうから。私は、そんなことしたく――――」






 瞬間、芋神の脳裏に一つの声が浮かびます。


 それはどこまでも暖かい気持ちで、どこまでも熱くて、でも心地いい気持ちでした。


 ええ。それは今の今まで少女が感じてこなかった気持ちです。


 でも、芋神――少女は、その気持ちの正体を、簡単に言い当てることができませんでした。何せ、今まで感じてこなかった気持ちだったからです。


『あいつはなんて意地っ張りなんだ』『このままほっといたら、もう二度とお


しゃべりできなくなる』『いやだ』


「……いや、いやだ。聞きたくない」


 少女の表は、聞くことを拒否していました。ですが、裏のほう……心のほうでは、もっともっと、その言葉を聞ききたいと、耳を傾けています。


『一緒に都会に出かけて、うまい飯でも食べたいのに』『友達になりたいのに……』


「私以外の人となればいいじゃないですか! なんで、なんで……!」


『ずっと一緒にいたいのに、なんで』


「……え?」


 少女は、戸惑います。熱い感情の中に、ほのかに甘やかなものがまじっていたからです。少女も知らず、心の心拍数が上がってしまっていました。ですが少女がその感情の正体を知るには、まだまだ言葉が足りません。


 しかし、穣多の心の底からの声は。偽りようのない、心の声は。少女の空白を埋めるように降りかかってきます。


『……友達以上にもなりたかったのに』『もっともっと、仲良くなりたかったのに』


「え、あ……」


『ああ、あいつが神じゃなくなったら、どんなにいいことか!』『もしそうなったら、いろんなものを見せてあげられるのに!』『いろんなことを、してあげられるのに!』


「なに、これ……」


 蔦を通じて、芋神の心の糸はほどかれてゆきます。それにつれて、あたりの茎に変化が生じていきます。――花が、咲き始めます。薄紫の、可憐な花です。


 その光景は、綺麗の一言で片づけられません。蔦に花が咲き乱れ、ゆっくりとその蔦がほどけていく光景は、おとぎ話のようです。


 次第に、蔦に包まれ意識を失っていた村人たちが目を覚まし始めます。そしてその村人たちの誰もが、最初にその姿を認めます。


「芋神様……」


 光り輝く、少女の姿を。


 花が咲き誇り、やがて最後に蔓に包まれた穣多が解放された時には、村人たちがそろって少女へと頭を垂れておりました。その目線には畏敬の念がこもっております。


 そのころになると、少女の見た目にも少しだけの変化が生じます。頭になぜか生えていた獣耳がしぼんでいき、そこには代わりに薄紫の美しい花冠がちょこんと乗っかっておりました。


 それこそが、芋の神たる神威の象徴。慈愛あふれる神としての、権能の証です。村人たちに恵みと安寧を齎さんとする、慈愛の権能。


「ん……。こ、ここはどこだ……?」


「穣多さん!」


 そんな神様は……。いいえ、この呼び方はもはやふさわしくないかもしれません。なので、この少女のことは、後に名付けられる、│ホッカイ(北海)│コガネ(黄金)――コガネ、と呼ぶことにいたしましょう。


 コガネは、一目散に穣多のほうへと駆け寄っていきました。穣多は蔦に巻き付かれるとき、とても強い圧力で包まれていました。そんな穣多の容態を心配して、コガネはまだ満足に体が動かせない穣多のあちこちを触ります。


 一通り触り、特に異常がないことを確認すると、コガネは大きく泣き出しました。安心からか、心配からか……。とにかく、心が落ち着いたからです。


 泣きじゃくるコガネの頭を、よく事態を理解していない穣多はゆっくりと撫でました。透き通るほどに美しい秋の小麦畑色です。そよ風が稲穂を揺らすように、優しくコガネの頭を撫でます。


「……どうした、そんなに泣いて」


「わ、わかんないんですよぅ! なんか……えぐっ……自分でもわからないけど、なんかなんか……」


「無理に話そうとするな。……ああ鼻水だ。ほら、ティッシュやるからチーンってしな。ほら、チーン」


 そんな二人の姿を、村人たちはただ茫然と見つめておりました。きらきらとどこからともなく輝いている神様の姿に見惚れていたというのもありますが、それ以上に、よそ者だと思っていた穣多に、神様がなついているところに衝撃を受けていたからです。


 なんだかめんどくさそうなことが起こりそうだ。穣多はそんなことを内心で思いながら、コガネが泣き止むまで、その頭を撫で続けたのでした。







 さて、もう季節も冬。皆様、こたつに入ったり、ストーブの前で暖をとっていらっしゃるところだと存じます。ああ、もしかしたら、電車やバスの中でスマートフォンをいじったり、会社でひと時の休息をとっていらっしゃる場合かもしれません。

 皆様がこの日本で、世界で。様々な活動をしてらっしゃる、この冬。そろそろ雪が降ってくる地域もあるのではないでしょうか?

 こと村に限ってはですが、現在雪が降っております。ひらひらと、白の雨が降ってきて、今しがた、穣多の住む家の屋根に当たって、腰を落ち着けております。

 そんな光景を家の外で見ていた穣多は、はたから見れば貧相なマフラーをほどき、手近なビニール袋に放り込みました。家の中にいる人物に、このマフラーをしているところを何となく見られたくなかったからです。

「……穣多さん。そんなに恥ずかしがらなくていいんですよ。というか、あのマフラーなんだかんだ言いつつはめてくれてたんですね! うれしいです」

「ちょ、おま! なんだよコガネ! てかなんで外にいるんだよ!」

「そろそろ穣多さんが帰ってくる頃かなぁって思って」

「それだけ?」

「ええ、それだけですが?」

 なんと、このコガネ。十分前ほどからいつもと変わらない巫女装束に下駄といういでたちでここで待っていたのです。そのことに穣多は少なくない驚きとあきれ、うれしさを同時に感じます。

「……ささ、中に入りましょう。暖かいお味噌汁を準備してますから!」

「具材は?」

「豆腐と……もちろんジャガイモです!」

「出汁はちゃんととったよな?」

「もちろん!」

「味噌は溶かし込んだな?」

「…………たぶん」

 その返答にがっくりとうなだれながら、穣多はあーだこーだとコガネへと小言を言い始めます。コガネはそれを聞き入れながら、心底幸せな表情を浮かべています。

 あ、と。何かを見つけた穣多が、玄関前で唐突に止まります。その視線の先にあったのは、コガネの花冠でした。今でもみずみずしい輝きを放っているそれは、あの日の記憶を穣多に思い出させるに十分でした。

「そういえば、あの時『過去に戻ってほしくないもの』について聞きそびれたよな。実際あれって何だったんだ?」

「ああ、あれですか? そうですね……。あの時はよくわかりませんでした」

「ということは今わかってるってことでいいのか? つまりそれは?」

 穣多がそういいますと、コガネはにひひ、と意地の悪そうな笑みを浮かべて穣多の手を握りました。

 

 皆様。次の六月が来た時、ジャガイモを食べるとき。……そしてこの物語をふと思い出すとき。もしよろしければ、この村を訪ねてみてください。そこにはきっと、村人たちから朗らかに話しかけられる、夫婦がいるはずです。

 その後には、村の西方にあります小さな社へと赴いてみてください。何をつかさどる神様がおわすといいますと、縁結びと五穀豊穣でございます。もし参詣なさった場合には、皆様のもとにもこの声が響くはずでございます。

 

「私が失いたくなかったものは、戻ってほしくなかったものは慈愛の神たる私を包み込んでくれる慈愛の心。各々方も、心のよりどころを見つけるとよいでしょう。見つからなかったときは、馬鈴薯にお願いをかけてみてください。きっと、きっと貴方の気持ちは、届きますよ」



 それは、金色の風を伴って。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ