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『いもの悲劇』 作者 多摩(杉並)よしひと

URL:http://mypage.syosetu.com/529129

一言「皆様の暇つぶしになりますように」


 


じゃがいも壁画の謎


いもの悲劇



   いもの悲劇(あるいは、とある推理ゲーム)


《問題編》



【クラブ棟部屋番号】(参考)


一階

一○一 手芸部

一○三 写真部

一○二、一○四、一○五 空き部屋(施錠)


二階

二○一 百人一首部

二○二 空き部屋(施錠)

二○三 鉄道研究会

二○四 軽音楽部

二○五 美術部


【登場人物】(覚えなくても大丈夫)


金山かなやま苹果りんご 大事な城に壁画を描かれ、

洗馬せば明人あきと 百人一首部員は居眠りし、

贄川にえかわたくみ 鉄道研究部員は模型を組み立て、

南木曽なぎそ 綾香あやか 壁画の下でギターをかき鳴らし、

中津川なかつがわ英治えいじ 手芸部員はセーターを編み、

多治見たじみさくら 写真部員はアルバムを作り、

稲枝いなえだ美由希みゆき 新聞部員は謎を運び、

醒ケ井さめがい 助手は冴えない推理を披露し、


そして


二川ふたがわありす 最後に謎を解き明かす。



 ぼんやりと、生物実験室の窓の外を見ていた。緑色だったとはとても信じられない色の木の葉が、次々と母なる木に別れを告げ、地面へと舞い降りていく。少し肌寒い風が開けていた窓から入り込んで、俺の制服の裾を撫でて行った。開けていた制服の前ボタンを留め、次の風に備える。

「なあ」

 いろいろあった文化祭が終わってしまった寂しさもあるのだろう。俺はいつもの将棋の定跡の勉強が全く手につかなかった。三年生の先輩も文化祭を境に引退してしまって、二年生が歯抜けとなったこの部は、一年生だけを残し、いま、とても寒々しい様子になっていた。

 やることはないが、話のネタの一つや二つはそこらへんに転がっているものだ。俺は同じ部屋の生物研究部員、二川ありすに声をかけた。

「『いもの謎』の話、聞いたか?」

「それ、稲枝さんから聞いたんでしょ」

 彼女は天性の新聞部員の名前を出した。右手が鉛筆、左手が消しゴムになって、常にデジカメを手にしているかのような女子生徒だ。

 二川は水槽の中の亀を飽きることなく見つめていた。普段は暇さえあれば外に出て行く彼女も、今日はさすがに寒いのだろう、勝手に持ち込んだ電気ヒーターをこちらに譲ろうともしなかった。

「ばれたか」

「あんたそういうの興味ないでしょうが」

 そういうと、彼女はくるりとこちらを振り返った。おろしたての冬服が乾いた空気を切り裂いて踊った。何の意味があるのか、スカートの裾を両手のひらで払う。

 その動きがひと段落つくのを待って、俺は言葉を継いだ。

「じゃあ、『いもの謎』の話、もう聞いてるわけか」

「聞いてないよ。初耳」

 ケロリとした顔で二川は言い放った。

「でも、『謎』とかつけちゃって、いかにも人の興味を引きそうな言葉遣いだから、ああ、誰かそういう言葉の選び方が習慣になってる人だろうな、って想像しただけ。そしたら、もう稲枝さんしかいないでしょ」

「まあ、そうだな」

 ちょっとぐらいは俺にもロマンというものがあるけれど、残念、今は二川の言葉が正しい。もともとも退屈を慰めるために振った話題だ。人の興味を引いてやろうとか、そういうことを考える暇はなかった。

「で、なに? その『いもの謎』ってやつ。気になるんだけど」

「あ、気になる?」

「そりゃあね。文化祭も終わっちゃって、いよいよ本格的に暇だし」

 二川は整然と並んだ机の間を縫うようにこちらに近づいてくると、俺の向かいの椅子に腰掛けた。両腕で体重を支えながら体をこちらに乗り出す。

 二川の大きな瞳の中で、好奇心が踊っているのがわかる。

 仕方ない。一席ぶつとしようか。

「まあ、じゃあ、いいか。稲枝から聞いた話なんだけどな」

 俺は、稲枝から聞いた話を、微に入り細を穿ち、話すことを決めた。



 いつもより元気なエレキギターの音が、クラブ棟を包み込んでいた。さっき通り雨が行き過ぎたせいか、ひんやりした空気を、ギターが鋭く揺らしている気がする。

 美術部部長にして唯一の部員である金山苹果は、誕生日のその日、グラウンドの脇に立っているクラブ棟二階の美術部部室で、じゃがいもの模写をしていた。美術部の模写らしくリンゴを目の前に置いておけばよかったのだろうけれど、あいにく、今朝冷蔵庫の野菜室を覗いたら、リンゴは入っていなかったのだ。まあ、丸ければどれでも同じだろう、と、じゃがいもを持ってきたという訳である。

 キャンバスを前にして数時間、彼女は急に花を摘みに行きたくなった。



「花を摘みに行きたくなったってなに? はっきり言ってよ!」

「いきなり遮るなよ。トイレだよ! トイレに行きたくなったんだよ!」

 見知らぬ女子生徒が尿意を催した、ということを口に出すのが、清純な俺にとってははばかられるように思えただけのことだ。

 俺の答えに満足したのか、二川は「へえ、花を摘みに行くって隠語があるんだ……」などとブツブツ呟いたかと思うと、

「で、続きは?」

 と俺を急かした。




 クラブ棟はグラウンドを挟んで後者と反対側にある。加えて、クラブ棟にトイレはないので、尿意を催したら、当然グラウンドを横切って校舎へと戻らなくてはならない。美術部は美術室での活動も許可されていたが、先輩が個人の荷物(と言っても、筆やキャンバスなどの画材は美術室に保管されているので、この部屋にある筆もキャンバスも、金山のものだけだ。ぬいぐるみとか、電気ポットと湯飲みとか、およそ絵に関係ないものばかりだ)などを雑然と置いていったクラブ棟二階のこの部屋の方が、彼女にとっては落ち着ける場所だった。

 しかし、いくら落ち着ける場所であろうと、トイレはここにはない。

 彼女は筆を中が四つに分かれた筆洗い用のバケツに筆を突っ込んだ。黄色を塗っていた筆だったから、黄色い水が入った穴へと筆を差す。彼女にはそんな変なこだわりがあって、今もバケツの四つの穴にはそれぞれ、黄色、緑、黒、茶色の水が入っていた。どれもその色の絵の具を多めの水で溶いたような色合いである。

 彼女はガタのきた椅子を揺らしながら立ち上がり、木枯らしの吹く部屋の外へと出た。静かに扉を閉じる。と、彼女を出迎えるかのように肌を差すような風が吹き、彼女は細い肩を自分でぎゅっと抱いた。一瞬、コートを着ていくことも考えたが、まあ、小走りでいけば体も温まるだろうし、そこまで時間はかからないだろう。

 一瞬、鍵を掛けようかどうか迷って、結局掛けなかった。放課後に下校するときには鍵を閉めるが、今は少しだけ席をはずすだけだし、大丈夫だろう、と彼女は判断したのだ。

 彼女はとん、とん、と軽い音を立てながら金属製の階段を下り、グラウンドへと降りた。いや、足音は立てていたのだろうけれど、ギターの音のせいでほとんど聞こえなかった。

 階段を降りたすぐ隣、クラブ棟の真横には、一本だけ地面から水道の蛇口が生えていた。よく、ホースなどがさしてあり、車の洗車に使ったりするような、ああいった蛇口である。

 そして、金山は、小走りに、いや、小走りとは言えぬスピードで、グラウンドを横切って校舎へと駆け込んで行った。



「で」

 二川は頬杖をつきながら、俺の顔をじっと見ていた。柔らかな白い頬が、小さな手のひらに押しつぶされている。

 彼女にしては、退屈を押し殺すのに相当努力したのだろう、と、すぐにわかる表情だった。

「彼女が帰ってきたら、美術部の部室に落書きされてた、って話なんじゃないの?」

「おい、先に言うなよ」

 こっちだって、「じゃがいも壁画の謎」みたいな、何が起きたかばればれなのに、わざともったいつけてるような、そんな恥ずかしい名前を口にするのはかなり恥ずかしかったのに。

「だったら早く一番面白いところ聞かせてよ」

「一番面白いところ?」

「事件を捜査するところ。稲枝さんが絡んだってことは、どうせやってるんでしょ?」

 稲枝は警察官ではないが、その素質は十分にある。

 ただ、今回の主人公、金山苹果は、稲枝を上回るほどの素質を持っていたのだ。



 彼女は花を積み終えた開放感から、のんびりと、グラウンドを横切ってクラブ棟へ戻った。こうして風に吹かれてみると、秋風というものも気持ちの良いものだ。グラウンド脇の木々が木の葉を散らすのをぼんやりと眺めながら、彼女は、赤や黄色の葉が全て散ってしまう前に、この景色を絵にしておきたい、と思った。

 こんなにも心打つ景色が隣にあるのに、しかし、グラウンドに散らばったサッカー部員は、まるでそんなものに心を惹かれてはいないようだった。あちこちから、ボールを寄越せ、早く戻れ、そんな声が冷たい風に乗って聞こえて来る。

 サッカーのことはよくわからないが、楽しそうではあるな、と彼女は思った。

 クラブ棟には今、文化祭の名残で、巨大なモザイクアートが掛かったままになっている。全校生徒に方眼紙と色紙を配り、ひとマスひとマスに指定された色の紙を貼り、それを集めて繋げ合わせ、一つの大きな絵を作ったのだ。そして、校舎からも絵が見える様に、と、クラブ棟が犠牲になり、モザイクアートを貼り付けられてしまったわけだ。いつもは十個見えるクラブ棟の窓も、モザイクアートに隠されて、一階と二階の階段に近い方の二部屋ずつが隠れている。

 で、そのモザイクアートの絵柄といえば、どこの景色だかよくわからない山々なのだ。もっと別の、大々的にモザイクアートにするにふさわしい何かがあっただろう、と金山は思うのだが、まあ、あれを作る際の責任者の好みが、自分とは違っただけだろう、と金山は思っている。端的に言えば、あのモザイクアートはダサい。

 徒然そんなことを考えながら、彼女はクラブ棟にたどり着いた。まだ、エレキギターの音色が聞こえる。地面から生えた一本の水道を脇目に見て、彼女は次の一歩をためらった。行きはトイレ行きたさに慌てて通ってしまったが、さっきの通り雨で大きなぬかるみができている。勇気を出して一歩踏み出してみる。嫌な感触が靴底から伝わってきたが、我慢して通り抜ける。

 彼女はとんとん、と階段を上がった。

 見慣れた階段を登り、なんの汚れもない二階の廊下にぺたぺた泥の足跡をつけながら歩き、見慣れたアルミの扉を開けた。見慣れた筆洗い用のバケツは何も様子が変わっていない。見慣れた筆は、さっきから減りも増えもせず、さっきと同じ場所にある。さっきと何も変わっていない様な美術室の中で、さっきと違うものが一つ。

 見慣れぬ壁画を見つけた。いや、壁文字と言ったほうがいいかもしれない。

 真っ白な壁紙に、綺麗な、混じり気のない、単色の青い絵の具で書かれた、両手を広げたくらいの大きな「いも」の字。それなりに薄く溶かれた、絵の具の「あお」そのままの色をした、「いも」………………「いも」?

 なぜ「いも」なのか、というのも気になるが、今はそれは横に置いておこう。

 自分ではこんなものを書いた覚えはない。つまり、誰かが、それも自分が雉を撃ちに行っている間に、この部屋に忍び込んで、大きな「いも」を描いた、ということだ。急いで絵の具の箱を確かめると、青い絵の具がかなり減っていた。なるほど、犯人は、私の青い絵の具を使ったというわけだ。

 彼女はいきなり冷静になってそう考えた。

 何のために。

 推理小説では、そういうことを考えることを、ホワイダニットというらしい。

 誰が。

 推理小説では、そういうことを考えることを、フーダニットというらしい。

 この謎を解き明かせば、自分は名探偵なのかもしれない。誰だってそういうことに憧れたことがあるだろう。彼女は、静かな心の内に、火種を持っていることに気がついた。

 自分はアームチェア・ディテクティブにはなれないな、と、何となくそう思ったのだ。

 彼女はそんなふとした思いに気づくと、今度は部屋から飛び出した。





「とうとう捜査パート!」

 二川は目を輝かせた。俺は呆れた。

「好きだな、お前もそういうの…………」

「醒ケ井は好きじゃないの?」

 二川は不思議でたまらないと言いたげな表情だ。

「謎が解かれるのって、それだけでわくわくするじゃん」





 このクラブ棟は一階と二階に五部屋ずつ、計十部屋ある。しかし、その中で使われている部屋は一階の二部屋と二階の四部屋の計六部屋だった。一階は、階段に近い方から、手芸部、写真部の部室が入り、二階は階段に近い方から百人一首部、鉄道研究会、軽音楽部、美術部の部室が入っていた。部屋にはそれぞれ番号が振られており(冒頭の【クラブ棟部屋番号図】参照)、階段に近いほど番号が小さく、下二桁が同じ部屋は上下に並んでいる。

 クラブ棟はカステラのような直方体で、それぞれの部室への入り口と、二階の廊下はグラウンドと反対側についており、二階から一階へ降りる階段は、クラブ棟のうち手芸部と百人一首部のある側面に斜めに、グラウンドに向かって下っていくように設置されていた。

 まず、美術部のすぐ隣の部屋に入った。中から、ずーっとギターをかき鳴らす音がする。最近流行りの曲には疎い金山だったが、なんとなく、これはJ-POPというやつの伴奏なのだろう、ということはわかった。

 ノックをしても、ノックの音が聞こえなかったのだろう。金山は声を張り上げた。

「すみませーん! 美術部のものなんですけどっ!」

 ギターの音は止んだ。ややあって、アルミ製の扉が軋みながら開いた。威勢のいいギターの音色とは裏腹に、背の低く、ほっそりとした女の子だった。

「美術部部長なんですけど……」

「はい、あ、部長さん。南木曽と申します。えっと……、部長さんのお名前は?」

「あ、金山です」

「金山さん、どうもうるさくてすみません」

 ぺこり、と南木曽はお辞儀した。彼女が体を折ったから、体で隠されていた部室の中が、金山にも見えるようになった。ごちゃごちゃとした、何に使うのかもわからないケーブルや、黒い網の貼ってある黒い箱や、唯一何なのかがわかるギターが、雑然と部屋の中に転がっていた。

「で、美術部の部長さんが軽音部に何のご用でしょう?」

 首を可愛らしくかしげる南木曽をみて、金山は心をぎゅっとつかまれたような気持ちになった。なんだこの可愛らしい生き物は…………。

 にやけそうになる口元をどうにかなだめ、金山は南木曽に尋ねた。

「一つ聞きたいんだけど、美術部の部屋に入った?」

「え…………、入ってませんけど、何かあったんですか?

「それがね」

 金山は、自分が部室を外していた間に、部屋に落書きをされていたのだ、ということを簡潔に説明した。南木曽は「へええ」と唸ると、

「なんというか…………、大変でしたねえ」

 そう言って、困ったように笑うのだった。金山はそのまま彼女を抱きしめたくなるのをぐっとこらえて、



「え、なんかさ、なんて言っていいのかわからないんだけど」

 二川の声は珍しく困惑した色だった。

「大丈夫。お前の言いたいことは十分わかる」

 金山はなんでそんなことまで稲枝に供述してるのか、ってことなんだよな、問題は。



 南木曽に尋ねた。

「あなたは、ずっとこの部屋にいたの?」

 南木曽は即答した。

「はい。ずっとこの部屋で練習してました。下手な演奏でお恥ずかしいのですが、どうしても上手くならなくちゃならないので…………」

 うつむく南木曽の頭を撫でたくなるのを、また必死でこらえ、金山はもう一つ質問をした。

「隣の部屋で、何か物音とかしなかった?」

「えっと、ギターの音のせいで、なにか物音がしてても聞こえなかったと思います」

「そう、ありがとう。邪魔したわね」

「いいえ」

 お礼と詫びの言葉を言い、退散しようとした金山に、南木曽は声をかけた。胸の前で拳を握り、目は金山だけを見つめている。

「その…………、頑張って下さい」

「あんたもね」


 金山は軽音楽部の扉を閉め、その隣の部屋に入った。「鉄道研究会」と書かれた紙がアルミの扉に貼ってある。今度は声を張り上げる必要はなかった。ノックをすると、すぐにアルミの扉は開いた。

 のっそりとした、背の高い男子生徒だった。山のような体を難儀そうにここまで引きずってきたのだろう。

「なんだよ、苹果」

 目の前の男子、そして、何とも悔しいことに、金山の目の前のこの男子、贄川匠は金山の幼馴染だった。根っからのやんちゃ坊主兼鉄道好きが、高校に入ると、どこからか見つけてきた仲間とともに鉄道研究会を作り上げ、このクラブ棟の一部屋を我がものとしてしまったのだ。

「いやさ、美術部の部屋に落書きされてたんだけどさ、あんたじゃない?」

「え、なんで俺なの?」

「クラブ棟の人たちに聞いて回ってるの。あんた、この三十分の間に、この部屋、出てない?」

「出てないよ」

「ほんとに?」

「出てない。証人がいないから、俺以外誰も証明できないけどな」

 面倒臭そうにそう言い放つと、

「これでいいか? 今いいところなんだよ」

 そう言って、彼は部室を振り返った。何だかわからないスプレー缶たちと、プラスチックで出来た何かがゴタゴタと転がっている。ジオラマの作りかけだと、幼馴染は解った。何度か匠の家に行くことがあったが、彼の部屋は大抵こんな惨状になっていたのだ。

「あ、そうそう。隣のギターって、ずっと聞こえてた?」

「ああ、聞こえてたよ。動き回ってる音も、コードが地面に擦れる音も、ずっとだ」

「もう一つ、今日、なんの日だかわかる?」

 金山は意地悪く聞いてみた。贄川はいつもの通り、嫌がるそぶりを見せた。こうやって金山が贄川をいじめるのは、いつものことだった。

 贄川は嫌がりながらも、目を逸らしてぼそっと答えた。

「お前の誕生日だろ」

 もういいか? と言って、贄川は部屋の奥に引っ込んでいった。


 金山は鉄道研究会のとなりの部屋に入った。すぐ隣には階段がある。扉には「百人一首部」とだけ書かれた紙が貼ってある。ノックをしたが返事がない。ドアノブを捻ると扉は何の抵抗もなく開いた。

 むわり、と熱気が中から漏れ出した。電気ストーブの暖かさだ、と金山は皮膚で感じ取った。そのままドアを開け放つと、閉じられた窓のカーテン、部屋に敷き詰められたどこからもらってきたのだろうと、その真ん中で大の字になって横になっている男子生徒が一人、目に入った。

 起こして良いものだろうか、と金山が考え込んでいる間に、その男子生徒は「むう」とか「んあ」とか言いながら、もぞもぞと腹をかき、ゆっくりと起き上がった。

 そして、目に金山を捉え、表情が一気に驚きに包まれる。

「あ、あんた、誰だ!」

「あ、勝手に入ってすみません」

「お、お、俺に、何の用だ! 金なら持ってないぞ!」

「いや、違います。美術部部長の金山と言います」

「…………、あ、奥の部屋のとこの人か。普段全然見ないからわからなかった」

 けろりと言い放って、男子生徒は畳の上にあぐらをかいた。普段彼が自分を見かけないのは、多分自分がずっと部室に籠って絵を描いているからだろう、と金山は思った。

「俺は洗馬明人。百人一首部の部長です。よろしく。で、何の用?」

「あの、一つお尋ねしたいんですけど、洗馬さん、この三十分の間に、この部屋から出たりしましたか?」

 洗馬はうーんとうなった後、寝癖のついた頭をかきながら壁の時計を見上げた。そして、うむうむと頷いて、

「いや。ずっと寝てた」

「誰かそれを証明できる人はいますか?」

「いや、いない。…………あんた、探偵かなんか?」

 金山はまたさっきと同じ説明を繰り返した。洗馬は頷きながら全部聴き終えると、

「悪いが、俺は寝てたから、何か変なことがあっても気付けなかったかなあ」

 といった。

 金山は見切りをつけた。彼が犯人であろうとなかろうと、どちらも証明するのは難しいだろう。

「お休み中すみません」

「ん。いいって。それにしても、あんたも大変だな」



「これで、二階の人たちの事情聴取は終わったってことね」

 肘が痛くなったのか、二川は頬杖をやめ、両手を組んで、後ろの机にもたれる様な格好になっていた。椅子を後ろに傾けて、さながら安楽椅子探偵である。

「そういうことになるな。二階の五部屋のうち一部屋は空き部屋だから」

「空き部屋って誰でも自由に入れるの?」

「いや。生徒会が空き部屋に南京錠をかけて施錠してる。鍵がないと入れないな」

「なーるほど」

 しばらく二川は傾けた椅子をゆらゆらさせて何かブツブツとつぶやいていた。が、しかし、急にがたんと椅子を元に戻すと、またこちらへ身を乗り出した。

「じゃ、続けて。次は一階の事情聴取でしょ?」



 金山は階段を降りて、一階へと下った。階段すぐ近くの部屋の扉をノックする。手芸部、と書かれた扉を開けたのは、メガネをかけた男子生徒だった。

「こんにちは。美術部部長の金山と申します」

「あ、手芸部の中津川と申します」

 そして、おきまりの説明をひとしきりした後、

「で、何か変なことはありませんでしたでしょうか?」

「んー、そうですねえ。ここでも聞こえる通り、かなりのギターの音量ですから、何かあったとしても勘づくのは難しいですねえ」

「まあ、そうですよね…………。あ、じゃあ、あなたは今まで何をしてましたか?」

「僕ですか?」

 彼はそう言って、わざとらしくメガネを人差し指で押し上げると、

「冬に備えてセーターを編んでいたんです。今年は寒くなるのが少し早かったので、プレゼントするには遅れてしまいましたけど」

「へえ。誰にあげるんですか?」

「彼女です」


 ノロケ話を聞かされそうになった金山は、手芸部を飛び出すと、空き部屋を飛ばして隣の部屋の扉をノックした。写真部の部室である。

 出てきたのは金山と同じ様な背格好の女子生徒だった。

「こんにちは。美術部部長の金山です。一つお尋ねしたいことがあって来たんですけど……」

 そして、おきまりの説明。金山は内心うんざりしつつ、それでも詳細な説明を済ませた。応対した女子生徒は、多治見桜と名乗った。

 ギターの音はさっきより少し静かになった。それでも、さっきから感じる様に、会話するだけでも少し声が大きくなっている気がする。

「で、変わったことはありませんでしたか?」

「なかったですね。ずっとこの部屋で写真集を作ってましたし」

 彼女は部室のテーブルの上を指差した。確かに、洒落たアルバムの様なものが、机の上に開きっぱなしになっている。部室には、黒いカーテンで仕切られた暗室もある様だった。

 やはり、彼女も一人でずっといた様である。困ったことになった、と金山は思った。

「変わったことといえば」多治見は人差し指で天井を指差した。「なんか今日、ずーっとギターの音がしますけど、何かあったんですか? コードを引きずる音とか、足音とかも、ずっと聴こえてくるんですけど」

「練習してるみたい。それも結構ハードに」

 金山の答えに、多治見ははあ、とため息をついた。

「本当は静かに写真を選びたかったのに」



「これで、一階の事情聴取も終わったんだね」

「ああ」

 うーん、と二川は伸びをした。制服の裾が持ち上がって、内側が見えそうになったので、俺はそれとなく目を逸らした。お腹が見える見えないの話ではなく、その、なんだ。中にジャージのズボンを履いてたとしても、スカートめくりをしやすいかといえば別の話だろう。

 そういうことだ

「で、金山さんはそのあとどうしたの?」

「ん? サッカー部のコーチに、クラブ棟から出てきた人がいたかどうか聞きに行ったらしいぞ。結局、金山さんがトイレに行ってる間、クラブ棟から出てきて校舎との間を行き来した人間はいないらしい」

「へえ」

 それだけ言うと、二川はにやりと笑った。

「あんた、誰が落書きしたかわかった?」

「いや、まだだけど…………、お前はわかったのか?」

 二川はその笑みを残したまま、今度は肩のストレッチを始めた。

「うん。まあ、いい暇つぶしにはなったけどね」




《読者への挑戦》

 無味乾燥な小説をよくここまで読んでこられました。まず作者として、読者の皆様に御礼申し上げなければなりません。

 その上で、この小説を、ゲームとしても楽しんでほしい、というのが作者からのお願いです。

 この小説は、タイトルにもある通り、〈推理ゲーム〉です。ここまでで提示された条件だけを用いて、作中の登場人物である二川ありすは、あの落書きを描いた犯人を特定するに至りました。

 今度はあなたの番です。

 二川ありすが得た情報と全く同じ情報を用いて、あなたにも犯人を特定していただきたいのです。あなたの持ち合わせた武器は論理であり、二川ありすの武器もまた、論理なのです。当て推量で犯人を予想するのもいいですが、確実性はなく、その説明で人を納得させられるかどうかもまた、怪しいものです。

 この小説は犯人当てとしては易しい問題ですが、二川ありすにとって暇つぶしになった様に、読者の皆様にとってもまた、このゲームがよい暇つぶしになります様に。

 では、犯人が誰かお分かりになった方から、どうぞ以下の解答編を読み進めてください。


(追記)

 この犯人当てでは、叙述トリックの可能性及び共犯者の存在する可能性を考慮する必要はないことを記しておきます。つまり、犯人は単独犯で、誰の助けを借りることもなく犯行を遂行したものとします。さらに、犯人以外は嘘をついていないものとします。










《解答編》

「で、犯人は誰なんだ?」

 勢い込んで聞く俺を小馬鹿にした様に、二川は笑みをさらににやにやとさせた。つまり、もっと得意げに、こちらに微笑んで見せたのだ。

「まず、醒ケ井が推理してみなよ」

 俺はしばらく目を閉じてみた。クラブ棟を思い浮かべ、金山が、そして他の部の部員が、それぞれの城である部室にこもっている様を思い浮かべてみた。金山がグラウンドに出る。その間、空になった美術部の部室に、誰かが、入り込む………………。

「まず」俺はゆっくりと話し始めた。「クラブ棟の誰かだ、ということはわかるな」

「うんうん」

 二川は頷いた。ここまでは当たっているらしい。

「で、まず、みんな軽音楽部のギターの音がずっと聞こえてた、と言ってたから、軽音楽部の部室にいた南木曽さんは除外されるな」

「まあ、そうだね」

 そこも当たっているらしい。

 しかし、それ以上、どうやって犯人を絞ればいいのか、全く見当がつかない。そもそもあのクラブ棟にいる人間のうち、金山を除いた全員が「自分は部室から出てない」と言い、さらに、それを嘘だ、と指摘する根拠となる様な矛盾でさえ、全く見つからないのだ。そもそも、金山と犯人候補の人たちは、そう言った矛盾が出てくるほど長くは会話していない。

「ダメだ。絞れない」

「そっかー」

 嬉しそうな二川をみて、俺はますます癪になっていく。悔しい。

 悔しいが、わからないものはわからない。

「ギブだ。どうやって犯人絞ったんだ?」

 俺が両手をあげて降参すると、二川は「そっかー、わからないかー」と言いながら、ゆっくり立ち上がった。黒板の前まで歩いて行くと、何本かチョークを取った。黄色、赤、青だ。

「まず、壁の壁画についてだけどね。青でじゃがいもが描かれていた。しかも、それは綺麗な青色だった」

 俺は頷いた。間違っていない。

「青は色の三原色の一つだ、ってことは醒ケ井も知ってるよね。つまり、他の色を混ぜ合わせても、綺麗な青を作り上げるのは難しい。

 あの落書きの場合も一緒なんだ。犯人は金山さんの私物である青い絵の具を使った。でも、それだけじゃ不十分だ。水彩絵の具は水で溶かないといけないからね。でも、筆入れバケツに入ってた水は黄色に緑に茶色に黒。壁画に使われた絵の具はちゃんとそれなりの量の水に溶いてあったみたいだけど、筆入れバケツの水を使うと、どうしても綺麗な単色の青にはならない。

 さらに、青い絵の具を溶いた筆を筆入れのバケツに入れると、どうしても水の色が変わってしまうはずなんだけど、金山さんが帰ってきたときも、バケツの様子は変わってなかった。

 つまりどういうことかというと、犯人は筆と、絵の具を溶く水、両方とも自分で用意していたんだ。水は、バケツかペットボトルとかに汲んでおいたんじゃないかな」

「…………ああ、確かに」

 確かに、そう言われてみると、犯人は計画的に壁画を描いていることになる。でも……。

「でも、なんで犯人はあんないたずら書きをしたんだ?」

「なんで? そんなの犯人に聞けばいいじゃん。しかも、その『なんで』がわからなくても、犯人は特定できるし」

 俺の言葉は二川にぶった切られた。静かに座して、二川の言葉の続きを聞く。

「自分で用意してきた、ということは、つまり、あの落書きをあそこにするために持ってきた、って考えて良さそうだよね。それに、落書きをしようっていうのに、絵の具だけ持ってきていないのも加えると、彼女が席を外している間に、あの美術室に落書きをしようとしていた、というところまでわかるね。普通の部屋なら、水はともかく絵の具なんてないから。

 つまり、どういうことが言えるか」

 そういうと、二川は俺を見た。答えろ、ということらしい。

「え、えっと…………、え、何を答えればいいの?」

「もー、本当にわからないの?」

 そういうと、二川は黒板に二行、こう書いた。


 条件い、犯人は、金山さんが各々の部屋を訪れた時に部室にいた面々のうちの誰かである。

 条件ろ、犯人は金山さんが美術室から出て行く時を伺っていた。


「美術部員は一人しかいないことも合わせると、あの部屋に出入りする人がいたということは、つまり、金山さんが出入りした、ということだからね。つまり、金山さんがあの部屋を外す瞬間を、犯人は狙っていた」

 どう、と二川は俺に尋ねた。どう、というのは、この推理がどうか、ということだろう。

「ああ、いいと思うぞ」

 二川は笑った。喜んでいるのが丸わかりだ。上機嫌になった二川は、さらに続けた。

「じゃあ、犯人はどうやって金山さんが出入りしたのを知ったのか。もしくは、どうやって美術部の部室に金山さんがいないとわかったのか。開けてみて誰もいなかったら、そこで落書きした、というのは無理筋だよね。わざわざ筆を持ってきてるわけだから。

 絵を描くときはそんなに騒がしくないだろうから、扉を隔てて、美術室の中に誰かがいるかどうかを知るのは、かなり難しいよね。

 だからと言って、ノックして返事がなかったからって扉を開けて、いるかいないかを調べるのも、それはそれでリスキーだと思うんだ。だって、犯人はわざわざ彼女のいない隙を狙ってるし、筆も水もどこかから用意してくる様な周到さだからね。美術室で絵を描いていて、一瞬その部屋をはずす。その一瞬じゃないと犯人は落書きできないから、逆に言えば、その一瞬を、その一瞬だけを確実に判断できる様な方法で、金山さんの出入りを確認してるはずなんだ」

 二川はどんどん絶好調になっていく。こんがらがった糸を手繰って犯人に近づいていく二川を、俺は置き去りにされない様に必死についていく。

「美術部の扉を近くで見張ってる人はいなかったんだろうね。あのクラブ棟に部室がある部の面々のうち、誰かが美術部の部室を見張ってたら金山さんは気づいただろうし。

 じゃあ、扉の開け閉めの音で気づいたのか? あるいは、彼女がクラブ棟の廊下や階段を降りる音を聞いていたのか? それも違う。あの時、南木曽さんが演奏していたギターの音のせいで、自分の足音でさえも聞こえないくらいだったからね。扉を隔てた部室の内側から、その足音を聞くのはまず不可能だっただろうね。

 となると、残りはこれくらいしかないんじゃないかな。窓から、グラウンドを横切っていく金山さんを見ていたんだ」

 二川は、そこで小さく間を置いた。彼女がどうやって犯人を絞り込むのか、俺にもだんだん見えてきた。

「でも、クラブ棟の十部屋の中、一○一、一○二、二○一、二○二号室の四部屋の窓は、モザイクアートで隠されてたんだ。つまり、この四部屋の中、空き部屋である二部屋を除いた、一○一号室の手芸部と二○一号室の百人一首部の部室からは金山さんがグラウンドを横切っていくのを見ることはできなかったんだ」

 そう言って二川は黒板に向き合うと、さっきの二行の下にこう書き加えた。


 条件は、犯人のいた部屋の番号の下一桁は三以上。


 二川はさらに続けた。

「まず、犯人が階段を上がってないことがわかるよね」

「ちょっと待て」

 こういうところがこいつの悪癖なのだ。いきなり話をすっ飛ばして進めていくのだ。しかもそれが、「自分にもわかることが相手にもわかるはずだ」と信じ込んでいる、いわば「純粋なすっとばし」ならまだいい。

 しかし、こいつはわざとすっ飛ばすことでこっちを面くらわせ、話に引き込もうとしているのだ。タチが悪い。

「なんで犯人が階段を上がっていないのか、そこから説明してくれ」

 俺の言葉に、あきれた様子で二川は言った。

「あんたねー、少しは自分の頭で考えなよ。

 階段の下には通り雨でぬかるみができてたんでしょ? で、金山さんは校舎に行き、クラブ棟に戻ってきた後、『なんの汚れもない二階の廊下にぺたぺた泥の足跡をつけながら』歩いていた。自分の足跡が残されてるのを見つけてたわけじゃん。

 階段を登ったなら、ぬかるみでついた泥が廊下に残るはずだった、ってことがわかるわけ」

 聞いてみたら案外簡単な話だった。もっと自分で考えるべきだった。そうすれば、こんなに得意げな二川の顔も、見なくて済んだのに!

 俺がそんな後悔にとらわれているうちに、二川は黒板にもう一行付け足していた。


 条件に、犯人は二階に部室がある人物である。


 二川は両手をぱんと打ち鳴らした。

「というわけで、『条件は』と『条件に』から、犯人は軽音楽部の南木曽さんと鉄道研究会の贄川さんに絞られるでしょ? でも、南木曽さんが犯行をしていないことは、ギターを部室でずっと弾き続けていたことからわかる。

 よって、犯人は贄川さん」

「へええ…………」

 いつの間にか犯人が一人に絞られていた。もう一度、二川の推理を頭の中で反芻してみる。確かに、二川のたぐる糸を引っ張って行った先にいたのは、贄川ひとりきりだった。

 しかし。

「でも、こんな七面倒な推理をしなくても、金山さんにはほとんど一発で犯人がわかったんだ思うけどね」

 なんだと。

 稲枝が「謎だ謎だ!」と騒ぎ立てたあの話の中で、金山さんはすでに犯人を見つけていたというのか。

「稲枝さんは、又聞きでこの落書きの話知ったんじゃないの? で、落書きを見つけた金山さんに話を聞きに行った。違う?」

「ああ、軽音楽部のライブの取材に行った時に聞いたって言ってたぞ」

 前の日までは軽音楽部が他の学校の部と一緒になって大々的にライブをする、というので「これはいいネタだ」と浮かれていた稲枝が、次の日から落書きの話ばっかりし始めて、こちらも面食らった覚えがある。

「で、稲枝さんは、まだこれを記事にしていない。金山さんから話を聞いただけなんだと思う。醒ケ井も、稲枝さんから話を聞いただけでしょ?」

「ああ」

 二限と三限の間の休み時間に、彼女がまくしたてる話を聞いていた。

「なるほどね。じゃあ、金山さんは犯人をわかった上で隠してたんだ」

「いや、ちょっと待て。金山さんにだけ解るって、どういうことだ」

「もしかしたら稲枝さんにも解るかもしれない」

 …………さらに意味がわからない。

「引っ張らないで教えてくれ。なんで金山さんには犯人がわかったんだ」

「うーん、じゃあ、まあ、教えてあげてもいっか。

 さっきから『いもの謎』って言ってるけど、多分、落書きされていたのはこういう文字じゃないかな」

 そう言って、二川は長いチョークを一本取ると、黒板にこんな字を書いた。


 芋


 つまり、漢字で「いも」と書いたのだ。二川はチョークを手のひらの中で転がしながら、続けた。

「で、この字は何かに似てると思わない?」

「…………え」

「わからない? あの字だよ、あの字」

 そういうと二川はもう一本長いチョークをとって、黒板にこう書いた。


 苹果


 普通、「りんご」を漢字で書くとしたら「林檎」だろう。しかし、金山さんの名前は、同じ読みでも「苹果」と書いた。

「草冠を書いて、『干』を書いて、最後にカタカナの『ハ』を『干』の日本の横棒の間に書く。書き順としては正しくないけど、こういう書き方をする人もいないとは言えないと思う。つまり、『ハ』を書く前の段階で書くのをやめると、草冠に『干』す、つまり、『芋』の『于』の下を跳ね忘れた、みたいな字になるんだ」

 確かにそうだ。

 つまり、ずっと「いもの謎」と呼んでいたけれど、本当は「りんごの謎」だったわけだ。じゃがいもはナス科、りんごはバラ科。大きな違いだ。

 そして、「りんご」が何を意味するのか、考えるまでもないところも、大きな違いである。

「で、このなりそこないの『苹』の字である『芋』を見た金山さんは、おそらく、そう時間の経たないうちに、これは自分の名前を書こうとした誰かが、書きかけで逃げたのだ、と思い至る。もちろん、書きかけで逃げたということは、自分がこの部屋に戻ってくるのがわかったからだ、というところにもね。

 じゃあ、なんで自分がこの部屋に戻ってくるのがわかったのか。足音が聞こえてからでは、金山さん自身と廊下で鉢合わせしてしまう。だから、もっと金山さんが遠くにいる段階で、金山さんのお帰りを知らなきゃなんない。

 なら、犯人は美術部の窓から金山さんが戻ってくるのを見ていたことになる。金山さんが校舎から出て、グラウンドを横切ってくるのを見て、こりゃ大変だ、落書きをしているところがバレてしまう。こう思って、自分の部室に戻るんだ。

 でもね、もしその人の部室が一階だったとしたら、降りてくる時に、グラウンドにいる金山さんの目に入るはずなんだ。でも、一言も彼女はそんなことを言っていない。彼女が全ての部室を訪れた時も、金山さんは『階段降りてたでしょ』なんて追求していない。

 つまり、犯人の部室は二階にあって、グラウンドからの死角にある、クラブ棟の廊下を通って、自分の部室に戻ったとわかるんだ。

 さらに、自分の名前を、自分のいない間に部室に落書きする、ということは、金山さん自身が部室にいない間を狙っていたと考えられると思うんだ。さっき話した『一回目の推理』にもあったようにね。つまり、犯人の部室はモザイクアートが貼られていない場所にある。

 その上で、南木曽さんは、金山さんの名字さえも知らなかった。そんな子が下の名前なんて、それも、『苹果』って書くんだ、なんてこと、知っているはずもないよね。

 だから、金山さんは、南木曽さんを消去法で消去して、あの落書きが贄川さんのものだって、すぐ解ることができたはずなんだ」

 そういうと、二川は、二つのチョークで器用にジャグリングを始めた。うまい。うまいぞ。

 いや、ジャグリングはどうでもいい。

 俺にはもっと色々と聞きたいことがあった。

「お前の推理が当たってたとして、贄川さんは『苹果』の続きに、何を書こうとしたんだろうなあ」

「そりゃ、『苹果、誕生日おめでとう』でしょ?」

 俺は想像してみた。美術部の部室(行ったことないけど)に、でかでかとその落書きが書いてあるところを。美術部員は金山さん一人だから、その落書きを見るのも消すのも、金山さん一人だ。

 いや、消す方は、贄川さんが手伝うのかもしれない。

「なんか…………、愛が重いな」

「幼馴染だからね」

 それは問題じゃないだろう、と俺はつっ込もうと思ったが、二川はそんな隙間もなく言葉を繋いだ。

「まあでも、贄川さんにしてみたら、もしバレたらすっごく、ものすっごく、恥ずかしいことなんじゃないかなあ。例えば私があんたの部屋とかに『醒ケ井、誕生日おめでとう』とか書いたとして、しかもそれが全校生徒にバレたら、もう私この高校辞めるもん」

 なんでお前が俺の部屋に書くんだ、とか、色々言いたいことがあるが、ぐるぐるこんがらがったのでとりあえず黙っておく。

「だからさ、そこを黙っといてあげるのが、金山さんの優しさなんじゃないのかな。もっと好意的、喜劇的、優しさに溢れた世界的、かつハッピーエンド厨的な考え方に基づいて言うなら、金山さんも、あの落書きはまんざらじゃなかったんじゃないかな、って思うよ」

 それはどうだか。

 二川は、どうしようもなく冷たい時があるのに、たまに、こうやって、喉が痛くなるほど甘いミルクチョコレートみたいに、だだ甘な時がある。

 もっと、悪意的、悲劇的、悲しみに溢れた世界的、かつバッドエンド万歳的な考え方に基づいて言うなら、金山さんは贄川さんをその後問い詰め、叱り飛ばし、美術部の部室を掃除させ、蹴りの一つでも入れたのかもしれない。もしくは、気持ち悪くて、一人で悪態をつきながら落書きを消したのかもしれない。そして、稲枝はお情けでそれらを黙っているのかもしれない。

 俺には、そっちの可能性の方がしっくり来る。

 あくまで、どっちの可能性も「かもしれない」の範囲を越えられない。

 落書きをしたのが誰なのか、がわかっても、落書きをした人がどう思われたか、その後どうなったか、なんて、推理だけじゃわからない。

 つまりは、二川の言った通り、暇つぶしだったわけだ。

 真実を解き明かすことそれ自体に喜びを感じる。それで、誰をどうしてやろうとか、何をどうこうすべきだ、とか、そういうことは一切考えない。

 でも、解き明かされた真実に、幸せな幻を見るくらいなら……。

「あーあ、私がハッピーエンド厨だってわかってるくせに」

 急に、二川は言った。

「ん?」

「ん、じゃないよ。今どうせ、『お前は甘い』とか言おうとしたでしょ」

「…………言おうとはしてないけど、思ってはいた」

「はあああ、これだから醒ケ井は」

 そういうと、二川は黒板の桟にチョークをおくと、教壇を降りて教卓の前に周り、よいしょ、と教卓に腰掛けた。

「私にとっては、その金山さんとかいう人も、贄川さんとかいう人も、どうせ人生に関係ないわけ。

 なら、無駄にシニカルになるよりは、ハッピーエンドを考えていた方が幸せになれると思わない?」

 つまり、それが彼女の生き方なのだろう。

 推理してしまうからこそ、いつも、あちこちに人の悪意を見てしまう。

 それを振り切るための、彼女なりの生きる術なのだ、と俺は理解した。

「…………少なくとも俺は」

「? 俺は?」

 …………俺は。

 ……………………。

 っぶねええええええ。何を口走ろうとしてるんだ俺は。

「なんでもねえ。そこまで重く考えなくても、ハッピーエンドは勝手にハッピーエンドになるし、バッドエンドでも頑張りゃハッピーエンドになるから心配するな」

「え⁉︎ 何? 急にどうしたの、醒ケ井? らしくないこと言って」

 ニヤニヤと笑う二川からわざと目を逸らして、俺はまた、クラブ棟のモザイクアートに目をやった。片付けをぐずぐずしていたからだろう、かわいそうに、全校生徒の努力の結晶のモザイクアートは、雨に濡れてしまっていた。水は紙の大敵だ。

 俺がいま、二川に伝えようとしたこと。

 他の人がどうか、俺は正確に知ることはできない。自分の心だってそうだ。でも、少なくとも俺が二川に悪意を抱いている、そんなことは、絶対にない。保証できる。

 そう言おうとした。

 どうしてだかそれが、恐ろしく恥ずかしく、そしてなにより、何か破ってはいけないタブーを、全力で突き破っているように感じられたのだ。

「まあね、私たちにできることは、贄川さんの幸せを祈ることだけだよ」

 二川はそういうと、足をぶらぶらと揺らして見せた。

「落書きしちゃうほど金山さんのことが大好きな贄川さんに、幸あれー」

「二川、お前、ほんとに祈ってる?」

「全然。贄川さんの幸せは贄川さんが掴まなきゃ」

 二川は断言すると、窓の外に目をやった。クラブ棟と、そこに貼り付けられたモザイクアートを見て、言う。

「あの絵柄さー、もっと別のいい絵柄あったはずなのにね」


 “ The Tragedy of IMO” END

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