クロガネ=レイジ(仮)
目を開けると見知らぬ天井が目に入った。
少年が体を預けているのは清潔なシーツが引かれたベッドの上のようだった。
――ここは……?
視線を動かす。周囲にも似たようなベッドがあり、そのうちの一つのようだった。
見たところここは病院のようだった。
窓ガラスからは柔らかな光が差し込んできており、心地よい気分にさせてくれる。
なぜこんなところに自分はいるのだろう?
そう疑問に思って記憶を辿ってみる。
――あれ?
疑問が生まれた。
何故か少年の記憶の中に、ここ以外の記憶がない。
今見ている光景以外に何も思い出せない。
――ここはどこだ? そして……俺は誰だ?
「あ……」
突然声が聞こえた。視線を向けると一人の女の子がいた。
身長が並みの大人よりも大きく、白い修道服を身にまとっている。
ウィンプルの下から覗く黒髪と服装、大人と子供の中間といったややあどけなさを残した容姿をしている。
そのためか大きい身長とは裏腹に、優しそうな印象を受ける。
が、立っている姿だけ見るとかなり迫力があった。
彼女は、パッと明るい笑みを浮かべつつ、こちらに近寄ってきた。
「あの、お加減いかがですか?」
「え? え、っと多分、大丈夫」
いうや否や、彼女はさらに笑顔になり、胸をなでおろした。
「よかった! ちゃんと、目を覚ましてくれた! よかった、よかった……!」
眼に涙を溜め、女の子は全身でその喜びを表現した。
どうやら相当心配をかけたらしい。少年は二つの意味で申し訳ない気持ちになった。
一つは単純に心配をかけてしまったから。
もう一つは少年は目の前の女の娘のことを知らない。彼女に関する記憶を頭の中で辿っても、まったく思い出せることがない。
――俺は……誰なんだろう?
こんなことを聞いたら、今喜んでいる彼女をがっかりさせるかもしれない。そんな不安がよぎる。
女の子をがっかりさせるのは男として情けない限りだが、何も知らないまま、わからないまま流されるわけには行かない。
「あの、すみません」
「はい! なんでしょうか?」
女の娘はとても明るい笑顔で、答えてくれる。ますます聞き辛い。
「俺は……誰なんでしょうか?」
「あ……」
彼女の瞳から光彩が消えた。空気が凍っていく。その感じがとてつもなく嫌な感じだった。
「ひょっとして……何も覚えていないのですか?」
「うん……それにあなたのことも。何も俺は覚えていないんです」
女の娘はしばらく目を丸くしていた。と思ったら、すぐに表情を切り替え少年の下に歩み寄っていく。そしてベッドの上にいる少年と目線を揃えた。
「不安ですか?」
「まあ、ね」
「思い出したいって、思いますか?」
それはどういう意味だろう?
過去がないということは、積み重ねてきた経験や知識がないということだ。
自分が何者かわからないと言うのは不安でしかないし、自分自身の行動の指針になるものが、なにもないということだ。
「思い出したい」
真っ直ぐに彼女に対して、言い切る。
「手伝いますよ。私も」
「え?」
「私にとっても、貴方の記憶のことは無関係じゃないから」
女の娘の穏やかな笑みが、少年の脳裏に刻まれていく。
そしてスッと入ってきた。彼女の感情や思いが。言葉にしなくても、その気持ちが伝わってきた。
「ありがとう」
だから、自然と感謝の言葉がでた。
「私はヒノキ。ヒノキって言います。よろしくお願いします」
そういって、ヒノキは握手を求めてきた。少年も素直にそれに応える。
「ありがとう、俺のほうこそよろしく」
握手を交わし、手を離すとヒノキは大事なことを提案してきた。
「とりあえず、名前必要ですよね」
「そういえば……」
いくら記憶がないとは言っても、自分のことを呼んでもらうための呼称は必要だ。
「もし、名前の候補がないなら……私に一つ提案があります」
「候補なんてないよ。俺は今目が覚めたばかりなんだ。どんな名前なら自然だとか、そんなことわからない。だからさ……君が決めてくれないか? 俺をどう呼ぶかを」
「いいんですか?」
「……何が?」
「私にそれをゆだねても……」
名前。いうまでもなく、それは本来生まれたときに両親からもらう最初のプレゼントだ。
そのことがわかっているからだろう。彼女は少し戸惑いを感じているようだった。
「思い出すまでの仮の名前でいいさ。それに、知ってるんだろ? 君は俺の事を」
「……はい」
「俺は自分のことを思い出す手がかりがほしい。些細な情報でもいい。何か知っていることがあったら教えて欲しいんだ。名前も含めて」
「じゃあ、あくまで仮ということで……」
コホンと、小さく咳払いをしてからヒノキは言った。
「クロガネ=レイジ。というのは、どうでしょう……?」
「クロガネ……レイジ……それが君の知ってる俺の名前か?」
コクリとヒノキは頷く。
「その名前は私の……お兄さん……兄の名前です。貴方は、その人にとてもよく似ている……」
「いいのか? そんな名前を俺が名乗って……」
「もし、貴方が私の知ってる人なら、何も問題ないです」
「俺がそのレイジじゃなかったら、君にとってのお兄さんじゃなかったらどうする?」
「……私にとっては、あなたはもうお兄さんですよ」
その言葉の裏にどんな思いが秘められているのか、今はわからない。同時にわからなくてもいいと思った。
今必要なのは、自分と言う存在をはっきりさせることなのだから。
「そうかい……ま、好きに呼んでくれ。俺も、その名前を名乗らせてもらうことにするよ」
こうして、少年はクロガネ=レイジを名乗ることになった。
設定は色々考えているんですが、どの順番でどう開示しながら話を展開していくか。
そのさじ加減がちょっと難しいので、今回はスロースタートで行きます。