最終検定(5)
不具合を起こした機体の元では、機付整備員たちや列線整備長、整備小隊長などが集まって左主脚の部分を覗き込みながら話し込んでいた。パールの姿も人垣の中に見える。機上を離れ駐機場に降りた俺も、吹きつける雨と生暖かい南風に逆らってその場に急いだ。
腕組みをして難しい顔をしたラインチーフが、俺に気づいて質問を向けてきた。俺は上空で確認した外観状況をそのまま伝えた。
機付長や部下の整備員たちは考えられる可能性を述べ立てて意見を交わしていたが、その間にも雨足は強まっていた。翼の下に入っていても風に煽られた大粒の雨が降りかかってくる。原因追求はとりあえず場を移してからということになり、他のF-15が薄暗い荒天の下で整備作業を受けている中で、不具合を起こした機体は牽引車に繋がれて慎重に格納庫へと引かれていった。
水溜まりのできはじめた駐機場を、俺とパールは飛行隊舎へと足早に向かった。パールはその間も無言のままだった。
数歩先を行く飛行班長の背中を見ながら考える――この後の講評ではどう言われるだろうか。もちろん反省点は多々あるが、やれるだけの事はやった。後はもう、『人事を尽くして天命を待つ』のみ、だ。
蛍光灯が点る明るいオペレーションルームに戻る。エマー機の無事着陸を受け、部屋の中はいつもと変わらない落ち着きを取り戻していた。
飛行管理カウンターの中では、モッちゃんがホワイトボードに走り書きされた緊急事態推移状況を記録用紙に書き写していた。その横で、荒城2曹が整備小隊からかかってきた電話に対応している。別の電話口では隊長が7空団の司令部とやり取りしていた。
カウンター奥に掲げられているスケジュールボードを見ると、2ndの表示の横に<STBY>と大きく書かれたマグネットシートが貼られていた。脚不具合の事象発生を受けてフライトは一時スタンバイとなったようだ。事によると、全国の部隊にあるF-15はしばらくの間飛行停止ということになるかもしれない。
装具を置いて救命装備班から出たところで、安全幹部のポーチに呼び止められた。書類を挟んだバインダーを手にした先輩は、先に装具を脱ぎ終えて身軽になっていたパールからエマーの時の状況を詳しく聞き取りしている。
俺も二、三の質問を受けて答え、ポーチも必要な情報が取れたところで、パールが俺に顎をしゃくった。
「イナゾー、講評やるから準備しとけ」
「はい」
俺はファイルと筆記用具を取りに自分のデスクに戻った。次のフライトがスタンバイになっているので、机に向かって書類を広げ付加業務の処理に取り掛かっている者もいれば、第1回目で行ったフライトの機動解析をするためにVTRルームに向かう者など、皆それぞれに時間を使っていた。
俺がごそごそと机の上の荷物を探っていると、向かいのデスクで古い文書の整理をしていたアディーが顔を上げた。
「お疲れ。大変な検定だったな」
労いの笑みを浮かべた同期を見て、俺も思わず苦笑する。VTRを手にちょうど通りかかったフックがマスクの跡の残る頬を上げて快活な笑顔を見せた。
「あんなに緊迫感のある検定に付き合ったのは初めてだったよ。あの状況で班長が検定を続けるとは思わなかった。無事に終わって良かったな」
壁際のパソコンに向かっていたジッパーがちらりとこちらに視線を寄越したが、取り立てて何の言葉もなかった。その態度から検定の出来を窺うことはできなかった。
他の編隊のメンバーがオペレーションルームでディブリーフィングを開始する中、俺は一角の席について班長を待っていた。
手元に置いた厚いファイルに目を落とす。305に配属されてから約3年半、これまで積み重ねてきた勉強がここに綴じられている。中の用紙は繰り返し捲られてきたせいで端が折れたり波打ったりしている。
「待たせたな。始めるぞ」
人の気配と同時に頭上から濁声が降ってきて、俺は反射的に立ち上がった。前に立ったパールと開始の挨拶を交わして再び着席する。
「これから、2機編隊長錬成訓練の最終検定、この講評を実施する」
重々しくそう言った班長は節の太い手で無造作にノートを開き、書きつけてあるメモに一瞥をくれると目を上げた。
「全体を通して天候の変化に応じた対処、それから対領侵と要撃訓練、これらは共に概ね良好。近接格闘戦に関しては、今さら細かく指摘するつもりはない。どこに問題があったのか、どういう点が甘すぎたのか、自分自身でよく分かっているはずだ」
「はい」
「で、エマー対処に関して」
俺は改めて背筋を伸ばし、班長の次の言葉を待った。
「ギアランプが点かないまま着陸させるという判断に自信はあったんか。擱座する可能性は考えなかったんか」
飛行班長の射るような眼光がひたと向けられる。
『緊急脱出せず、着陸?』――上空でパールが俺の決心を問い返してきたことを思い出す。結果はセーフティー・ランディングだったとは言え、やはりあの判断は間違っていたのだろうか。ベイルアウトの方が妥当だったのだろうか……。
この場で改めて質されることに胃の底から重苦しさが滲んでくるような心持ちになったが、俺は班長から目を逸らさずに口を開いた。
「擱座の可能性は当然考えました。でも、目視で確認した際に脚部のマークが適正に見えていたので、着陸は可能と判断しました」
「自分の判断に間違いはないと、最初から最後まで疑いもなく確信していたんか」
その問いに一瞬怯む。たとえハッタリでも、「確信していた」と断言すべきか。だが……。
すぐに思い直し、ありのままを答えた。
「……絶対にこれが正しいという確信はしていませんでした。もしかしたら別の選択肢の方がより適切ではないかと考える部分もありました。でも、それぞれの選択肢の想定されうる損害の程度を推し量り、あの状況であれば着陸という選択が人的にも物的にも損害を最も軽微に抑えられると思い、最終的に判断をしました」
あの時、最後まで迷った。迷いながら最善と信じる方法を選んだ。そして一度決めたからには揺らぐことなく決然として実行に移す――指揮官の態度は、部下の士気にかかわる重要なことだからだ。
いつもと同様の厳めしい表情で聴いているパールに対し、着陸の決心は自分がどう考えてのことだったかを簡潔に述べた。
俺の返答をどう捉えたのか、班長は厚い唇を引き結んで顎に皺を作ったまま黙っていたが、またノートのメモに目をやると別の質問を向けてきた。
「着陸の際に、エマー機を先に下ろしてお前は後から下りたな? あれはどういう意図だ」
「代替飛行場の天候に問題がなく、万が一の時に別基地に向かうことのできる燃料の余裕があったので、自分が先に下りずに最後まで責任を持って上からサポートしようと考えました」
そう答えると、間を置かずに指摘が入った。
「あの状況でお前が上を飛んでいたところで何にもならん。単座機に乗るからには、ベテランだろうが若手だろうが最後の最後は自分でどうにかするしかない。いくら編隊長だからと言っても、手を差し伸べて操縦を代わってやる訳にはいかんのだからな。それはどんなに未熟なウイングマンでも分かっていることだ。その前提がある以上、部隊として作戦可能状態の航空機や人員を可能な限り多く保持しておくべきことを考えると、リーダーは先に下りるべきだった」
俺は顔をしかめて班長の言葉に頷いた。
もっともな事だった。ああいった状況でウイングマンが少しでも心強いようにと思って後から下りる決心をしたが、あくまでそれは個人の情の問題でしかない。もっと広い視野で考えなければならないことがある。
緊急事態の僚機を上空に残して自分が先に下りるという選択は冷酷なようだが、エマー機が急を要する状況になく先に問題のない機が下りることが可能であるのなら、それが最善で最も適切な行動ではあるのだ。
パールは俺を見据えたまま、淡々と言葉を継いだ。
「自分自身で今回のフライトの出来はどう思う? エマー対処はどうだった。検定、合格だと思うか。自分はウイングマンの命を預かるリーダーとして相応しいと思うか」
畳みかけるようにそう訊ねるパールをじっと見つめ返し、俺は胸の中で自問した。
緊急事態を受けて、自分はあの時でき得る限りのことを行ったつもりだ。果たして検定全体として合格ラインに到達することができたのだろうか……自分はこの305飛行隊で編隊長と名乗れるだけの域に達しているのだろうか……。
考えても分からなかった。だから俺は自分の思うところをそのまま言おうと口を開いた。
「――検定に合格できたかどうかは分かりません。自分がリーダーとして相応しいのかどうかも分かりません。でも、自分はウイングマンが絶対の信頼で命を預けたいと思うようなリーダーになろうと――フライトに関してだけでなく、人間性の面でもウイングマンの手本となるようなリーダーになろうと、常に思っています」
ひと言ひと言、噛みしめるようにそう答えた――そう。俺は、技量だけでなく人としても部下からの信頼を受けられる編隊長になりたい。ただの勢いだけでなく、自信と責任と覚悟を持って『俺についてこい』と言える編隊長になりたい。そのひと言だけで部下を引っ張っていける編隊長になりたい。その理想に少しでも近づくために、これまで頑張ってきた。そしてこれからも、どんな努力だって惜しむことはない……!
滾るような思いに膝の上で両の拳を固く握りしめた時、班長の低い声が耳に届いた。
「――基準に達していなければ、そもそも検定は受けさせない」
俺ははっとして飛行班長を見つめた。
パールは強い眼差しのまま俺の視線を受け止めている。
「いいか、イナゾー。これからお前が連れて飛ぶのは本当のウイングマンだからな。教官をやるようなベテランが乗ってる訳じゃない。部下の命は他の誰でもなくお前が預かることになる。そのことをよく肝に銘じて今後も精進するように」
教示の言葉の一言一句を、俺は息を詰めて聴いていた。部下を連れて飛ぶという責任の重さを改めて胸に刻みつける。
班長はより一層の厳格さを持って、最後にひと言、はっきりと言った。
「最終検定は合格とする」
合格――とうとう編隊長に……!
俺は思わず息を大きく吸い込み――そしてぐっと腹に力を込めた。
今からはもう、正真正銘の編隊長だ。この305で、一人前の戦闘機乗りと認められた。これからは、部隊を背負い、後輩たちを引っ張り育てていく立場となった。リーダーとして自分自身が試される本番は……これからだ!
講評を締めくくり立ち上がった班長に続き、俺も弾かれるように席を立つ。こみ上げてくる感情を堪え、姿勢を正して勢いよく一礼した。
「ありがとうございました!!」