最終検定(4)
片方の脚を不完全に下げたままのウイングマンを連れて、百里上空から最短距離で鹿島灘沖へと向かう。
眼下を密になった雲の帯が流れてゆく。その隙間から、陸地ではなく鉛色の海面が覗き始めた。強風に煽られて波頭が白く散っている。
進入管制に位置を確認し、海岸線から数マイル過ぎたあたりで雲の下に抜けた。さすがに空域まで戻る燃料の余裕はない。
周囲の洋上を広く見渡して船舶の姿がないかどうかを確認する。特に今のように作動部にトラブルが出ている場合、不具合箇所が不時落下しないとも限らない。その場合の被害を極力最小限に止めるよう配慮する必要があった。
遠くに大型タンカーが航行しているのが霞んで見えたが、その他に小型の漁船などは見当たらなかった。
俺は念のためパールに燃料計の値を再度確認した。脚を出すだけでも空気抵抗が増え、燃料の消費量がかなり違ってくる。
残燃料に問題がないことを把握して、これから行う対処方法についての指示を出した。
「旋回してGをかけてみろ。遠心力で脚をロックさせる」
『了解、旋回を開始する』
パールは俺から距離を取って加速すると、一気に翼を深く傾け大きく機首を引いた。同時に、雨に濡れたF-15の広い翼面に白い水煙が湧く。数秒間タイトな旋回を続け、パールは再び水平飛行に戻った。
『依然、ランプは点灯せず』
「今度は逆方向の旋回でもう一度試してみろ」
『了解』
対応策を試す間があるとはいえ、いつまでも悠長なことはしていられない。
風向きと強さを考え併せ、脚を下ろしたまま帰投するのに必要な燃料の量を見積もる。自機には、万が一パールが着陸の際に擱座し滑走路閉鎖となった場合に代替飛行場に向かう分の燃料も残しておかなければならない。
それらを考慮して、いつ最終判断をするか――燃料を極力減らして着陸を決行するか、それとも緊急脱出するのか――。
リバーのことが頭を過ぎる。ベイルアウトし、その際に受けた怪我の後遺症で飛行機を下りざるを得なくなったリバー……。
俺は祈るような気持ちで、左右に切り返して短い旋回を繰り返すパールの機を見つめ続けた。
頼む――頼むからこれで回復してくれ……。
『脚位置指示ランプの状況は変わらず』
いったん旋回機動を中断したパールからの報告が入る。
俺はマスクの下で小さく呻くと、状況を見るためにもう一度ウイングマン機の腹の下に自機を滑り込ませた。ヘルメットのバイザーを上げ、雨を弾くキャノピーを透かして左の脚部を注意深く見極める。
旋回前と違い、脚は真っ直ぐに伸びているように見えた。さらに、接合部が適正な位置で嚙み合っていることを示すマークを確かめる。目視で判断する限り、これも今は一致して直線になっている――ただ、ダウンロックを知らせるランプだけが点いていない。
単にインジケーターランプの球切れか……だが、脚下げの際に左主脚には明らかに不具合が出ていた。やはり脚の昇降機能に何らかのトラブルが発生していると考えた方が間違いないだろう……着陸か、ベイルアウトか……。
逡巡してもう一度脚部を仰ぎ見る――伸展している主脚の角度は左右で変わりがない。マークは整合している。この状態であれば、擱座する可能性は高くはないはずだ――。
俺は心を決めた。
「15から16へ。目視では左主脚は通常どおりに下りている。これから帰投し着陸を試みる」
そう言い切ると、間髪を容れずにパールが応答した。
『ベイルアウトせず、着陸?』
念押しするように疑義を挟む。
もしや班長はベイルアウトが妥当だと考えているのか?――一瞬決心が揺らぎかけたが、すぐに気持ちを持ち直した。
もしこの緊急事態の当事者が経験の少ない本当のウイングマンであったら、疑いよりもむしろ不安の方が遥かに大きいだろう。本当にこのまま下りて大丈夫なのかどうか、心配で仕方がないはずだ。そんな時に編隊長が心許なさの覗く態度を見せたとしたら、ウイングマンは一層心細くなることは想像に難くない。
俺は自分が今把握しているすべての事実を冷静に素早く反芻し、考慮から外れている事象がないか、決心に間違いがないかをもう一度確かめた。
そして今度こそ決断する――自分が持ち合わせている知識とこれまでの経験、そして現状から、「着陸」という判断は妥当なはずだ。
ウイングマンの横近くに機を寄せると、こちらを窺っているパールを見て伝えた。
「ギアは伸びてマークも正常に確認できる。着陸はできるはずだ。万が一の場合の責任は、編隊長として自分が引き受ける」
横に並んだパールは俺にひたと目を当てている。濃いスモークのかかったバイザー越しにもその視線の強さが伝わってくる。
一時の間を置いて、ひと言、低い濁声が届いた。
『――了解』
その言葉に、俺は改めて腹を据えた。もう迷ってはいられない。
「これより帰投する。ついてこい」
そう告げると、機首を西へと振り向けた。飛行指揮所にも意図を伝え、再び基地を目指す。脚を出したままの僚機が無理なく追随できる速度を維持しながら雲上をまっすぐに進んでゆく。
何度かウイングマンの燃料をチェックした。滑走路上で擱座した時を考え、燃料はできるだけ少ない方が望ましい。
隊長の声で飛行指揮所からの無線が入った。
『15、こちらオペラ。在空機はすべて下りた。エマー対処の編組は完了している。燃料が少ないなら15から先に着陸するか』
「代替飛行場までの必要量は残っている。小松、松島の気象状況に問題がなければ、自分は16を追随してから着陸する」
『スタンバイ、ウェザーを確認する――』
無線が途切れ、数秒間の間があった。
もしかしたら先に下りるように指示があるかもしれない――ちらりとそう思ったが、隊長は俺の判断を容認した。
『小松、松島ともに現在のところ問題なし。滑走路閉鎖になった場合の受け入れは両基地に調整済みだが、小松は視程が着陸基準値以下になる予報が入っている。万一の時には天候状況のいい松島へ向かえ』
「15、了解」
俺は続けて管制を呼び出した。
「百里管制塔、エンジョイ15。エマー機はストレート・インで下りる」
『エンジョイ15、百里管制塔。ストレート・イン・アプローチ、了解』
地上からの誘導に従って飛行場の北側方向からまっすぐに進入を開始する。
高度を落としながら雲を抜けると、全体的に霞んだ景色の前方にうっすらと基地の姿が現れた。周囲に広がる畑や森林と同じように、雨に濡れて薄暗く見えている。その風景の中で、滑走路から延びる進入灯が道筋を明らかにするように一定間隔で閃いていた。
通常の手順どおり、パールの声が管制塔を呼ぶ。
『百里管制塔、エンジョイ16。着陸許可願う』
『エンジョイ16、着陸を許可する。風は210度より22ノット、最大26ノット』
『16、了解』
応答したパールは機体背部のスピードブレーキを開いて減速を開始した。更にパワーを絞りつつ、滑走路を正面にして徐々に降下してゆく。
俺は高度を保って斜め後ろから追随していた。下方へと離れてゆく僚機にじっと目を凝らし、固唾を飲んでその動きを見守る。
パールは機首を高めに引いた姿勢で制動をかけながらアプローチを続けていた。
滑走路の進入端を越す――左右の主脚が濡れた路面に接地した。飛沫が激しく巻き上がる。
機は水煙を上げて滑走路上を直進していった。不自然にぐらつく様子はない。続いて前脚も接地。
脇で待機している2台の大型消防車の前を通り過ぎたF-15は、やがてゆっくりと速度を落とすとその機首を巡らせて滑走路端から誘導路へと抜けた。
セーフティー・ランディング。
俺は知らず知らずのうちに詰めていた息を大きく吐き出した。
続いて着陸するために翼を傾けて周回経路に入りつつ、雨を受けている飛行場を見渡す。
途中で擱座することもなく駐機場へと戻ったエマー機は、機付整備員たちに迎えられて列線の定位置に収まった。
強い風雨の中、事故になった際の初動対処要員として飛行場勤務隊前に待機していた隊員や車両は、部隊ごとにそれぞれの職場に戻り始めていた。紺色の雨衣を着た隊員たちが列になって歩いてゆく。緊急事態の終結を受けて解散となったようだった。
それらの様子をコクピットから見下ろして深く息をつく――ウイングマンは無事に戻ることができた。自分の判断も間違ってはいなかった……。
この検定フライト、果たしてどういう総合評価を受けるのかは分からない。だがともかく、ウイングマンに何事もなく機体にも損傷が出なかった。大事に至らなかったのが何よりだ。
自分自身も着陸して駐機場に戻り、最後にエンジンを切って初めて、それまでの緊張が完全に解れたのを感じた。
うまくやってのけられたという達成感や充実感は不思議と湧いてこなかった。気分はただ、「心底からほっとした」という、そのひと言に尽きた。