最終検定(3)
空中格闘戦を終え、対抗機であるジッパーとフックの編隊は上空で緩やかに旋回しつつこちらに向かって下りてきていた。
その様子を一度視界に収めてから、自分のウイングマンの動きに目を戻す。パールの機影が雲海の上を覆う薄雲の向こうから徐々に近づいてくる。俺は機をまっすぐに進ませながら、ウイングマンが再び編隊位置につくのを待った。
無念の結果に終わった格闘戦。最終検定の場に及んでなお、悔いの残るフライトをしてしまった自分が腹立たしく、もどかしくて仕方なかった。己の力不足を痛感する。
自身も僚機も共に劣勢という戦況からウイングマンを助けに向かい、更には追手を撃ち落とすことまでできるリーダーであるジッパーとの実力の差を改めてまざまざと見せつけられた気がした。
至らなかった点を思い返しかけ、しかしすぐに敢えて反省を押しとどめる――まだ次の課目が残っている。今は訓練の続行に集中すべき時だ。
時間を追うごとに周囲の靄は濃さを増していったが、幸いにも訓練中止を決心するほどの状況に至ることはなかった。対領空侵犯措置訓練・要撃訓練共に、事前に計画してブリーフィングした内容に従いウイングマンの錬成を主眼として進めていった。
国籍不明機役のジッパーやフックが想定外の動きに出ることもなく、パールが故意に拙いミスをしてこちらを試すようなこともなく、予定していたすべての課目は終了した。
格闘戦以外は概ね無難に訓練の場をコントロールできたように思う。この後着陸まで検定が終わった訳ではないが、後は検定官のパールがどう判断を下すかだ。
まだまだ思いどおりにできないことも多い。しかし今回のフライトに限らず、どんな時にも自分の出来る限りのことはやり、全力を尽くしてきたつもりだ。それで駄目だと言うのなら――。
俺はバイザーの下で顔をしかめ、きつく唇を嚙みしめた。
ウイングマンのパールを伴い、ジッパーの編隊と合流すると、要撃管制官に訓練終了と帰投する旨を伝えた。管制は防空指令所から百里進入管制に移管され、帰投に入るための高度や方位などの許可が出される。
指示に従って洋上に設けられた進入開始ポイントを過ぎ、降下を開始した。徐々に高度を落としながら浅い角度で乱層雲の中へと入る。たちまち視界は白と灰色の世界に変わった。風は依然として強いようだ。前方から濃淡のある霧の塊が途切れることなく現れては、キャノピーの外面を撫でるようにして瞬く間に視野の外へと飛び去ってゆく。
靄に隔てられて見え隠れしている隣のウイングマンに注意を払いつつ、前後にいる他の編隊との間隔や最終進入速度も考え併せ、スロットルを僅かずつ動かして速度を微調整する。
今日のような濃い雲の中を飛ぶ時には特に気を遣う。ウイングマンにとって、一面に白く霞む視界の中でおぼろげに見える程度でしかないリーダー機の翼端のライトを頼りに自機の位置を保って飛ぶのは神経を使うことなのだ。更にそんな状況の最中にリーダーがスピードブレーキを使って急激に減速したり突発的な操作をしたりすると、ウイングマンはリーダー機との適正な隊形を維持できなくなり、空間識失調に陥りやすくなる。
そのため、雲中ではもちろん、それ以外の時であっても、付き従うウイングマンがスムーズな操作ができるような状態を常に維持してやることは重要なことなのだ。
雲を抜ける間に雨粒がキャノピーを弾きはじめた。
どんよりとした暗い色の雲底の下に出ると、雨は一層大粒になり更に勢いを増した。既に沿岸部は過ぎ越して陸地上空を進んでいたが、厚い雨雲の下に広がる景色は薄暗く沈んでいる。
雨で煙って遠目が利かなかったが、飛行場があるはずの場所からは白と緑の光が一定の間隔で閃いていた。飛行場灯台の灯りだ。管制官からは、現在は視程が落ちて目視のみで飛ぶことのできる制限値を下回っている旨の通報が入っていた。
管制の誘導を受けながら更に高度を下げ、進入を続けながらウイングマンに脚下げを指示した。同時に昇降レバーを操作する。格納パネルが開き、昇降装置が作動する振動が足元から伝わってくる。
3か所の脚それぞれが下りたことを示す緑のランプが点灯していることを確実にチェックした――その時だった。
『オペラ、こちら16』
パールが飛行指揮所を呼び出すのがヘルメット内のスピーカーから聞こえてきた。
『左のギアランプが点灯せず。レフトギア・アンセーフ――アクチュアル』
最後に付け加えられたひと言を聞いた瞬間、僅かにどきりとした。検定のための状況付与ではない、実際の事案だ――左主脚に不具合発生。
飛行指揮所と短いやり取りを交わし、パールがエマージェンシーを宣言する。
事態を受けて検定中断を告げられるかと予期した俺の耳に、不機嫌そうな濁声が届いた。
『どうするんか、リーダー。ウイングマンがエマーだぞ。若い奴ならパニック寸前だぞ』
緊急事態の当事者でありながら、パールの声は訓練の時とまったく変わることなく平静そのものだった。あくまで検定を続けるつもりだ。
キャノピーに打ちつける雨粒が作る横流れの筋の隙間から、並走しているパールの姿が見えた。こちらに顔を向けている。黒いバイザーを下ろしていても、俺のことをじっと注視しているのが分かった。
基本的に単座機乗りならどんな事態にも自分ひとりで対処するものだ――だが、その前提があったとしても、それは僚機の安全に気を配りフォローすることを妨げるものではない。
引き続き編隊長としての行動を求めるパールの言葉に、俺は一瞬で頭を切り替えた。
管制官にいったん進入降下をキャンセルする旨を伝え、現在の高度を維持する許可を得る。
「そのまま直進しろ。下から目視確認する」
パールにそう告げ、ウイングマン機の斜め下に移動してその腹を見上げた。しっかりと伸展している右の主脚に対し、左主脚は格納扉が不完全に開き、そこから車輪が覗いているような状態だ。
飛行指揮所に不具合箇所の現況を伝えてから、パールに指示する。
「エマーギアハンドルを引け」
『ハンドル操作、実施』
緊急用のハンドルを引くと、通常時に脚を作動させている油圧系統が遮断され、脚自体の自重と風圧で下りるようになっている。しかし――。
『――ランプは依然点灯せず』
パールの報告に、俺は更にぎりぎりまで機体を近づけて目を凝らした。ハンドル操作前とは違って、確かに脚は下りている。だが脚部にマーキングされた、確実にロックされていることを示すラインが完全に真っ直ぐになっていない。
これでも駄目ならどうすれば……。
緊急時の様々な手順マニュアルが頭の中を目まぐるしく駆け回る――エマーギアハンドルを引いて脚は下りた。しかしロックされていない。このまま着陸を決行すれば接地すると同時にバランスを崩して擱座し、下手をすれば損傷した燃料タンクに火花が引火する可能性もありうる。かと言ってこの状態のままでは……。
技術指令書に記載された最終手段は緊急脱出だ。だがその前にまだできることは……。
俺ははっとして計器パネルに視線を走らせた。燃料計の数値を確認する。パールにも残っている燃料の量を報告させた。
この後の行動を決心することで想定される事態すべてに対して素早く考えを巡らせる――よし、こちらもウイングマンもまだ少し燃料に余裕はある。どうにか対処できるはずだ!
「オペラ、こちら15。16と共にいったん洋上に抜け、対処にあたる」
『オペラ了解。他の編隊は現在帰投中。先に着陸させる』
「了解」
俺は続けて進入管制に針路変更する許可を求め、パールを伴って再び上昇し雲の上に出ると、もう一度沿岸部を目指した。