最終検定(1)
5時半にセットしたアラームが鳴るより先に、窓ガラスが風に煽られて軋む音で目が覚めた。日の出にはまだ早く、カーテンが引かれた部屋の中は暗い。
もうだいぶ風が出てきているな――寝ぼけた頭でそう思いながら枕元に置いてある時計を確認しようとして、ベッドの隅の携帯電話が目に入った。
そうだ――寝る前のことを思い出し、一瞬で眠気が吹き飛んだ。少しの間息を詰めてじっと見つめてみる。だが相変わらず着信ランプが光ることはなかった。
俺はもぞもぞとベッドから這い出すと、まだ向こうで寝ているアディーを起こさないよう自分の勉強机のデスクライトだけを灯し、身支度に取り掛かった。程なくしてアディーの目覚ましが電子音を響かせ始めたが、すぐにその音は止められた。起きてきたアディーは俺がもうフライトスーツを着込んでいるのを見て言った。
「おはよう。早いな」
「風の音がうるさくて起きた」
「確かに――ああ、もうずいぶん雲も入り込んできてる感じだ」
カーテンを開き、うっすらと明るんできた夜明け前の空を窓越しに見上げ、アディーがそう呟く。俺もつられて目を向けると、藍色味を帯びた空を背景に雲の塊が幾つも流れてゆく様が見て取れた。
やがて、軽快なメロディーのラッパが長々と響き始め、起床時刻の6時を基地内に知らせていた。俺はヘルメットバッグに荷物をまとめ、携帯電話もとりあえず入れると、まだ準備をしているアディーに断って先に部屋を出た。
独身幹部宿舎の玄関ドアを出た途端、横風に体を弄られる。湿気をはらんだ生暖かい風だ。識別帽を深く被りなおし、横の駐輪場に止めてある自転車を出しながら、改めて空を仰いでみる。
灰色がかった綿のような大きな積雲が速いスピードで次々に北東方向へ流されていた。雲は白み始めた空全体を次第に覆い隠しつつあるようだった。
南西からのきつい向かい風に苦労しながら幹部食堂まで自転車を走らせて朝食を掻き込み、飛行隊に向かう。途中の建物の上に取り付けられた避雷針やアンテナが風を切ってびゅうびゅうと唸りをあげている。
飛行隊横の梅の木の枝は膨らみかけた白い蕾をつけてまっすぐに上へと伸びていたが、その堅い枝先も風に煽られて細かく震えていた。
飛行隊舎の中では、ライズやデコ、ボコなどの若手が掃除やコーヒーの準備といった朝の仕事に取り掛かり始めたところだった。モッちゃんももういつもの定位置についてパソコンを立ち上げたりカウンター周りを整頓したりしながら、出勤してきた荒城2曹にスケジュール表を差し出している。
「すげえ風だな」
「春一番、確かとっくに来てたよなぁ?」
外から入ってくるなり口々に同じような感想を言って、先輩たちもオペレーションルームに姿を見せ始めた。
皆が出揃ったのを見計らって朝礼も兼ねた全体ブリーフィングが開始される。航空機の整備・稼働現況、今日の訓練の全体的な流れと安全面での諸注意、緊急時における対処手順の確認、そして気象ブリーフィングと続く。
「――日本海上にある低気圧が今後更に発達しながら日本列島を通過するのに伴って、強い南寄りの風と共に湿った空気が流れ込むため、この後0930頃からはまとまった雨も予想されており――」
手にした指示棒で天気図上のポイントを示しながら、中堅の予報官がスクリーンの脇でプロジェクターの光を半身に受けつつ解説する。
俺は腕組みしたまま、正面のスクリーンに順次映し出される衛星画像や予想天気図を注意深く追った。
自分の最終検定が組まれているのはこの後すぐからの第1回目だ。鹿島灘沖の訓練空域にも既にだいぶ雲がかかってきているようだ。訓練中に短時間で気象状況が変わる可能性が大きい。使用できる高度にも制限が出てくるだろう。状況に応じて訓練課目を柔軟に組み直す必要性が出てきそうだ……。
モーニングレポートが済むと、俺は入間防空指令所との直通ラインを繋ぎ、担当要撃管制官と――今回は谷屋1尉ではなかった――訓練の流れについて相互で摺り合わせを行った。それを終えるとすぐさま編隊のメンバーに集合をかけ、プリブリーフィングに入った。
今回、2機編隊長錬成訓練の最終検定を兼ねるこのフライトでは、訓練を主導する編隊長が俺、僚機には検定官となる飛行班長のパール、そして対抗機役のリーダーにはジッパー、そのウイングマンにフックという編組になっていた。
風貌も態度も不敵な野武士のようなパールと、眼光鋭くストイックで絶対に妥協を許さないジッパー。隊内一、二の威圧感を醸す2人が揃う場で、俺は口を開いた。
「今からプリブリーフィングを実施する。コールサイン、リーダーが15、ウイングマンのパールが16、対抗機リーダーのジッパーが17、対抗機ウイングマンのフックが18。移動開始時刻0835。訓練課目は対領空侵犯措置、要撃、空中格闘戦をそれぞれ1セットずつ行う。訓練空域の天候状況によっては課目を変更する可能性もありうる。次に各課目の細部について説明する。まず対領空侵犯措置における彼我不明機の諸元設定――」
無言でメモを取りながら耳を傾ける3人を前にして一通り説明を終えた俺は、質問の有無を確認した。パールから内容について特に指摘が入ることはなかった。検定にあたって、俺から受けた説明をウイングマンとして解釈したとおりに上空で動くつもりなのだ。
ジッパーやフックからの質問も特になく、俺は話を切り上げた。
「以上、ブリーフィングを終わる」
「よろしくお願いします!」と互いに一礼し、その場で解散する。
救命装備班に向かう前に自分のデスクに寄り、フライトで使うヘルメットバッグの中身を空けようと私物を取り出していた時だった。
中を見てふと目を瞠った。一瞬何かが光ったような……。
はっとして手を突っ込み、携帯電話をつかみ出す。シルバー色の本体の背で、着信ランプが青く点滅していた。
急く勢いで携帯を開けてみる。画面には受信メール1件の通知。逸る気持ちを抑えて受信ボックスを開く。未開封メールには「谷屋みずき」の名前が表示されていた。
文面には、シフトに入っていてしばらくメールに気づかず返信が遅れてしまったという旨の詫びの言葉と、それに続いて最終検定のことが書かれていた。
『これまで私は地上から訓練や任務を共にしてきましたが、イナゾーさんならきっと大丈夫だと信じています。自信を持って、いつもどおりに。入間から応援しています。良い結果となりますように!』
文末には四つ葉のクローバーの絵文字が添えてあった。そしてその下にひと言、『ツーリング、楽しみにしていますね』と記されていた。
最後まで目を通して、俺は無意識に詰めていた息を大きく吐き出した。
文面の向こうに彼女の聡明そうな笑顔が見えた気がした。昨日からずっと心の片隅で期待していた返信を受け取った今、いつもの自分なら飛び上がって喜ぶはずなのに、逆に気持ちは不思議と落ち着き、頭の中がすっきりと冴えてきたようにさえ感じた――おぼろに目の前にかかっていた靄がきれいに晴れ、視界がクリアになった時のように。
『自信を持って、いつもどおりに』
改めてその文字を目でなぞり、胸の中で繰り返した。そして、静かに気合を入れ直す。
よし。
手の内で携帯を閉じ、顔を上げた。
同じくファーストで飛ぶ同僚たちに混じって救装で装具を身に着け、目深に被った識別帽の顎紐をしっかりと掛ける。
強風に吹きつけられて重くなったドアを押し開け、俺は駐機場へと踏み出した。