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検定前夜

 明日行われる検定のための準備――と言っても、日々のフライトの準備と変わるものではないのだが――その作業にきりをつけて独身幹部宿舎(BOQ)に戻ってくると、時刻は既に21時を回っていた。

 アディーはもう飛行隊に姿がなかったので俺より先に帰ってきているはずだったが、部屋には見当たらなかった。シャワーでも浴びに行っているのかもしれない。


 ビニール袋に入れた汚れ物をヘルメットバッグから取り出す。今着ているフライトスーツも洗濯に出すために腕や胸につけたワッペンを剝がしていったが、そうしながらも考えは既に明日の検定のことに向いていた。

 いつもなら一日の仕事を終えてほっと一息つきながら、頭の中でその日に行ったフライトの出来や反省点を反芻するのだが、今日に限っては翌日のことばかり気にかかる。


 気象情報端末(ウェコム)で予報をチェックした際には、快晴だった今日の天候から一転、この後夜半から明日にかけて天気が大きく崩れる見込みとなっていた。帰りがけに気象隊に寄って予報官から詳しい説明を受けたが、どうやら風も強くなるらしい。確かに、BOQに戻る途中で見上げた夜の空には薄い雲がかかり始めており、南から吹き込んでくる湿った風が正門通りの木々の枝を揺らしていた。


 条件が悪い中での検定になるだろうな――そう考えて、しかしすぐに思い返す――毎回必ずいい条件で飛べるとは限らない。実際のところ、こちらがどんな天候状況であろうとお構いなしに国籍不明機はやってくるし、そうなれば離陸のための最低気象条件を切らない限りは荒れた天気の下でもスクランブルで上がることが求められる。

 「やれ」と言われたらやる。できないという言葉はありえない。いかなる場合でも対処可能な状態を維持するために、俺たちは日々の訓練を行っているのだ。


 首から下げていた認識票を外してワッペンと一緒に机の上に置き、左腕のポケットのファスナーを開いた。中に入れて常に携行している計器飛行証明書や事業用操縦士免許などと一緒に、幾つかのお守りをまとめて入れてあるビニールの小袋も取り出す。


 俺はふと、手の中の袋に目を落とした。航学の卒業時に区隊長からもらった飛行神社のお守りや、母親から渡された実家近くの天神様のお守りに重ねて、二つ折りにしたメモ用紙が入れてある。部隊研修で百里を訪れた谷屋1尉から渡されたものだ。


 その紙を袋からそっと引き出して開いてみた。整った丁寧な文字で、名前とメールアドレスが書かれている。


 連絡先を教えてもらってから、まだ一度も連絡したことはなかった。アドレスを貰ってすぐに嬉々としてメールを送るのも下心丸出しのようで気が引けたし、そもそも大した内容もない軽いノリの文面を送りつけるのもどうかと思い、「とにかく2機編隊長になってから! ツーリングに誘えるようになったら連絡する!」と心に決めて仕舞っておいたのだった。


 でも……明日、検定を受けることになったと、ひと言だけでも伝えておこうか……。


 しばらく迷ってからヘルメットバッグの中を探って携帯電話を取り出した。メモ用紙に綴られたアドレスのローマ字を一字一字確認しながら打ち込む。


 俺のアドレスを彼女は知らないはずなので、タイトルには『305飛行隊の稲津です』と入れた。

 本文の出だしには、『お久しぶりです。お元気ですか』と書いたがすぐに消した。お久しぶりでも何でもない、一昨日も無線で言葉を交わしていたのだった。私的なやり取りは部隊研修の時以来になるが、直通ラインや無線交信で仕事上のやり取りはちょくちょくしている。


 どう書き出したものか。とりあえずは当たり障りなく……とにかく文を作ってみた。


『こんばんは』

『いよいよ明日、2機編隊長資格の検定試験に臨みます』

『精一杯頑張ろうと思います』


 その続きに『一緒にツーリングに行けるのを楽しみにしています』と付け加えようかとも思ったが、ここでも迷った末にやめておいた。ツーリングの約束のことを念押しするように改めて書くのもしつこくて鬱陶しいと思われそうで気が進まない――とは言え、もちろんその約束の存在は俺の中でひとつの大きな励みになっていることは間違いないのだが。


 下半分の空白が目立つ画面に表示された3つの文を何度も読み返してみたが、どうも事務連絡のような素っ気ない文面だ。しばらく頭を絞って考え込む――が、他に気の利いたことを書ける訳でもなく、これ以上どうにもならない。


 アディーならこんな時も大して悩まず、うまいセリフをさらっと書けるんだろうな……いい文章のアイデアを出してもらって……と他力本願な考えがちらりと頭を(よぎ)ったが、すぐに却下した。まさかあいつに添削してもらってから送信するなんて、小学校の作文授業じゃあるまいし、何より()()ずかしい。後々ずっとからかいの種にされるに決まってる――。


 ええい、ままよ! ぐだぐだ考えていたって仕方ない!


 俺は固く目を(つむ)ると、携帯を持った手の親指を力いっぱい送信ボタンに押しつけた。


 小さな画面に<Eメール送信中>の文字とともに封筒のイラストがぴょこぴょこと踊り、すぐに<送信完了しました>の表示に切り替わった。あの素っ気ない3行メールは今ごろ谷屋1尉の携帯の着信音を鳴らしているに違いない。


 送信したとたん、あんな文面のメールを送り付けてしまった自分の暴挙がとてつもなく恥ずかしく思えていたたまれなくなってきた。

 俺は勢いよく携帯を二つ折りに閉じてベッドの上に放り投げると、そそくさとジャージに着替え、風呂桶に入れた入浴セットと洗濯物を抱えて浴場に急いだ。メールのことは極力考えないようにして風呂を済ませ、自室に戻る途中で洗面所に並んでいる洗濯機に汚れ物を放り込む。

 基地内には悠々としたメロディーのラッパが鳴り響き、22時の消灯時刻を告げていた。


 常夜灯に切り替えられた廊下を戻り部屋のドアを開けると、俺と入れ違いで先に入浴を終えたアディーが戻っていた。勉強机に置かれたデスクライトの元でF-15の技術指令書を()っていたが、俺が入っていくと目を上げた。


「お疲れ。おかえり」

「ん、ただいま」


 応えながら、つい壁際のベッドに視線をやってしまう。シーツの上にぽつんと乗っている携帯は、受信を知らせるライトを点滅させるでもなく、放り出された時のまま素知(そし)らぬ様子でそこにいた。


「どうかした?」

「いや、別に……」


 とっさにそう返したが、アディーは俺の視線をたどるとベッドの上に置かれた携帯電話に目を留めた。そして俺の態度をどう受け止めたのか、好奇心の覗く含み笑いをその口元に浮かべたが、結局何も言わずにそのまま自習に戻った。


 勤務中でメールにまだ気がついていないだけなのか……それともやっぱりあの一方的な文面では谷屋1尉に引かれたかもなぁ――情けない思いで頭を掻きながら、俺も勉強机に向かう。


 だが今更思い悩んでも仕方がない。

 自分にそう言い聞かせて明日のフライトのイメージトレーニングに取り掛かった。一度フライトのことに没頭してしまえば、返信がないことはとりあえず意識の外に置くことができる。


 しばらくフライトの予習に集中していたが、洗い終わった洗濯物を乾燥室に干しに行って戻って来ても、携帯はだんまりを決め込んだままだった。


 ――もう今夜はとにかく頭を切り替えて、ぐっすり寝ることにしよう。思考力を十分に働かせるために、睡眠は何より大事だ。


 俺は回転椅子を回し、背後で勉強を続けているアディーに声をかけた。


「俺、先に寝るから」

「ああ」


 短く返事をした同期に向かって、俺は自分自身に対しても言い含めるつもりで改まって告げた。


「リーダー合格、おめでとう。俺も明日、頑張るわ」


 アディーはノートに書き込む手を止めて顔を上げると、嫌味のない笑みを俺に向けた。


「平常心、忘れるなよ」

「おう」

「電気、消していいから」

「うん」


 俺は机の上に広げていたファイルやノートを片づけると、まだ机に向かって書きものをしているアディーにおやすみを言って天井の明かりを消し、毛布の下に潜った。

 うんともすんとも言わない携帯電話は、ベッドの隅に押しやっておいた。




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