教官会議
国旗降下と課業終了を知らせるラッパが鳴り、終礼も終わったばかりの飛行班は金曜の夕方を迎えてすっかり緩んだ空気になっていた。17時に課業が終わるとはいえ、だからと言ってそのまますぐに帰宅できるわけではないのだが、やはり週末を迎えると解放的な気分になるものだ。
3回目で飛んだどの編隊も今はもうディブリーフィングを終え、班員たちはそれぞれに自分に割り当てられた業務やフライトの復習に取り掛かっていた。
俺は自分の机の上に置きっぱなしにしてすっかり冷ましてしまったコーヒーを飲み干すと、カップを持ってラウンジに向かった。この後、まだいくつか残っている雑務を片づけるために、甘いコーヒー牛乳を飲んでエネルギー補給だ。
ラウンジの奥では、デコが先輩たちのカップを洗っているところだった。
ライズがコーヒーメーカーの保温プレートの上で煮詰まったコーヒーをシンクに捨てようとしていたので、俺は慌ててカップを出して残りを注いでもらった。この、ちょっと焦げ臭くなったコーヒーに牛乳と砂糖をたっぷり入れたものが俺は結構好きなのだ。
傍らでは、ポーチがへたりかけたソファーにふんぞり返ってスポーツ紙を読みふけっていた。1730から教官資格を持つ編隊長たちの会議があるので、それまでの暇つぶしだろう。
俺が自分用にいつもストックしている牛乳を冷蔵庫から取り出そうとした時、座っていたポーチが立て続けに派手なくしゃみをした。そして広げたままの新聞を手荒くローテーブルの上に置くや、ソファーから腰を浮かせた。
「ティッシュ、ティッシュ!……俺のティッシュの箱、知らねえか!?」
手で鼻を押さえながら、赤く充血した目で切羽詰まったように辺りを見回す。
毎年、春先になるとポーチは気の毒なほど目と鼻が悲惨な状態になる。かなり酷い花粉症らしい。だからいつもこの季節には<PCH>と自分のタックネームを書き殴ったマイ・ティッシュを持ち歩いているのだが、どこかに置き忘れて大騒ぎすることもままあった。
先輩の必死な様子に、デコもライズも片づけの手を止めてキョロキョロとティッシュケースを探す。俺も牛乳パックを持ったまま部屋の中を見渡してみたが、ポーチ専用のティッシュ箱の姿は見当たらなかった。
そんなところへモッちゃんが現れた。
ほとんど反射的に、ライズが広げられたままのスポーツ紙に視線を走らせた。そしてたちまち気まずそうに顔を赤くする。つられて俺も新聞を見やり、思わず瞬きしてしまった。
見開きの紙面には下着一枚つけていない女たちの堂々たるお色気写真が載っている。目のやり場に困る紙面をモッちゃんの前で大っぴらにしているのはさすがにまずいだろうと焦ったが、先輩が読んでいる最中のものを理由も告げずにひったくっていいものかどうか迷って、俺とライズは二人して目を泳がせた。
「ポーチさん、大事な相棒が置き去りになってましたよ」と言いながら、モッちゃんは手にしていたティッシュケースをポーチに差し出した。
「おっ、すまんすまん、ありがとさん。俺、どこに置いてた?」
「飛行管理員のカウンターの隅っこに。さっき計器飛行証明の有効期限の話をした時に忘れていったんですよ」
さっそくティッシュを引っ張り出して派手に洟をかむポーチの横で、モッちゃんがスポーツ紙に目を落とした。官能的で文字どおり赤裸々な写真にどんな誹りの声が上がるかと、俺とライズで恐々と視線を交わす。
しかし彼女は動じることはなかった。
「ポーチさん、せめてその新聞、もう一枚めくってください」
「おっと危ない、セクハラになるとこだった」
「もうなってます」
呆れ顔で受け流す。さすがモッちゃん、度量が大きい。
「――それにしても、ポーチさんが花粉の騒ぎを始めたっていうことは、ようやく春が来たんですねぇ」
神妙な手つきで新聞を畳みつつ鼻を拭っているポーチを見ながら、モッちゃんはしみじみとした口調でそう言った。ポーチが赤くなった鼻をぐずぐず言わせながらぼやく。
「そんな呑気な話じゃねぇんだよ、モッちゃん。ほんとに辛いんだから」
そしてもう一度洟をかむと続けた。
「うちの嫁なんてさ、自分が花粉症とは無縁だからって、掃除の度に家じゅうの窓を全開にするんだよ。布団や洗濯物も容赦なく外に出すし。仕事が終わって家に帰って、風呂入るだろ? 花粉を落としてようやくさっぱり……って思ったら、バスタオルで顔を拭いた途端に目が痒くなってくしゃみ連発だぜ? 外に干すなってあんだけ言ってんのに」
「まあ、洗濯物を日に当てたい奥さんの気持ちはすごくよく分かりますけど……」
主婦目線の発言をした彼女に、ポーチは大きく両手を振った。
「でも花粉症持ちにしてみたら死活問題なんだって!――そんなもんで、この間また大喧嘩だよ。この辛さが分からないなんて、ほんと信じらんねぇ」
怒った奥さんが今回も実家に帰ってしまったのではないかと俺はちらっと心配になったが、こういった夫婦喧嘩はポーチ家ではスタンダードなはずだったと思い直した。アラート待機や宴会の時などにちょくちょく愚痴を聞かされているが、結局は『喧嘩するほど仲がいい』で丸く収まっているようだ。
憤慨しているポーチの前で、ライズが深く頷いて口を開いた。
「自分も今年から急に症状が出てきた感じで……それまで全然何てことなかったんですけど、なってみないと分からない辛さですよね」
「フライトの時だけが救いだよな。マスクを口にあてて思いっきりスーハースーハーする至福の時間! 花粉に煩わされないってのは最高だよ」
俺はそのセリフの大仰さについ笑ってしまったが、当人は至って真面目だ。
「イナゾー、お前、呑気に笑ってるけど、ほんと切実なんだからな。薬だってわざわざ衛生隊から貰ってこないといけないし」
「いや、きっと本当にそうですよね。フライトがあると市販の薬は飲めないし、衛生隊に行くひと手間が結構面倒だったりしますしね」
辛さは実感できないながらもとりあえず同意して見せた。
そんな俺をポーチは非難がましく見たが、急に思い出したように壁の時計を仰いだ。
「おっと、もう時間だ」
そう言ってソファーから立ち上がると、今度はしっかりとティッシュを抱えて部屋を出ていった。
時刻は5時半少し前になっていた。そろそろ教官会議が始まる時間だった。ラウンジから見える廊下には、ファイルやノートを手にした先輩たちが銘々に会議室に向かう姿が見え始めていた。
4機編隊長以上で教官操縦者の資格を持つパイロットたちが集まり、飛行班員それぞれの訓練進捗状況や技量の練度、達成度などを確認し合い、今後の訓練の方向性を決める場がIP会議だ。
そこでは、各資格の錬成訓練中の者にいつ検定試験を受けさせるかについても話し合われる。特に2機編隊長を目指している者の場合は、その場にいるリーダーのひとりでも慣熟度に疑問を呈すれば検定試験は先送りとなり、状況によっては「編隊長の適性なし」の判断が下されることもある。
戦闘機乗りとして一人前とみなされる2機編隊長の資格を取る際には、この305飛行隊ではとりわけ高いハードルが設定されていた。
ついさっきまでオペレーションルームの方から飛行班員たちの話し声や気配がざわめきのように聞こえていたが、今は会議室に人が捌けたせいで急に静まったようになっていた。残って作業をしているのは若手だけだ。
アディーが会議室の方を気にしつつラウンジに入ってきた。目が合うと、この同期が何を考えているのか大方分かった。
「――そろそろ……だとは思うけど、どうだろうな」
奥の冷蔵庫から無糖の缶コーヒーを取り出したアディーが、改めて俺を見てそう言った。言わずもがな、検定試験の話だ。俺もコーヒー牛乳を啜りながら無言で頷く。タブを起こし、アディーはふと笑顔になった。
「リーダーになったらタックネームをどうするか、もう真面目に考えてるか?」
「うーん……」
俺は宙を睨んで唸った。
実は色々と候補を考えてみたりはしている――例えば、走るのが好きだから<ランナー>とか、座右の銘としていつも心に留めている格言『意志あるところ道はある』の英訳から<ウィル>だとか。
外国の神話に出てくる神様の名前にいいのがないかとあたってみたこともあったのだが……でも、今更そんな高尚な名前になったとしたら、居心地が悪いに決まっている。なにせ今まで庶民的な<イナゾー>だったのだから。
「カッコよくて言いやすくて自分らしいのにしたいけど……改まって考えると、どれもピンとこないんだよな。呼び名が変わるのって、慣れるもんなんかな?」
「まあ、変えた先輩も普通に馴染んでるし、結婚で姓が変わることも考えたら、やっぱり時間が経てばそのうち慣れるんじゃないのかな」
「そうかぁ……まあきっとそうなんだろうなぁ――で、お前はもう決めた?」
「俺もまだ……」と言いかけたアディーは急に言葉を切って振り返った。後ろではモッちゃんがインスタントのコーヒーを入れたカップに電気ポットのお湯を注いでいたが、なぜか口元を緩めている。
アディーは彼女を斜に見ると目をすがめて探るように声をかけた。
「モッちゃん。今、育毛ネタのタックネーム思い浮かべなかった?」
アディーの指摘に、彼女は目尻にはっきりと含み笑いを浮かべたままふるふると首を横に振ってみせる。
「いいえ、全然! そんなことまったく思ってもいませんよ!」
「『いいのを思いついたかも』って顔に書いてある気がするけど」
「いえいえ! アディーさんの見まちがいですって! 育毛<トニック>とか、そんなタックネーム、思い浮かべもしませんでした」
すっとぼけた答えを返すと、モッちゃんはにこやかに会釈してラウンジを出ていった。後ろでデコとライズが笑いをこらえている。言い返す間のなかったアディーは仏頂面で無念そうだ。
思わずニンマリとしてその顔を見やった俺に、アディーがむっつりと呻く。
「何だよ」
「別に」
更に眉をしかめて文句のひとつでも言いたそうな同期に笑顔を向けて、俺もラウンジを後にした――「やっぱりあの二人はくっつくべきだよな」とひとり決めして胸の中で何度も頷きながら。
さてと、カフェインも糖分もしっかりと補給した。IP会議の内容が気にならなくもないが、金曜の夕方、もうひと踏ん張りだ!