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高高度

「訓練終了、各機は集合せよ。外観点検を実施する」


 旅客機が巡航に使う高度帯3万5千フィート前後よりも更に上空、4万フィートを少し超えた辺りで降下を止めて水平飛行に移りながら、俺は無線越しに自分の僚機(ウイングマン)と対抗機役の機に伝えた。


 今回は高高度要撃訓練――通常よりも高いところを高速で進攻してくる敵機を迎撃する訓練――に急遽課目を変更してのフライトだった。

 基地周辺も空一面雲に覆われていたが、洋上の空域に出てみると想像していたよりも雲の層が厚く、その状況が改善されるような兆しも見られなかったので、代替案のひとつとして考えていた高高度域での訓練に速やかに切り替えたのだった。


 基地を離陸して雲を抜けた直後には、陰影のついた濃い積雲が密になって一帯を覆っている様子がすぐ間近に見えたが、対流圏を飛び越し、成層圏に近い圏界面に入るこの高さまで昇ると、眼下に広がる雲海の起伏はもう、水面に立つ細かいさざ波のようでしかない。


 左右に延びる水平線は緩く弧を描き、地球が丸いことを実感させる。雲に覆われたその(きわ)は発光したように白く輝き、接している空を薄水色に霞ませているが、そこから上は深い群青色だ。黒みを帯びた色合いは、その先はもう宇宙なのだとまざまざと感じさせる。

 水平線の上空では太陽が鋭く光を放ち、ごく薄い大気を透かしてギラギラと輝いている。ヘルメットのバイザーを下ろしてはいても、その強烈で圧倒的な光線は刺すように目を射った。


 見下ろした真っ白な雲海を背景にして、ウイングマンの灰色の機体がこちらに向かって上がってくるのが見えた。俺の編隊よりも更に高い位置にいた対抗機も群青色の空間の一点から姿を現し、緩く翼を傾けて大きく回り込みながら近づいてくる。空気がごく薄いこの場所では操縦桿を動かしても機体の反応は鈍く、機敏な動きが難しいのだ。


 3機で互いの機体を目視でチェックした後、ウイングマンには残燃料を報告させてその減り具合を確認した。対抗機に乗る先輩は別個で防空指令所(DC)にコンタクトし、機首を回頭させると一足先に基地を目指して俺の編隊から離れていった。


 俺も続いて入間DC(テイルジャック)を呼び出す。


「テイルジャック、エンジョイ15(ワン・ファイブ)。訓練を終了し帰投する」

『エンジョイ15、高度2万5千まで下降した後、方位260へ』

「2万5千、260、了解」


 応答し、広くはない訓練空域の中で螺旋を描くように旋回しながら高度を落とそうと操縦桿を軽く横に倒した。いくらかのタイムラグがあってようやく機体が反応する。翼が傾き過ぎないよう適度なところで操縦桿をわずかに戻したが、通常であればそこでぴたりと姿勢を決めるF-15はやはりやや遅れて手元の動きに従った。何という事のない機動が覚束(おぼつか)ない。まるで薄い空気の中で弄ばれているような感覚だ。


 スロットルをアイドルまで引き下げてエンジンの出力を搾ると、今度は機首を下げて降下に入った。幾分前のめりになるような姿勢でキャノピーの先に広がる雲海を見下ろしながら、徐々に機体が加速してくるのを体で感じる。高度が下がるにつれて、操縦桿の手ごたえが戻ってくるのがはっきりと分かる。マスクに送られてくる加圧酸素の圧力をノーマルに下げ、高度表示に目を走らせる。海上を隙間なく覆う雲の塊ひとつひとつがみるみるうちに大きく見えてきた。


 目標高度に近づくのを見計らって、傍らのウイングマンに減速するための合図を出す。


「スピードブレーキ――ナウ」


 背中のスピードブレーキを開くとともに、機体は急激に速度を落とした。やがて緩やかに水平飛行へと移ると、しばらく洋上の雲海の上を飛んでから雲を抜けて再び降下していった。


 海岸線を過ぎて内陸へと入ってゆく。

 雨こそ降ってはいないものの、夕方が近いことと相まって雲の下は薄暗くなっていた。畑や森の間の道路を行き来する車の姿が小さくまばらに見える。その中には既にヘッドライトを点けているものもあった。


 流れてゆく景色に目を当てていると、「戻ってきた」という感覚が湧いてくる。


 上空の高いところまで昇り、空よりも宇宙の方を強く感じる場所に身を置いていると、ふとした一瞬などに無限の空間を実感してその途方もなさに圧倒される思いがするが、同時に、ここは自分たちが本来いるべき世界ではないという居心地の悪さも覚えるのだった。


 そして訓練を終えて帰投すると、宇宙に近い無機質な世界とは打って変わって、雑然とした景色が眼下に見えてくる――森や林の間をモザイクのように埋める畑や住宅地、行儀よく並んだ養鶏場や養豚場の横長の建物、ビニールハウスの細長い列、四方に延びる道を思い思いに行き交う車――そういった、自然と、その(はざま)細々(こまごま)と続けられている人の営みを目にすると、心のどこかがほっと緩む気がするのだった。


 そんな景色の奥に、基地の姿が見え始めていた。他には特に高い建物もない周囲の中で、管制塔だけが突き出すように建っている。先に帰投した先輩の機が飛行場上空を周回しながら着陸態勢に入っているのが砂粒のような大きさで見えていた。


 俺は傍らのウイングマンの様子を確認すると、無線のスイッチを入れて管制塔を呼び出した。


「百里管制塔、エンジョイ15。着陸許可願う」

『エンジョイ15、(きゃく)下げを確認せよ。使用滑走路03、着陸を許可する。風は350度より8ノット』


 基地の南に横たわる霞ケ浦の湖岸に沿って北上する。湖に面して続く平地は長方形に区画されて畑になっていたが、乾いた土の色が多かった真冬の時期とは違って、緑が目立つ区画も随分と増えてきたように思えた。


 やがて、地上の建物を目印にして湖岸を離れ、滑走路の延長線上に針路を取った。飛行場上空まで1分とかからない。滑走路上空に到達すると右旋回に入って速度を落とす。数秒を置いてウイングマンが同じように旋回を開始した。そのまま上空をひと回りして、俺たちは順に滑走路へと着陸した。


 整備員の待つ駐機場に機を走らせ、定位置につけてからキャノピーを開くと、排気の熱に混じって冬の名残を思わせる冷えた空気がコクピットに流れ込んできた。3月を間近にして暖かい日が続くこともあるが、時々こんな冬めいた寒さに戻ることもあった。


 マスクを外し大きく息をつく。駐機場にはジェット燃料の灯油に似たにおいが漂っていた。そのにおいに無事地上に戻ったことを実感して、それまで張っていた気が途端に(ほぐ)れる。


 ヘルメットを脱いで識別帽を被ると、コクピットの縁に手をかけて座席から体を抜き出した。とりたててGを掛けた訳でもないのに、全身が気怠(けだる)く感じる。


 高高度で訓練を行った後はいつもこうだ。顔に当てたマスクが浮き上がる感じになるほどの圧をかけた酸素を吸い込んではいても、高高度では低い気圧のために肺に取り込む機能自体が低下する。いわばずっと酸欠の状態で、体には常に負担がかかっているのだ。


 所詮(しょせん)、人間はどう頑張ってみても結局は地上の生き物なんだ――成層圏近くまで行った後には大抵いつも思うことを今もまたしみじみと感じつつ、コクピットに取り付けられた梯子に足を掛ける。


 まったく、物好きなもんだ――思わず自嘲気味に笑ってしまいそうになった――Gをかけて体や頭の毛細血管を千切(ちぎ)ってみたり、わざわざ酸欠になりにいったり、自分の体重の何倍もの荷重を支えようとして首や腰を痛めつけたり、上空で貧血状態になって失神しかけたり――自然の摂理に反したことをしているから、そういうことになる。日々、自分で自分の寿命を縮めているようなものだ。


 厚く垂れこめた雲の下に轟音を響き渡らせて戻ってきた別の編隊のF-15が、上空を騒がせ始めていた。


 高速で頭上を飛ぶ金属の塊を見上げて、何だか可笑(おか)しくなる――戦闘機に乗るという行為は、何と自虐的なことなんだろう。


 それでも、自分がしていることに迷いはない。自ら選び、掴み取り、毎日必死になって食らいついているもの――これが俺の仕事だ。


 改めて胸の中でその気持ちを確かめると、俺は勢いよく梯子から駐機場のコンクリートの上に飛び降りて、整備記録を手にして待っている整備員の元へと急いだ。




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