ハスキーからの目撃情報(2)
意気込んで駆け足から戻ってきたものの、肝心のアディーはフライトやその前後のブリーフィングで忙しそうにしているし、モッちゃんはモッちゃんで、仕事場であるカウンターの中で電話を受けたり書類に目を通したりと、雑談に興じるような雰囲気ではなかった。
俺自身も夜間飛行訓練前の準備や付加業務の処理に追われてはいたが、アディーとモッちゃんが特別な親しみのこもった眼差しを交わしはしないかと期待して、ついチラチラと二人の姿を目で追ってしまうことが度々だった。
そしてそれはどうやらハスキーも同様らしく、モッちゃんとアディーが明らかに事務的な用件でやり取りしている時でさえも、好奇心に輝く目をそのまま俺に向けてくることもあった。
とにかく、アディー本人の口から昨日のことを聞かない限り、この浮き立つ気持ちは収まらないことは確かだった――今まで軽口を叩きあう、単なる仕事仲間だった二人が、これから同棲を始めるのだ。夜にはひとつの部屋で布団を並べて!
あれこれ想像がよぎって落ち着かなかったが、もちろん、そんな浮ついた気分でフライトはできない。ナイトで飛ぶ時には完全に頭を切り替えて臨んだ。
訓練を終えてディブリーフィングを済ませ、明日のフライトに備えた計画まで終わらせるや、俺は手早く私物をまとめて迷うことなく職場を飛び出した。時間は夜の10時を回っている。ナイトにフライトが組まれていなかったアディーは一足先に部屋に帰っているはずだった。
資料やノート、汗まみれの汚れ物などを詰めたヘルメットバッグを自転車の前かごに突っ込むと、すっかり暗くなった基地内の道を独身幹部宿舎目指して猛然と走った。
宿舎の玄関口で航空靴を脱ぐのももどかしく、室内履きのサンダルをつっかけ、急いで部屋に向かう。何と言って切り出そうかあれこれ考えながら自室のドアを開けた。アディーはもうジャージに着替え、乾燥室から引き揚げてきた洗濯物をベッドの上に置いて仕分けているところだった。その姿を見たとたん、ついつい口元が緩んでしまう。
顔を上げたアディーは俺を見るなり困惑した面持ちになった。
「何だよ、ニヤニヤして。何かいいことでもあったのか?」
ドア口に突っ立ったまま、腹の底から湧き上がる喜びを堪えきれなくなって、俺はとうとう上ずった声を上げた。
「アディーちゃん! 俺は長年一緒にやってきた同期として、自分のことのように嬉しいぞ! これでお前もようやく遍歴のマダムキラーを卒業して落ち着けるってもんだな。俺も頑張って世話焼いた甲斐があった!」
「何のことだよ、大袈裟に」
アディーは洗濯物を畳む手を止めて訝しげに眉を寄せる。
いやいや、いいんだぞアディー、しらばっくれなくたって!
「いまさら隠す必要ないからさ! お前、モッちゃんと新居の準備してるんだろ?」
「何? 新居?」
「もう隊長には許可もらってるんだろ? でも籍を入れる前の同棲なのに、よく営外のオーケーが出たよなぁ。そういうの、もっと厳格に指導されるもんだと思ってたけど」
「はあぁっ? 同棲??」
アディーは変に裏返った声で叫んだ。
しかし俺は、まったく訳が分からないとでも言うような、そんな白々しいリアクションにごまかされるつもりはない。
「やっぱりお前とモッちゃんだから、隊長もむしろ積極的に後押ししたって感じなんだろうな」
そう言いながら、自分の言葉に大いに納得して頷く。
アディーはますます混乱したように目を瞬かせ、両手を上げて俺を止めた。
「ちょっと待て。何がどうなったらそういう話になるんだよ? お前の思考回路が全然理解できないんだけど」
いつまで照れ隠しに知らんぷりするつもりだよ、いいから認めてしまえって!――あくまでしらを切ろうとするアディーに業を煮やして、俺ははっきり言ってやった。
「アディー、もうとぼけなくたっていいんだぞ! 昨日、モッちゃんとデートしてただろ?」
「デート?――ああ、違うよ」
一気に拍子抜けしたような顔になったアディーは、頭に手をやると唸りながら無造作に髪を掻いた。
「そうか、そうか……お前のそのとんでもない早とちりの発端がやっと見えてきた気がする……。どおりで昼間から、しょっちゅうお前と目が合うなとは思ってたんだよ」
アディーはようやく合点がいったというように軽く何度か頷きながら、「まったく、そういう情報だけは早いよな」とぼやいている。そして溜め息をつきながら俺を見やって、諦めきった口調で言った。
「いいか、最初からちゃんと説明するから、頭を空っぽにしてよく聞けよ」
「おうっ!」
俺はもう期待に満ち満ちて、自分の勉強机の椅子を引き出して腰かけると身を乗り出した。
アディーは身辺整理の作業を完全に中断して改めて俺に向き直ると、まるで幼稚園児にでも言い聞かせるようにゆっくりはっきり話し始めた。
「昨日、出かけようと思って車で基地を出たら、正門のところでモッちゃんがタクシーを呼ぼうとしてたんだ。声をかけたら、営内の自分の部屋に置くカラーボックスを買いにホームセンターに行くって言うから。重いものだし、またわざわざタクシーで帰ってきて正門から女性自衛官隊舎まで運ぶのも大変だろうと思って、買うのに付き合ってあげたんだよ。それだけ。分かったか?」
「え?」
俺は思わず瞬きした。目の前に立つ同期を見上げて、その苦り切った顔をまじまじと見つめる。
「新居の家具選びじゃないの?」
「違う。絶対に違うから! 誰の新居だよ、まったく。お前も戦闘機乗りなら、もっと冷静に情報収集と分析をしろよ」
アディーはすっかり呆れ返った様子で俺を見ている。
なぁんだ、ハスキーの誤認情報だったのか――いや、俺が早合点しただけか?
どちらにせよ、すっかり気勢を削がれた気分だ。今日一日、無駄にテンションを上げてしまった。せっかくのおめでたい話だと思ったのに。
がっかりしそうになったが、ふと気を取り直した。
家具選びの目的が当初の想像とは違っていたとはいえ、ふたりっきりで出かけていたのは確かだ!
気配を察したのか、洗濯物たたみに戻ろうとしたアディーが再び振り返り、途端にまた渋い顔になる。
「そのニヤニヤ笑いやめろ。ほんとに気持ち悪いから」
俺はお構いなしに口を開いた。
「よし、よし……同棲が誤解だったっていうのは分かった――でもさ、二人で出かけたのは事実だもんな? そしたらさ、ホームセンター行って帰って、だけじゃないよな? 昼飯とか、一緒に食べたりしたんだろ?」
「まあ、ちょうど時間も時間だったし、お昼くらいは……」
アディーはもごもごと言い淀んだが、俺が「おおぉ――」と喜びの歓声を漏らすと、慌てて続けた。
「でも、お前が期待してるようなものじゃないからな! 食事代だって、俺が払おうとしたら『連れて行ってもらった上にそれだと申し訳ないので、私に出させてください』って言われて、結局奢ってもらったくらいなんだから。かえって申し訳ないほどだったよ」
先手を打ったつもりなのか、言い訳めいてそう説明する。
そんなことを言われても、どんな話をしてどんなムードだったのか、根掘り葉掘り訊いてみたくて仕方がない。が、さすがにそれは野暮というものだ。
ぐっと堪え、それでも期待感に声が震えそうになるのをようやく抑えながら、俺は更に訊ねてみた。
「まあそれでもさ、ふたりっきりで楽しく食事した訳だよな??――で、その後ついでにちょっとドライブしてみたりとか?」
「お前、その笑い、鬱陶しいぞ! いい加減に落ち着けよ!」
げんなりしたように横目で睨まれたが、ここでおとなしく口を噤むわけにはいかない。俺の希望的指摘が図星かどうか、アディーの表情を見逃すまいと勢い込んで続ける。
「それでひょっとして、ドライブの途中で町はずれのホテルに入ってみちゃったりとか――」
「だからその気持ち悪い笑いやめろって! それに何だよホテルって、飛躍しすぎだろ! どう想像を逞しくしたらそうなるんだよ、まったく!」
これ以上俺に付き合っているともっと際どい妄想をぶつけられかねないと思ったのか、アディーは身を屈めてシャンプーやらボディーソープやらを入れた風呂桶をベッドの下からつかみ出すと、タオルと着替えも一緒に抱えてそそくさと部屋を出て行ってしまった。