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ハスキーからの目撃情報(1)

 珍しく夜間飛行訓練(ナイト)にしか自分のフライトが組まれていない日の午前中、俺はTシャツとハーフパンツに着替えると駆け足をしに飛行隊を出た。


 気持ちのいい陽気だ。息を吸うと鼻の奥がしみるように痛むほどの乾ききった冬の空気ではなく、適度に含まれた湿気が春の兆しを感じさせる。

 刷毛で掃いたようなごく薄い雲が空の高いところにかかり、太陽の日差しを和らげていた。アスファルトの隙間や道路脇の植え込みの隅には、草取り作業で見逃された雑草が小さな黄色い花を咲かせている。


 まずは軽めのペースを維持しながら、正門通りを抜ける。


 外周道路に入ると、根元に緑の葉が覗き始めた枯れ草の間から、こちらの足音に驚いたヒバリがぱっと飛び出してきて低いところを滑空していった。開けた飛行場の上空では、また別のヒバリが気持ちよさそうにピチピチと(さえず)っている。


 冬枯れた景色の中にも春の気配を感じながら、ウォームアップがてらに走っていた時のことだった。


「……おおーい! イナゾォー!……」


 後ろの方から呼ばれた気がして、俺は振りかえると声の出どころを探してみた。

 遥か向こうから、誰かが大きく手を振りながら猛然と走ってくる。よくよく見てみると、呼んでいるのはジャージ姿のハスキーだった。

 いったい何事かと、その場で軽く足踏みを続けながら待ってみる。しばらくして大仰に息をつきながら、ハスキーが俺の前に走り込んできた。


 ゼイゼイと盛大に息を切らせている先輩が落ち着くまで少しの間を置いてから声をかけた。


「ハスキーさんが駆け足なんて珍しいですね」

「おう……来月、俺、誕生月だからさ……航身検あんだよ。前回さ……尿酸値とかガンマ何とかの値が高めだって言われちゃってよ……摂生しとかなきゃまずいだろ……。晩酌だって、今は週に1回で我慢してるんだぜ」


 ハスキーは上がった息のまま切れ切れにそう言いながらも、「頑張ってるだろ、俺」とでもアピールしたそうだ。


 ある程度の年齢になってくると、パイロットたちは航空身体検査の数値を気にしはじめるようになる。検査日の1か月くらい前から必死にジョギングしたり酒の量を控えたりして、いじらしい努力をするのだ――そして検査が終わったとたん、それまでの節制の反動と開放感で酒量が一気に増えるというオチで終わるのが大方のパターンだった。


 走るのがそこまで得意ではない先輩に合わせてスピードを控えめに保ち、肩を並べて再び走り始める。


「お前、確かアディーと同じ部屋だったよな?」


 隣のハスキーが待ちかねたように話の口火を切った――そもそも何か用があって、彼方からわざわざ俺を呼び止めたのだ。

 「はい」という俺の返事を聞くか聞かないかで、続けて()くように訊ねてくる。


「あいつ、最近どうよ? 女関係は――おい、ちょっとペース落とせ。速ぇよ!」


 文句を言われて俺はしかたなく更に足を緩めた。もはや早歩きに毛が生えた程度の遅さで、トレーニングにすらならない。日中にフライトが入っていないとはいえ、とにかく時間は貴重だ。これではいつになったら飛行隊に帰りつけるのやら……。


 だが先輩は俺の困惑などお構いなしで、再び気を取り直したように言葉を続けた。


「で? アディーはまだ遊び歩いてんのか?」

「まあ、今はめったに外泊もしなくなりましたし、落ち着いてきたような感じはありますけど……」


 最近の様子を思い返しながらそう答えると、ハスキーはまるで張り込み中の刑事のような面持ちで声をひそめて顔を寄せてきた。


「実はな――昨日嫁がホームセンターに買い物に行った時に、アディーを見かけたって言うんだ」

「はあ……」


 飛行班全体で家族連れのバーベキューや花見をしたこともあったので、ハスキーの奥さんがアディーを見知っていても別に不思議はない。いや、むしろ――俺はそういうイベントの時に見たハスキー夫人を思い出してみた。身振り手振りを交えながら、ひと目でおしゃべり好きだと分かるほどの勢いで喋りたて、ご婦人連の輪の中で常にセンターポジションをキープしていた――旦那同様に噂ネタが大好きそうなあの奥さんだったら、見た目のいいアディーのことなら尚更ばっちり覚えていそうだ。


 まあ、それはさておき……確かに昨日あいつはアラート待機の分の代休を取っていた。ホームセンターにだって日用品を買いに行ったかもしれない。

 だが、それがどうしたと言うんだろう?――隣の先輩が何をそんなにもったいぶって深刻そうにしているのか見当がつかず、俺は戸惑い半分でハスキーを見た。


「でな、嫁によると、アディーは女を連れてたんだと」


 女連れ? あいつ、凝りもせずにまたマダムと付き合い始めたのか?

 思わず渋い顔をした俺に、ハスキーは更に声のトーンを落とすと極秘事項でも口にするかのように重々しく続けた。


「――それがどうやらその連れはな……なんと、モッちゃんだったみたいなんだ」


 モッちゃん!?


 それまで適当に相槌を打っていた俺は、驚きのあまり素っ頓狂な声を上げてしまった。

 ゴシップ好きな先輩のみなぎる好奇心に付き合わされる羽目になって辟易していたが、そんな気分は一瞬にして見事に吹き飛んだ。


 モッちゃんとアディーが二人っきりで外出!?――でもそうだ、モッちゃんも昨日は代休だとかで職場には出てこなかった……! となると、一緒に出かけていたという目撃証言は俄然信憑性が高くなる!?


 目を丸くした俺の反応に手ごたえを感じたのか、ハスキーは嬉々として囁いた。


「なあ、あの二人、デキてるのか?」

「さあ……自分もそんな話は初耳で……。先輩のいつものノリで、本人たちにさらっと話振ってみたらどうですか?」

「いやいや! それはさすがにできねぇよ。アディーはともかく、モッちゃんにそんなこと訊いたらセクハラになるだろ」


 取り繕ったように神妙な顔でそう言った先輩は、シベリアンハスキー似の短い眉をいっそう寄せた。


「でもよ、二人でホームセンターなんて、新婚カップルみたいじゃんか。嫁の話じゃ、家具コーナーにいたってよ?」


 二人で家具を見てた!?

 営内を出て一緒にアパートにでも入ろうというんだろうか。いやしかし、基地の外に住むには申請が必要だから、同じ住所を書けば一発でバレることは分かりきっているだろうし――一体どういうことだろう??


 頭の中をひたすら疑問が巡り巡る。つい足運びが疎かになって、俺もハスキーももはやウォーキングとさえ言えないほどのスローペースになっている。


 外周の反対方向から軽快に走ってきた別の隊員が、すれ違いざま俺たち二人のことを(いぶか)しげに見ていった。狭い道路の真ん中で男二人が足踏みしながら顔を寄せてヒソヒソ話に熱中していれば、何事だろうと不思議に思いもするだろう。


 俺はどうにも落ち着かなくなって、無意味に飛行場を見渡してみた。今は離着陸機もなく、だだっ広い草地には暖かい陽がのどかに降り注いでいる。

 半ばうわの空で周りの景色に目を当てながら、ハスキーの口から語られた衝撃的な話を頭の中で何度も反芻してみる。


 新婚夫婦よろしく二人で仲良く家具を選んでいたというアディーとモッちゃん。謎めいたホームセンター・デート。


 ハスキーの奥さんが目撃したという状況から導き出される、最もありそうな可能性はただひとつ――俺は確信をもって胸の中で頷いた――二人は付き合い始めたに違いない! しかも、同棲を前提にして!


 アディーの奴! よりによってこの俺に黙ってるなんて水臭いだろ!! 一体いつから付き合い始めたんだ!?


 クリスマスに焼肉コンパを実施した時には、二人の間にはそんな親密な雰囲気は微塵もなかった。俺の実家で酔ったアディーに話を振った時にも、モッちゃんと付き合うことに対して消極的なことを言っていたから、きっとあの後、何かのきっかけで急激に親しくなったのだ!


 あれこれ考えはじめた途端、もうウズウズしてきてじっとしていられなくなった。一刻も早くアディーの口から詳しい事情を聞いてみたい。


 俺はハスキーに断ると先輩をその場に置き去りにし、残り数キロある外周道路を一目散に飛ばして飛行隊に駆け戻った。




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