求められるもの
俺の目の前で、飛行班長のパールが明らかに不満そうな顔をして黙り込んでいた。分厚い唇をへの字に曲げて腕を組み、顎にできた皺をいつものように意味もなく指で撫でながら、俺が編隊長として説明を実施した訓練内容をメモした自分のファイルに目を落としている。
サードピリオドでのフライトを前にしたプリブリーフィング。あと40分ほどで離陸時刻となる。
「お前さぁ――」
不機嫌な声が俺に向けられる。
「――そもそもこの訓練の第1錬成対象は誰なんだよ?」
リーダーが俺、ウイングマンにTRのライズ、その後席に教官として同乗するパール、そして対抗機にジッパーという、2対1の格闘戦を想定した訓練。メンバー編成を見るだけで錬成対象は明らかなはずだ。それを敢えて訊いてくるパールに、俺も分かり切った答えを返さざるを得ない。
「ライズを対象と考えて計画しました」
「そうだよなぁ、お前自身じゃなくて、ライズを錬成したいんだろ?――だったらさぁ、何で今になってこんな内容なの? 今更ライズに対してこんな訓練やって、何か意味がある訳? ライズはもうこれクリアできてるんじゃないんか?」
そら来た、先輩の「何で」攻撃だ。どうやら訓練内容が初歩的過ぎて引っかかったらしい。
パールは手にした鉛筆の背で手元の用紙をぞんざいに叩きながら、しかめ面で俺を見やって言う。
「ウイングマンの技量を伸ばすためにはさぁ、いつまでも同じレベルをちみちみ繰り返すんじゃなくて、もっと大胆に、別の状況を設定して訓練を進めるべきだと思わんか?」
俺が前日からあれこれ頭を絞って練った訓練計画を真っ向から否定しにかかる。
確かにパールの指摘のとおりだと思う。でも、俺なりに考えがあってこの計画を立てたのだ――現時点でのライズの練度、前回のフライトでどうも気になったところ、空域の天候の見通し、その状況で行うことができそうな訓練課目、天候が変化した際の代替訓練案、等々……毎回のことだが、あらゆる状況や事態を想定し、考え併せ、限られたフライトの時間で最も訓練効果が上がるよう、最適と思って準備してきた計画だ。
「こんなんじゃ、いつまで経ってもウイングマンが育たんぞ。そう思わんか?」
険のある言い方で、なおもそう畳みかけられる。黙って班長の言葉を受けているうちにだんだん腹が立ってきた。
――俺だって精一杯考えてやってんだ! 必死に頭を捻って考えてきた結果がこの計画だ! それがそんなにダメならもう、クビにでもなんにでもしたらいい!
ムラムラと腸が煮えたぎってくる。俺はついにその場で開き直った。飛行班長を見据え、口を開く。
「確かに、全般的に見るとライズはクリアしています。でも、これまでの訓練で、攻めるタイミングの判断に僅かなまごつきと反応の遅れが散見されました。自分としてはその点がどうしても気にかかるので、今回はその確認と克服を主眼として訓練を計画しました」
説明というよりむしろ、自分の意見を強硬に主張する勢いでそう抗った。
パールの、平素から威圧感のある眼がさらに凄みを増してじっと俺に当てられる。俺も負けじと踏ん張って、その目を見返す。
息詰まるような数秒の間があった。
「――そうか、了解」
不意にパールは低い濁声で素っ気なくそう言うと、傍らのライズとジッパーに視線をやって「他に何かあるか」と形ばかりに確認し、広げていたファイルなどをまとめて席を立った。俺たちも立ち上がって互いに一礼し、ブリーフィングを締めくくる。
終始無言だったジッパーが去り際に口元をニヤリと歪ませたような気がしたが、とにかく俺は腹の中がモヤモヤして仕方がなかった。
装具を身に着けるために救命装備班に向かいながら、胸の内で悪態めいた自問を繰り返す。
一体何がいけないのか。俺は素質がないんだろうか。精一杯やっているつもりでも、まだどこかが甘いんだろうか。「了解」と言ってあっさり引き下がったパールは、今のブリーフィングで俺の編隊長としての能力に見切りをつけたんだろうか。だったらこの際はっきり言ってくれ、「お前にリーダーは務まらない」と――。
ヘルメットやマスク、救命胴衣など、各々の個人用装具がポールにずらりと引っかけられた部屋の一角に来ると、ひと揃えにされている自分の装具の中から耐Gスーツを鷲づかみにした。下半身に当てがってファスナーを閉めながら、自分が組み立てた訓練計画を改めて反芻してみる。
――確かに班長の指摘のとおりだとは思う。飲み込みが早く器用なライズにはもっと色々な状況を経験させて、応用力をつけさせてやった方がいいということは分かっている。
だが俺は、ライズが機動中にしばしば見せる僅かなためらいが気になるのだ。判断に自信がないのか何なのか、ここぞという時に一瞬とまどう。迷っていることは機体の動きを見れば明らかだ。その克服のために通常よりも細密な訓練を繰り返してみて、思い切って攻めにいける自信に繋げられれば、きっとライズは飛躍的に伸びると思うのだ――。
「――プリブリ、ギュギューッとやられてたな」
唐突にすぐ脇で声がして、耐Gスーツを脚に合わせていた俺は身を屈めたまま顔だけねじって傍らの人間を見上げた。
海賊船長顔のフックが自分の装具を手に取りながら、苦笑まじりに俺のことを見下ろしている。
そう言えばさっきの時間、フックは隣の机で自分の編隊長からブリーフィングを受けていた。きっと班長と俺のやり取りが耳に入っていたのだろう。
「やっぱさ、航学出身の先輩は、同じ航学の後輩には高いものを求めるよな」
「そうですか?」
俺はつい疑いの抑揚で聞き返してしまった。
さっきの班長の指摘は、後輩を鍛えようという積極的な意図があってのことなのか?――しかし、そう好意的に捉えなおせるほどの気持ちの余裕が今はない。
不愛想になってしまった俺の相槌に、フックは余裕を見せて頷く。防衛大学校出身のフックは俺と飛行操縦課程が同時期だったが、歳は俺よりも3つ上になる。そして一足先に2機編隊長の資格を得ていた。
「同じことをやってたって、防大出身や一般大出身者より厳しい指導が入るもんな。フライトコースの時からそうだっただろ?」
当然のように言う。
俺は救命胴衣を身に着けつつ、学生時代を思い出しながら首を傾げた。
飛行教育を受け持つ部隊の教官室には必ず大きなボードが掲げてあって、これを見れば「いつ、誰が、どの課目を実施し、どの教官と何時間のフライトを行い、評価はどうだったか」という、ぞれぞれの学生の進捗状況や練度が一目で分かってしまう。
評価はグレードごとに色分けされて示されており、あまり目にしない「優」は青、「良」が緑、ギリギリの出来である「可」は黄色、「不可」はピンク――このピンクを食らうと免が現実的に迫ってくるので、精神的ダメージが計り知れない――に塗り分けられている。
どちらかと言えばイエローの多い自分の成績欄からグリーンが目立つマスに目を遣れば、防大か一般大出身者の欄であることがしばしばだった。悔しさまじりに羨ましく眺めつつ、「きっと彼らは優秀なんだろう」と思うことはままあった。
しかし、当時のフックの見解は違っていたようだ。
「航学出身の教官たちは、直接の後輩の学生にはことさら厳しくしてるんだなって、その頃から思ったよ。だってグレードボード見れば、明らかに航学の奴らと俺らとでは色が違ったもんな。『しっかりやれ、部隊は俺たち航空学生が支えてるんだ』っていうプライドがあからさまに伝わってきて、学生ながらに何て言うかこう……すっごい悔しかったんだよな」
その時の気持ちを今思い返しても同じように感じるのか、フックは笑顔でありながらも苦々しげに眉をしかめている。
課程学生の頃からフックがそこまで細かい点に気づいていたというのは驚きだ。俺は今までそんなことを考えたこともなかった。
確かに、事前の計画段階でも実際の訓練でも、常に妥協のないものを求められる。甘い部分は細かく指摘され、その度に唸りながら頭を絞って自省することの繰り返しだ。そこに出身区分の別はないと俺は思っている。
だが防大や一般大出身のパイロットたちからしてみたら、俺たち航学の先輩後輩のやり取りに「航空学生の矜持」というような強い自負を感じ取って、一種の壁を感じるらしい――。
話しながら手早く身支度を整え終えたフックは、俺に好戦的な目を向けて笑った。
「もちろん、俺らも防大出身だからって甘えるつもりはさらさらないけどな」
準備を済ませた同僚たちがヘルメットバッグを手にしてばらばらと救命装備室を出始めた。
俺も装具をすべて身に着け、識別帽を被って手袋をはめると、エンジンの騒音で鼓膜を傷めないよう耳に当てるイヤマフを首に引っかけ駐機場へ出た。
春が近いとはいえ、まだ冷たさを感じさせる北西からの風が吹き渡っている。空は真っ青で陽の光は眩しく、空気は乾燥しきっていた。
どのF-15もエンジンスタートしていない静かな駐機場で、パイロットと整備員たちが灰色の巨体の下を動き回り、それぞれにフライト前の機体のチェックに勤しんでいる。
アサインされている機番を見つけて向かおうとした時、俺のことを後ろから抜いていった者があった。ジッパーだった。
ジッパーは横目で俺を見やると、歩調を緩めて口を開いた。
「イナゾー、さっきのプリブリ、あれでいいんだよ。先輩に怒られないようにしようとイイ子になるんじゃない。編隊長なら、『誰が何と言おうと俺はこう考えてこうやる』っていう明確な意志を示すことが一番大事だ。リーダーが少しのことでブレてたら、ウイングマンは怖くてついていけないからな」
淡々とそれだけ言うと、列線に居並ぶF-15に視線を巡らせ、自分にあてがわれた機体の元に足早に歩いていった。
俺は思わず足を止めた。
そうか――搭乗機の元へまっすぐに向かう先輩の姿を見送りながら、鬱々とした気分が一瞬で抜けた気がした――そうだ、それでいいんだ。
考え抜いて導き出したものならば、自信を持って実行する。指揮官として「自分はこうやる」と部下に明示し態度で示す。もし上手くいかなかったら、その時は軌道修正して反省を次に生かす。
戦闘機乗りとして、僚機の命を預かる決意を込めた言葉を思い出す。
『俺についてこい』
編隊長からこの言葉をかけられ、無条件で自分の命を預けようと思える時、編隊長の気概に揺らぎはない。だからこそ危険を共にしようと腹が据わる。
「この人についていって、それで駄目ならもう仕方ない」、そう部下に思わせる、そういう気迫を見せることが指揮官として何より大切なのだ――。
俺は目の前の靄がすっかり晴れたような気分になって、十数機のF-15が整然と並ぶ広々とした駐機場を見渡した。
1機、また1機と、先発で離陸する編隊のエンジンがかかり始めている。
高く掠れたその音が次第に幾つも重なって、駐機場は徐々に騒々しさを増しつつあった。ジェット燃料特有の灯油のようなにおいと排気の熱が風に混ざって運ばれてくる。
遅れてオペレーションルームから出てきたパールが俺を追い越していった。通り過ぎざま、ドアの前で立ち止まっている俺を不審そうに見て、「何してる、早く行け」というように目で促す。
それに大きく頷いて応えると、俺は気持ちも新たに奮起して搭乗機へと足を踏み出した。