転出の日
リバーが305飛行隊を去る日――ここ最近続いていた冷え込みはようやく緩み、ふと春の気配を感じるような陽気となって、空は柔らかな色合いで穏やかに晴れていた。
8時を過ぎた今はもう、7空団司令部の庁舎前には高々と国旗が掲げられていた。ゆったりと風にはためく日の丸が、建物前の通りに並んでいる桜の木々の向こうに見えている。
庁舎の向かいに広く設けられたグラウンド沿いにぐるりと植えられている桜はまだ細い枝を広げているだけだが、毎年4月になれば薄紅色の花が満開になって、基地の正門を入ってからこの辺りまでの道は一気に華やいだ雰囲気になる。
しかし春にはまだ早い。グラウンドも一面枯れた芝生で覆われていた。
その広場で、これから団朝礼が始まろうとしていた。フライト要員を除いた7空団所属の隊員たちが朝礼台を前にして部隊ごとに整列している。
俺も含め、305の飛行班員たちも2列縦隊でその一団の中にいたが、リバーだけは違っていた。列からは外れて、朝礼台から少し離れた脇の方で待機していた。フライトスーツに識別帽といういつもの格好ではなく、冬制服に制帽という、俺たちパイロットからすると改まった姿だった。
司会進行役を務める司令部の総務班長がマイクを手にして朝礼の開始を告げる。
「これより、団朝礼及び転出幹部の紹介を始めます――団司令登壇、部隊気をつけ」
総務班長の言葉を受け、各部隊の指揮官が「気をつけぃっ!」と揃って声を張り上げる。休めの姿勢を取っていた俺たちは、一斉に踵を合わせ背筋を伸ばした。制服姿の団司令が朝礼台に立ったところで、総務班長が再び続ける。
「団司令に敬礼」
「頭ァ……中ッ!」
指揮官の号令で列中の隊員たちは同時に壇上へと顔を向け、部隊での敬礼を行う。
それを受けて右手を掲げ答礼した団司令は、自分の前に整然と並ぶ部下たちを端から端まで見渡した後、「おはよう!」とひと声発して挙手を解いた。各指揮官の「直れ」の号令と共に、俺たちは再び顔を正面に戻す。
進行に沿って団司令が朝礼台から降りると、総務班長は今日の朝礼の本題に入った。
「転出幹部、登壇。部隊休め」
その言葉で踵を返したリバーは、団司令の前に進み出て一度敬礼すると壇上に上がって姿勢を正した。総務班長が簡略な紹介文を読み上げる。
「飛行群第305飛行隊、1等空尉利根正俊、2月21日付けをもって第4術科学校へ転出――転出幹部、挨拶」
リバーは一歩前に進み出ると、正面を向いて気をつけをしたまま口を開いた。
「2月21日付けをもって熊谷の第4術科学校に転出となりました利根1尉です。第305飛行隊では諸先輩方や後進に恵まれ、また、多くの方々からのご支援を賜り、任務に専心することができました――」
俺は自分の前に並ぶ同僚たちの背中越しに、朝礼台に立つリバーの姿をじっと見ていた。
――同じ飛行隊で共に飛んできた仲間として、せめて、ラストフライトのセレモニーを執り行って送り出したかった……。
誰かが転属する時にはその家族も呼んで必ず行う、これまでの労いとこれからへの餞の儀式。それを行うことなく、転出の日を迎えてしまった。それもまた、心残りだった。
ラストフライトがあったら――。
305での最後のフライトを終え、駐機場に戻ってきたリバーが機上から降りてきたところへ、すかさず飛行班員や整備員たち皆で何杯ものバケツに入れて用意しておいた氷水を盛大にぶっかけてやるつもりだったのに。
「お疲れ様でしたぁっ!」と叫びながら、仕上げに熱いお湯も浴びせかけ、歓声と拍手の中で花束を渡し、握手を交わし……そしてずぶ濡れになったリバーと、聡子さんや子どもたちを真ん中にして、飛行時間や在隊期間が書かれたプラカードと隊旗を掲げ、F-15をバックに皆で笑顔の記念写真を撮って――そうやって、賑やかに送り出したかった……。
うららかな日差しの中で、基地は静まり返っていた。朝礼開始前に上がり終えた訓練機がすべて空域へと出かけていった今、ただリバーの声だけがグラウンドに響いている。
「――これからは、情報幹部として新たな場で国防に貢献できるよう、弛まず邁進していきたいと思います。これまでの皆さんのご支援に心より感謝いたします。どうもありがとうございました!」
リバーはそう締めくくると改めて姿勢を正し、居並ぶ隊員たちに壇上から挙手の敬礼をした。それは儀礼的な所作ではなく、皆に対する心からの感謝と敬意が伝わってくるような、真摯な敬礼だった。
――朝礼の解散後、俺たち飛行班員は駐機場側の出入り口から花道を作ってリバーを見送った。
列の先頭に立った隊長が、リバーに最後の労いの言葉をかけた。
「これまで本当に良くやってくれた。多くの隊員が君に学ぶところがあったと思う。道は違っても目指すものは同じだかならな――これからも頑張ってほしい」
「隊長、短い間でしたがどうもお世話になりました」
片腕に花束を抱えたリバーは隊長に敬礼すると、飛行班長以下、諸先輩や後輩たちひとりひとりと別れの挨拶を交わしてゆく。
花道の列中で、俺の隣に立つジッパーは唇を固く引き結んで泣いていた。顔を上げたまま涙を拭うこともせず、同僚たちから激励の言葉を受けているリバーの姿を見つめ続けている。
そんなジッパーの前に来たリバーは、眉根を寄せて押し黙っているジッパーの泣き顔を見ると、まるで頑なな幼い子どもに対するように優しさのこもった苦笑を浮かべた。目を潤ませながらも、おどけたように言葉をかける。
「ジッパー、お前が泣くなよ。今生の別れじゃないんだから――熊谷だから同じ関東なんだし、たまには顔見せてくれよな」
親愛の情を滲ませて肩を叩いたリバーに、ジッパーは真っ赤になった目を瞬かせるとようやく絞り出すように言った。
「先輩……今まで本当にお世話になりました」
「後輩たちを頼んだぞ!」
「はい……!」
涙に咽ぶジッパーの、それでも確固とした返事にリバーは大きく頷いた。そして今度は俺に目を向ける。その制服の左胸に、燻し銀の航空徽章はもうなかった。
「リバーさん……。先輩についてもっと飛びたかったです」
声が震えてしまわないよう気持ちをこらえてそう伝えると、リバーは冗談めかした笑顔になった。
「お前にそう言ってもらえて嬉しいよ――だってイナゾー、最初は俺のこと、とぼけた奴だと思ってたもんな?」
唐突に言い当てられ、俺は思わず泡を食って目を剝いた。「いやっ……そんなことは……」と焦って言い繕いながらも、すっかり見透かされていたことに今更ながらうろたえる。
そんな俺にリバーは声を上げて笑った。
「まあ、お前が最初の頃に思ってたとおりで間違ってないけどな」
後腐れなくあっけらかんとそう言ったリバーを前にして、再びやるせなさが込み上げてきた。
俺は神妙な心持ちになって、目の前の相手を――この人こそ自分の師範と決めた元戦闘機乗りを見つめた。
「……先輩のようなリーダーがいなくなるなんて、俺、ほんとに残念です」
「俺がいなくたって――」
リバーはその眼差しを強くして俺の目をしっかり捉え、続けた。
「自分が理想とするリーダーに、お前自身がなればいいんだよ」
そう言って、俺の肩口を力強く叩いた。
「期待してるからな! 頑張れよ!」
「はいっ!」
いつかまた会った時には、先輩の前で自信を持って堂々と胸を張れる立派なリーダーになっています。必ずや、なってみせます!――その思いを気迫に込めて、俺はきっぱりと頷いた。
訓練を終えて帰投してくるF-15のエンジン音が、空気を震わせ微かに聞こえ始めていた。
最後のひとりまで挨拶を終えたリバーは、ふと顔を巡らせて隊舎横の梅の木に目を当てた。古い幹から伸びている緑がかった若い枝には、もうだいぶ花芽がふくらんでいた。その傍で、305の隊旗がはためいている。
リバーは再び顔を戻すと、ほんの束の間、見慣れた景色を惜しむように飛行場を見渡していた。滑走路の彼方には、細くたなびく雲が幾筋かかかり、朝日を受けてくっきりと陰影のついた筑波山の姿が見えていた。
一時の間を置いて、リバーは改めて皆に向き直った。踵を合わせて背筋を伸ばし、姿勢を正す。
「皆さん、今まで本当にお世話になりました!」
最後にそう声を張って敬礼したリバーに、俺たち飛行班員も全員、不動の姿勢を取って敬礼を返した。
そしてリバーは、皆に惜しまれながらこの305飛行隊を去っていった。
(第6章 了)