先輩の背中(1)
結局、事故からは2週間ほどでF-15の飛行停止はすべて解除された。その後は再び訓練と恒常業務に忙殺される日々が戻り、半月も過ぎる頃には飛行隊もこれまでどおりの落ち着きをすっかり取り戻していた。
第1回目で飛び終えた俺は、昼飯を食べた後に時間を見つけて駆け足に出た。着替えやウォーミングアップ、クールダウンを合わせてほんの1時間程度のことであっても、意識しないとなかなか時間を充てられないのだ。
進出・帰投フェーズから外れたこの時間帯はどの部隊の在空機もすべて空域に出払っているため、飛行場はいたって静かでのどかだった。
1周約8キロ弱ある基地の外周道路を、1キロ5分ペースで軽めに走っていく。
朝のウェザーブリーフィングで日本海沿岸は大雪に見舞われているという話が出ていたが、ここでは空は青く澄み渡って、悠然と浮かぶ大きな綿雲が直射日光を受けてその端を白く輝かせている。日差しは穏やかに降り注いでいるが、風が少しあり空気は冷たい。頬や鼻の頭が冷えているのが分かる。
冬枯れて白茶けた草地の中に延びるアスファルト敷きの小道を走りながら、しかし額や背中には心地よく汗が滲んできていた。柵の外に広がる雑木林の中からは、「ヒーヨ、ヒィーヨッ!」と何かの鳥の甲高い鳴き声が聞こえていた。
外柵横に並行して続く一般道を、1台の軽自動車がゆっくりと走ってきた。ちょうど幼稚園が終わる時間帯なのか、小さな男の子が園の制帽を被ったまま車の後ろの窓に顔をくっつけて基地の中を眺めていたが、通り過ぎながら柵越しに俺と目が合うと嬉しそうに手を振ってきた。俺も走るペースを緩めて笑顔で手を振り見送ってやる。
一時ほのぼのとした心地になった後、再び足を速めた。アスファルトを踏む規則的な足音を耳で追いながら、視界いっぱいに開けた広い空に目をやり、今日のフライトで起きた驚きの事態を思い返す。
訓練開始前のGウォーミングアップの時だった。初っ端、右旋回で緩く4Gをかけるよう指示して合図とともに機動を開始した途端、何を思ったか、ウイングマンが明後日の方向に回り始めたのだ。俺の位置からだとウイングマンの姿は機体の腹の陰になって見えない。しかし対空距離を示す計器の数値はみるみる上がっていく。
ボコの奴!――俺はウイングマンの信じ難いミスに呆れかえりながらも、気持ちを抑えて平静な声で呼びかけた。
「ボコ、俺が見えてるか?」
『えっ……い、いえ……』
俺が右手でボコが左手の位置から共に右に翼を傾ければ、ボコは当然俺の機体の腹が見えていなければならない。それが腹を向けあって反対方向に旋回を始めた訳だ。F-15のスピードは容赦なく互いの距離を十数キロ、数十キロと広げてゆく。
「お前、どっちに回ってる?」
『ひ……左旋回!』
「左じゃない、右って言っただろ!――もうお前はいいからまっすぐ飛んどけ、俺がそっち行く」
俺はボコを追いかけるために機首を翻しパワーを加えた。見当をつけたあたりの方角に視線を向けると、すぐに砂粒のような大きさのウイングマンの姿を見つけた。その斜め後ろの方から向かってゆく。
「ボコ、見えるか? お前から8時の方向だ」
『……いえっ……』
指示されたまま心もとなさそうに直進を続けているボコの機体は、米粒くらいの大きさで見えてきている。
「もう見えたか?」
『……み、見えません!』
かなり焦り気味の声が返ってくる。ミスに動揺している上に発見できないことに慌てふためき、空の中にアワアワと目を泳がせている様が手に取るように分かる。
俺は業を煮やしていったんボコの進路と平行になるように機首を振ると、バッと翼を90度傾け、広い背面をウイングマンのいる方向に向けた。
「ほら! 今度は見えたか?」
『あっ、見えました!』
――そんなこんなで再び編隊を組み直して仕切り直したものの、まだ見習いパイロットであるTRは本当に危なっかしい。訓練中に見当もつかないことをしでかしてくれたりする。操縦課程を修了してすぐであれば更に怖い。わざとミスをしてこちらを試そうとするウイングマン役の先輩教官よりも恐ろしい存在だ。
まあ確かに、俺も特にTRの頃は色々やらかしてきた。
能登半島沖の空域で小松基地の306飛行隊との合同訓練に参加した時、訓練を終えて帰投する際に自分の編隊長だと思ってくっついていったF-15が実は306の所属機だったなんていう、笑い話のようなとんでもない失態もあった。俺も怒られたが、その時に俺のリーダーだった先輩も後で飛行班長にこっぴどく指導されていた。
自分も相当な数の失敗談があるので偉そうなことは言えないのだが――今日みたいなことを実際の任務中にやられたら敵わねぇよなぁ……悠長に対処している余裕はないし、一瞬で崩壊した態勢を1秒でも素早く立て直すためにはどう対応したらいいんだろう……。
悠々と浮かぶ雲を苦々しく見上げつつ、頭の中で何度もシミュレーションを繰り返しながら、走るペースを崩さないよう足を繰り出し40分ほどかけて基地の外周道路を回った。
程よく汗をかいて隊舎地区に戻ってくると、正門通りに面した建物の裏にある305の隊員用駐車場に見覚えのある人影が目に入った。フライトスーツ姿のリバーだった。自分の車のトランクから缶コーヒーか何かの入った重そうなケースを取り出そうとしている。緩慢な動きで、腰を庇っているのが分かった。
俺は急いで駆け寄ると、リバーが持ち上げかけていた重い箱を横から取った。
「先輩、手伝いますよ」
「おお、イナゾーかぁ。助かるよ」
リバーは上半身を起こすと腰をさすった。俺はトランクの手前に用意されていた台車にケースを置きながらリバーを見上げた。
「でもリバーさん、まだ療養中でしたよね? リハビリがあるって……」
「ん? まあ、そうなんだけどな」
「無理しない方がいいですよ!」
「うん。でもフライトスーツを着ていられるうちに整備小隊の方には顔を出しておいた方がいいだろうと思ってな」
リバーはいつもののんびりとした笑みを浮かべてそう言う。
その言葉に俺ははっとした。
腰を痛めて航空身体検査をパスできなくなったリバーは、もう少ししたら操縦資格の取り消しと職種転換の辞令を受けることになっているはずだった。そうなればウイングマークは返納し、フライトスーツに袖を通すことはなくなる。一般隊員と同じ作業服を着たリバーを目にしたら、整備小隊の隊員たちはどう感じるだろうか。整備ミスでない事ははっきりしたとはいえ、自分たちが整備していた機の墜落事故によってひとりのパイロットが潰れてしまったことを改めて痛感して、重苦しい気分になることだろう。隊員たちの士気も下がるに違いない。リバーはそれを憂慮して、今のうちにこれまでと変わらない姿で顔を見せておこうと考えたのだ。
――リバーは凄い。
ごく自然にそう思った――自分が同じ状況に陥ってウイングマークを失うという時、ここまで広く周りが見えるだろうか。周囲の人間に気を遣うことができるだろうか。部隊の士気のことまで考えが及ぶだろうか。
缶ジュースや缶コーヒーの入った箱を幾つも載せた台車を押しつつ、俺はリバーのゆっくりとした歩調に合わせながら隣の先輩を盗み見た。リバーは気負ったようなそぶりもなく、今までと同じように屈託のない様子で格納庫に向かっている。
こういうリーダーになりたい――心からそう思った――フライトの技術だけでなく、上空にいる時だけでなく、いつどんな状況にあっても幅広く物事を捉えてその場に合った最善の判断を下せるリーダーになりたい。そして自分に関わる人たちの思いを受け止め、彼らに敬意と愛情を持って応えられる人間になりたい。
ジッパーがいつか言っていた「リバーの凄さ」というのはこういうことだったのかもしれないと、今、ようやく理解できた気がした。
「――さっきな、救難隊の方にもジュース持って挨拶に行ってきたんだよ」
明るい日差しに識別帽の下で目を細めながら、リバーがおもむろに口を開いた。
「俺を拾いに来てくれた救難ヘリのパイロット、比江島2尉って言ってたけど知ってるか? お前と期別が近いのかな」
「比江島だったら同期です。手遅れになる前に見つけられて良かったと言っていました」
後になってたまたま独身幹部宿舎で顔を合わせた時、比江島は「夜間だし風が強くて波も高かったから、発見に手間取るんじゃないかと正直かなり焦ったよ」と言いながらも、心底から任務達成の喜びを嚙みしめているようだった。
そのことを話すと、リバーはしみじみとした調子で頷いた。
「ありがたいよな。海に落ちて水の冷たさを感じた時には、さすがにもう駄目かと思ったもんなぁ。普段は全然意識したことがなかったけど、彼らがいてくれるからこそ俺たちは心配もなく飛べるんだよな」
路面の凹凸にゴトゴトと音を立てる台車を押しながら、実感のこもった先輩の言葉に俺も頷く。
リバーの救助に携わった同期が誇らしかった。そして事故当時、半ば茫然となりながら帰投する俺と入れ違いに現場に向かっていった救難隊クルーの迅速さを思い返すと、頼もしい彼らの存在を背中いっぱいに感じるようだった。
やがてリバーと俺は整備小隊の待機室前まで来ると、午後の日差しを受けているドアを開いた。