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待つ者と赴く者(2)

 ひと言挨拶をしてから帰ろうとそちらに足を向けると、俺に気づいた聡子さんは笑みを浮かべて会釈をよこした。


「今日はわざわざ来てくださって、どうもありがとうございました」


 そう言いながら丁寧にお辞儀をすると雪のよけられた駐車場に一度視線をやり、「お車でここまで……?」と、またこちらに目を向ける。

 俺は首を横に振って答えた。


「いえ、久々の雪道なので、無難に電車で来ました」

「じゃあきっと随分時間がかかりましたよね――」


 当たり障りのない会話を交わしつつ、少し離れたところで雪遊びをしている子どもたちを見やる。

 勇太郎君と希美ちゃんは手袋もなしに植木にこんもりと積もった雪をわざと散らせたり、「冷たい! 冷たい!」とはしゃぎながら握り固めて雪玉にしたりして遊んでいる。


 俺は再び顔を戻すと、控えめに話を振った。


「――ご主人の事故のこと、驚かれたでしょうね」


 聡子さんは苦笑まじりに小さく頷いた。


「常日頃、そういう覚悟は持っていたつもりでしたけど……実際に連絡をもらった時にはショックで頭が真っ白になって。本当に倒れるかと思いました」


 それでも、話によると、部隊から事故の連絡を受けて駆けつけた隊長と同期の奥さん二人を自宅に迎え入れた聡子さんは、蒼白な面持ちながらも一切取り乱すことなく気丈に振舞っていたという。


 改めて見ると、穏やかで朗らかな表情は以前と変わっていなかったが、やはり少しやつれた感じを受けた。事故があってからの心労は想像に難くない。


「――リバーさんは大丈夫ですか……? もう飛べないって……」


 恐る恐る訊ねた俺に、聡子さんは頷いた。


「本人なりに気持ちを整理しようとしている部分はあるみたいです。やっぱり、今までまっしぐらになって打ち込んできたことですから……。でも――正直なところ、飛行機を降りることになって私はほっとしているんです」


 向こうで遊ぶ子どもたちの姿を目で追っていた聡子さんは、俺の顔を見ると若干の後ろめたさが覗く微笑を浮かべて静かに続けた。


「結婚してから今までずっと、基地から聞こえてくるエンジンの音をいつも頭の隅で気にしてました。夕方や夜になってその音が途絶えて、電話のベルも鳴らなかった――時計を見て、ああ、今日も無事に訓練が終わったんだ、ってようやく安心して……そういう毎日でした。でもこれからはもう、そんな心配をしなくていいんですから」


 希美ちゃんが雪を蹴散らしながら向こうから駆けてきた。「こんなに真っ赤になっちゃった!」と楽しそうに小さな手のひらをいっぱいに開き、雪の冷たさに赤くなった指を母親に見せると、またすぐにくるりと背を向けて兄の元に走っていった。

 その姿を微笑んで見送ると、聡子さんはためらいがちに再び口を開いた。


「結婚する時にね、主人から言われたんです。『俺がもし万が一、民間人を巻き込む事故を起こした時には、きっとマスコミが家に押し寄せてくるだろう。さんざん叩かれることになると思う。巻き添えになった被害者の方やその家族にも、土下座して謝らないといけないと思う。でももしその事故で俺が死んだとしたら、その時には申し訳ないけれど、俺の代わりにお前に頭を下げてもらわなくちゃならない。もちろん俺は飛行機事故で死ぬつもりはないし、万一の時でも民間人を巻き込むような真似をするつもりもない。お前をマスコミの矢面(やおもて)に立たせるような目に遭わせるつもりもまったくないけれど、それでも、どうにもならないことがある。だからそういう覚悟だけは持っておいてくれ』って」


 俺は子どもたちに目をやっている聡子さんの横顔を見つめた。


 そんなことまで、自衛隊のパイロットの妻は心しておかなければならないのか――自分の伴侶が突然死んで茫然自失となっている時に、公衆の面前で自分の夫の非を口に出して謝罪しなければならないのだ――たとえ、夫が死の瞬間まで必死の努力を続けていたと固く信じていても……。


 極限の状況に陥った場合、自分が助かる可能性が残っていたとしても、それを捨てても国民へ被害を及ぼさないよう最大限の努力をする――自衛隊のパイロットなら誰でもそうだ。俺たちはそう教育されてきたし、それが自分たちの使命だと思っている。


 しかし、万が一にも民間人に被害が出た場合、世間は加害者となったパイロットとその遺族に寛容であることはないだろう。そしてマスコミは謝罪の言葉を引き出そうと、俯く遺族に何本ものマイクを突きつけ、憔悴した顔の間近でカメラを回し続けることだろう。


 そういう事態をも含めて後を託される妻――『伴侶はしっかり選ぶんだぞ』と飲みの席で言っていたリバーの言葉は、深い意味があったのだ……。


 聡子さんは再び静かに言葉を続けた。


「マスコミ云々の話は別にしても、やっぱり民間の人を巻き添えにすることはして欲しくない。国民を守る仕事に就いている以上、たとえ自分が生き残る余地があったとしても、それを投げ打ってでも一般の人に犠牲が出ないように最後の最後まで最善の努力をするべきものだと思います。主人はもちろんその覚悟を持ってやってきましたし、私も、それは理解した上で支えてきました。でもね……そう思いながらも、やっぱりどんな事態になったって自分の夫には生きていてほしいと思うものなんです」


 如何(いかん)ともしがたいやるせなさを感じさせる笑みを口元に残しながら穏やかに話す聡子さんの目には、うっすらと涙が浮かんでいた。


 俺ははっとして目を逸らし、無言のまま頷いた。

 「たとえどんなことになろうと、自分の夫には生きていてほしい」――当然の感情だ。誰だって、どんな立派な大義があろうと、最愛の人に死んでほしくはない。


 「危なくなったらすぐに逃げて」――そう言いたいのを押し殺して、大切な人を送り出す。パイロットの妻だけではない、自衛官の妻だったら――他人の命を守ることを使命としている者の家族であったら、誰しもきっとそうだろう。


 母親や妹のことが思い浮かんだ。

 帰省して数日を過ごし百里に戻る日、ふたりは俺と別れる間際まで「気をつけて。とにかく無事で」と念じるように繰り返していた。その時にはたいして気にも留めなかったが、母親も妹も、無事を祈りつつ待つことしかできない者として、その言葉に精一杯の気持ちを込めていたのだろう。


 残される者はここまでの思いで待っているんだ――出かけてゆく者の身を案じて、その帰りを待ちながら無事であってくれることを祈っているんだ……。


 何だか自分まで涙が出そうになって、俺は駐車場をゆっくりと行き来する車に目を当てるふりをしてさりげなく顔を背けた。


 彼らの想いに対して俺たちができることは一体何だろうか……「必ず戻ってくるから」という気休めの口約束はできない。どうあがいてもどうにもならない時もあるからだ。

 だからせめて、危機的な状況に陥ってもできうる限りの努力で地上に戻ろうとすること、最後まで生きるための努力を諦めないこと――それが、待つ者に対して自分たちが示すことのできる精一杯の姿勢なのかもしれない。


 そう強く思うと同時に、聡子さんの話に救われた気がした。心のどこかにずっと引っかかっていたマルコの件のわだかまりが、ようやく溶けて落ちていったようだった。


 子どもたちは向こうで無邪気に声を上げながら、小さな雪だるまをたくさん作っては花壇の縁に並べている。「これ、パパのところに持ってって見せてあげよーっと!」と、勇太郎君がそのうちのひとつに葉っぱや小枝で念入りに飾り付けをしながら嬉しそうに言っている。


 その様子に温かな眼差しを注いでいる聡子さんに向き直ると、俺は深々と頭を下げた。


「お話を聞かせていただいて、ありがとうございました」


 聡子さんは少しだけ不思議そうな顔をして俺を見たが、すぐに穏やかな笑顔になって「こちらこそ、わざわざ主人を見舞ってくださってありがとうございました」と会釈した。


 聡子さんと別れて病院を後にし、歩道の雪を踏みつつ駅へと向かう道すがら、夕暮れ近くなった陽を眩しく眺めながら思う――また明後日からも精一杯頑張ろう。一日一日、悔いを残さないよう全力で取り組もう。それがきっと、自分自身に対しても、この身の無事を案じてくれる家族に対しても、自分ができる最大限のことなのだから……。




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