待つ者と赴く者(1)
車窓から見える空は抜けるように澄み渡り、一点の雲もなく晴れ渡っていた。
屋根に雪を乗せた家々が視界に入ってきては飛び去ってゆく。沿線の畑は一面の雪野原となり、杉林は重そうに雪を被っている。葉を落として今は枝ばかりとなった雑木林の中にもしっかり雪が積もっているのが見て取れた。しかし、目にする景色は青空と陽の光の中で、雪が降りしきる夜の重苦しさからようやく抜け出たようにこざっぱりとして見えた。
俺は途中の洋菓子屋で買った菓子折りの入った紙袋を持ち、ひとりで電車に揺られながら窓の外に広がる風景を眺めていた。
墜落事故があってから初めて迎えた土曜日の今日、リバーを見舞うために土浦に向かっていた。前日に関東では珍しいくらいの大雪が降ったので、安全を期して雪道をバイクで行くのは諦め、時間はかかるがバスと電車を乗り継いで病院へと向かうことにしたのだった。
事故翌日の新聞の片隅には、『自衛隊機 鹿島灘沖に墜落 地上への被害なし』という見出しで数行の記事が載っていただけだった。民間に被害が及ばず死傷者も出なかったためか、テレビのニュースでもごくあっさりと取り上げられて終わりになった。
緊急脱出したリバーは、1時間としないうちに救難隊によって救助された。しかし、極寒の洋上を海水に漬かったまま漂流していたために、発見された時には既に低体温で意識のない状態だったという。すぐさま衛生隊の救急車で県南東部地域の救急医療中核病院となっている土浦の総合病院に搬送され、そのまま集中治療室に入院となったのだ。
土曜の午後だったが、見舞客なのか比較的人気の多いロビーを通って総合カウンターに寄り、受付でリバーの病室を訊ねた。教えられたのは整形外科の病棟だった。
どうも病院の雰囲気というものには馴染めない。考えてみればもう何年も大した病気にかかったことがなく、風邪くらいであれば衛生隊で薬をもらって間に合わせていたので、病院は縁遠い場所だった。
きれいにワックスはかけられているものの、築年数を感じさせる古びたリノリウム張りの廊下をひたひたと歩きながら、どことなくよそよそしく感じられる空気に若干の気後れを覚えつつエレベーターで病棟に上がる。色あせた造花が申し訳程度に飾られたナースステーションで面会簿に記名してから病室を探した。入り口のネームプレートをひとつひとつ確認していくと、廊下の突きあたりにある6人部屋に「利根正俊」とペンで書かれているものを見つけた。一番奥のベッドのようだった。
遠慮がちに病室に入っていくと、面会時間のためか仕切りのカーテンが引かれているベッドが多く、中から小声でぼそぼそと話し声が聞こえていたりした。開けっ放しになっているベッドの上では、胡麻塩頭の老人がイヤホンでラジオを聴きながら競馬新聞を熱心に読んでいた。
リバーのベッドのカーテンも閉じられていた。中から聞き覚えのある子どもの笑い声が聞こえている。
「失礼します……利根先輩、稲津です」
カーテン越しに控えめに声をかけると、さっと布地が開かれて聡子さんが顔を見せた。その向こうで、「あっ! 見たことあるおじちゃんだ!」と希美ちゃんが声を上げ、勇太郎君は突然の来客にびっくりした顔をしていたが、すぐに「こんにちは!」と人懐っこく元気な挨拶をよこした。
「おお、イナゾー。わざわざ来てくれたのか」
リバーは上半身の方を少し起こしたベッドに凭れて横になっていたが、俺を見るとゆったりとした笑顔になった。
その様子を目にして初めて、俺はほっと安堵した。先に見舞いに行った隊長や班長から元気そうだという話は聞いていたものの、実際に自分の目で確かめないことにはどうにも落ち着かなかった。意識不明で運び込まれたということで心配していたが、今までと同じ柔和な笑みにようやく胸を撫でおろした。
聡子さんに勧められて椅子に腰を下ろす。
「悪いな、寝たままで」
「いえ、突然お邪魔してすみません。どうぞ楽にしていてください――これ、少しですが。病院ではさすがに飲酒禁止だろうと思って、菓子にしました」
俺はそう言って、脇にいる聡子さんに紙袋を差し出した。申し訳なさそうな顔でリバーが言う。
「わざわざすまんなぁ」
「すみません、気を遣っていただいて……」
恐縮して受け取る聡子さんの横で、「お菓子!?」と声を上げた勇太郎君と希美ちゃんの目が菓子箱に釘付けになっている。リバーはそんな二人に苦笑して、「いいか?」と俺に断ってから聡子さんに言って包みを開けさせた。利根兄妹は小さなおでこをくっつけるようにして箱を覗きこんだまま、何種類ものパウンドケーキに目移りしてなかなか選べない。
「これと、これとぉ……」
あれもこれもと手を出そうとする妹に、「今はひとつだけだよ!」と勇太郎君が長男らしく注意する。
「じゃあこれ!」
ようやく希美ちゃんが選んだ一袋を見て、聡子さんが言葉を挟んだ。
「それはちょっとお酒が入ってるかもよ?」
「お酒ぇ? お酒のだったらパパどうぞ!」
当然のように差し出された洋酒入りの一切れの袋を、リバーは「ありがと」と苦笑して受け取った。
「ふたりともおいで。ジュース買ってあげるから、ラウンジでいただこうか」
菓子を手に早く食べたくて仕方がない様子の子どもたちを聡子さんが促す。気を利かせて席を外すつもりなのが分かった。
聡子さんは「どうぞごゆっくり」と俺に会釈すると、勇太郎君と希美ちゃんを伴ってカーテンの外に出て行った。
「――いやあ、真冬の太平洋はさすがに冷たかったよ」
リバーは手を伸ばして希美ちゃんから渡された菓子をとりあえず脇のキャビネットの上に置くと、しみじみと言って俺に苦笑いを向けた。
「先輩……ほんとに無事で何よりでした」
俺が改めてまじまじとリバーを見つめて真顔でそう言うと、リバーは申し訳なさそうに笑った。
「心配かけたなぁ……。俺もな、ベイルアウトして海に落ちてから、これはもう駄目かと覚悟してな――腰や背中も痛くて参ったけど、とにかく寒くてなぁ。波はザバザバかかってくるし、体半分は海に漬かったままだし、耐水服を着てても凍死するかと思ったよ」
痛みで思うように動けず、それでも死に物狂いで救命浮舟を引き寄せたものの、這い上がることすらできずに荒波に揉まれながらただ必死にしがみついていたのだと言った。
「リバーさん、腰を……?」
思わず眉を寄せて口ごもるように訊ねた俺に、リバーは頷いた。
「椎間板を幾つか潰したらしい。簡単に言うと酷いヘルニアの状態だったそうだ。手術は成功したらしいし、リハビリすれば日常生活は問題ないみたいけど、もう飛ぶのは無理だろうなぁ。Gに耐えられないだろうし、そもそも航身検に通らないだろうから」
俺たちは年に1度必ず、航空身体検査という詳細な健康診断を受ける。航空機の操縦者に求められる基準が満たせなければ操縦資格は取り消しとなるのだ。
「じゃあ……」
「うん」
俺が言いよどんだ次の言葉を受けたように、リバーは穏やかな顔で続けた。
「飛行機を下りたら、今までの部隊運用の知識も生かせる情報職種にでも就こうかと思ってな。地上勤務に勤しむよ」
ベイルアウトして生還したパイロットで、その後も飛行機に乗っていられる人間は少ないと言われている。後遺症が残ったとしても生きて戻れたのなら御の字と言うくらいなのだ。
パイロット免――操縦資格の取り消しを自覚している先輩に、俺は掛ける言葉もなく黙り込んだ。
リバーがふと真面目な表情になる。
「整備小隊の方、雰囲気はどうだ?」
「そこまで暗く沈んでいる訳じゃないですけど……」
空幕から事故調査官が来て色々と調べている最中だが、ヒューマンエラーではなく機体の製造過程に原因があった可能性があるという結論に落ち着く見通しを耳にしていた。墜落したのは製造されて半年ほどの新造機で、それと同じ時期以降に作られた全機に再発防止処置がとられた後、近いうちにF-15の飛行停止は解除されるだろうということだった。
「でも結果的に機体を失う事態にまでなったわけですから、事故の原因が整備ミスではなかったとしても、やっぱり単純には喜べないでしょうね」
「まあそうだろうなぁ……」
リバーも難しい顔をして唸った。
墜落した機体を受け持っていた機付長が皆川3曹だった。自分の担当機が火を噴いて墜落したという一報を受けた彼は、真っ青になって言葉もなく茫然と立ち尽くすばかりだったという。休日を潰してまで機体にワックス掛けするほど愛情を注ぎ、丹精込めて熱心に整備作業に勤しんでいたほどだ。愛機が不具合を起こして墜落、パイロットが緊急脱出という事態にどれほど衝撃を受けたことだろう。
その時の彼の心情を想像し、更に、大騒ぎとなっていた飛行班の様子を思い出し、そしてあの時の自分の状況を思い返してつい溜息が出た。
「――リバーさん、俺、自分が情けなくて」
ベッド脇の小さなキャビネットの上に置かれた幾つもの花籠や、勇太郎君と希美ちゃんが作ったのだろう拙い作りの折り鶴に目をやりながら、思わず呟いた。
リバーが怪訝そうに俺を見る。
「どうして」
「……あの時、自分はリバーさんよりずっと泡食っちゃって。後から考えると、緊急事態をかけたリバーさんの方がよっぽど落ち着いてたと思って。リーダーを目指しているのに、あんなんじゃあもう……自分が情けなくて仕方ないです」
肩を落として力なくそう告白した俺に、リバーは笑みを滲ませた目を向けた。
「実はな、俺だって相当焦ったよ――煙はもうもうと立ち込めるし、計器は読めなくなってくるし。でもな、お前のお陰で平静に戻れたんだ」
「……え?」
「お前が後ろで慌てふためいてるのが分かったからな。SF映画の黒い悪役みたいにスーハースーハー言ってるのが無線から聞こえてきたからさ。『俺がしっかりしなくちゃならん』って思った途端、腹が座って冷静になれたよ。お前のお陰だ」
そう冗談めかして言う。
操縦課程の学生のように息の上がったみっともない真似をしてしまったことに、今更ながら恥ずかしくなって俺は赤くなった。
リバーは真面目な面持ちに戻ると諭すように続けた。
「いいか、イナゾー。リーダーだって人間なんだ、いついかなる時も冷静沈着に対処できるわけなんてないんだからな。気張ったってしょうがない。焦って当然、迷って当然だ。もちろん、訓練中でも実戦でも、不測の事態に出くわした時にいかに素早く腹を決め、冷静になれるか――それは重要なことだし、それができるようになるために、しっかりやろうという意識を持って目標目指して努力することは当然だ。でも最初から完璧を求めなくていい。冷静な判断力っていうのはな、とにかく経験の量の差なんだ。試行錯誤しながらも意識して続けていれば、判断力や対処能力は経験を積むうちに身についてくる。だから今すぐに自分が理想とすることができないからといって焦るな。ひとつひとつ地道に確実に積み上げていけばいい」
地道に、確実に――俺はリバーの言葉を噛みしめるように胸の内で繰り返した――そう。それしかできることはないのだ。なかなか理想に近づけないと焦ったところで前進するわけじゃない。ひとつひとつ、失敗と自省を繰り返しながら僅かずつでも向上を信じてやっていくしかないのだ……。
結局、見舞いに行った俺は逆に励まされ、先輩の元を辞した。
リバーの元気そうで前向きな様子には安心したものの、もう操縦者としてはやっていけないという事実に幾許かの暗澹とした気持ちを抱えて病院の玄関口へと向かった。飛べなくなったと同時に心の支えも失い、失意のうちに自衛隊を去っていったマルコのことが頭を過ぎり、なおさら気分が沈むようだった。
駅へ向かおうとしてエントランスホールを出る。午後3時を過ぎ、日は既に傾き始め、低いところから斜めに差してくる陽の光が夕方の気配を漂わせている。
ふと、本館脇の救急搬入口の横にある植え込みのあたりで遊んでいる子どもの姿が目に入った。少し離れたところで母親がその様子を見守っている。聡子さんだった。