コクピット・スモーク(1)
月明りのない真っ暗な夜空は強い北風のためにいつにも増して澄み渡り、大小様々な粒のような星が頭上一面に鋭く瞬いていた。眼下の太平洋は空との際が分からないほど暗く、ところどころにぽつぽつと浮かんだ漁火の白い光が星のように見えていた。
鹿島灘沖の空域で夜間要撃訓練を4セットほど繰り返してそのピリオドでの課目を終えた後、俺は基地に帰投するためにウイングマンである教官のリバーを伴って洋上を西へと進んでいた。
前方には緩やかな海岸線が続く鹿島浦から始まる陸地があるはずだが、今は空や海と同化したように黒々として見分けがつかない。それでも左手の方向に一か所だけ煌々と輝いている場所があった。臨海工業地帯のコンビナート地区だ。まだ夜の8時を回っていないが、この後も工場群は昼夜の別なく24時間体制で稼働し続けるのだろう。
視程がいいので百里進入管制の誘導をキャンセルし、目視と航法機器を頼りに基地への進入ポイントを目指す。
いつもと変わらぬ手順で帰投、着陸し、訓練は終了――そのつもりだった。
沿岸部を目前にして、リーダーの俺に黙ってついてきていたリバーが突然飛行指揮所を呼び出した。
『オペラ、エンジョイ20』
『こちらオペラ、どうぞ』
リバーの呼び出しに、飛行指揮所の運用幹部がすぐさま応じる。このピリオドでDOを務めているのはジッパーだった。
常と変わらない声でリバーが続ける。
『マイナートラブル発生。マスターコーションライト瞬時点灯』
『他にも異常は見られるか』
『計器を確認中――現在のところ異常なし。引き続き基地に向かう』
最も目に入りやすい正面の計器パネルにあるマスターコーションライトはコクピットの右サイドに並ぶ警報ランプが灯ると同時に点灯し、不具合箇所への注意を促す。ちょっとした拍子に作動して瞬時点灯となることもままあるので、俺はリバーの報告にそこまで差し迫った危機感を抱くこともなく、ただ一応、幾分注意を払いつつ帰投した方がいいだろうと考えた程度だった。
それは地上で報告を受けたジッパーも同様のようだった。
『オペラ了解。状況に変化があれば再度報告せよ』
『20了解――』
リバーはいったん交信を切りかけ、またすぐに声を発した。
『スタンバイ……燃料計の針に異常な振れ――コクピット内にわずかに煙を確認。エマーをかける』
事態が急変した。続けざまにリバーは緊急無線周波数で緊急事態を宣言する。
『エマージェンシー、エマージェンシー。エンジョイ20、コクピット・スモーク。現在地、百里タカンより方位080、15マイル――』
無線越しに聞こえるリバーの声と息遣いが強くなった。マスクに送られてくる酸素の濃度と圧力を上げ、マスクの中に入った煙を押し出したのだろう。圧を上げると息を吸うのは楽にできるが、吐く時には意識して押し出す必要が出てくる。
『リバー、他に異常は』
飛行指揮所から隊長の声で無線が入る。
リバーは圧の高まった供給酸素のために言葉を発しづらいに違いなかったが、早口で端的に応答した。
『今現在、特になし――コクピット内への煙の流入は止まらず。いったん訓練空域に戻ってキャノピーを投棄する』
『了解した。イナゾー、リバーをフォローしろ』
「はい!」
既に海岸線は過ぎ越し、内陸に入っていた。
翼を翻して再び沖合を目指し始めたリバーに続き、その斜め後ろ上空について追随を始めた俺は、視線の先に見慣れないものを見た気がして目を瞠った――リバー機の背に、時折ちらちらと光るものが見え隠れしている。
俺は目を凝らしてその一点を注視した――何だあれは――あれは……。
一瞬息を呑み、すぐさま無線のスイッチを押し込んで叫んだ。
「リバー! 機体の背に炎が見えます!」
今や状況は一変した。
『リバー、手遅れになる前に緊急脱出しろ!』
隊長からの指示を受けるまでもなく、リバー自身ももはや帰投は困難と即断したようだった。
『イナゾー、安全な距離を取って、漁船がいない場所に誘導してくれ。煙で遠目が利かない』
俺はすぐさま海上に目を走らせた。遥か下の海面には点々と漁火が見えている。その中で、光もなくぽっかり空いた直線状の真っ暗な場所を見つけた。
「2時方向! 直進コース上に船はいません!」
『了解――イナゾー、お前はもう基地に戻れ。燃料が少ないはずだ』
リバーの言葉どおり、コクピットの中では「ビンゴ・フューエル」と注意を促す音声が少し前から繰り返し流れている。
しかし危機的事態にある僚機を置き去りにして帰るのは……そう思って思わず返答をためらった俺の気配を感じ取ったのか、リバーが苦笑を漏らしたのが無線越しに伝わってきた。
『いいからとにかく落ち着いて戻れよ。救難隊に追加で手間をかけさせたくないからな』
リバーにこれ以上貴重な時間を無駄にさせるわけにはいかない――俺は呻くように了解を告げ、操縦桿を倒して針路を反転した。
リバー機から遠ざかってゆきながら、コクピットの中で上半身をめいっぱいねじって機影を見失うまいと目を凝らす。新月の暗闇の中、翼端で光るストロボライトや衝突防止灯の間で燃え盛っている炎が彼方に見えていた。風に激しく煽られてF-15の背面を撫でるように燃えている炎は、次第に火勢を強め範囲を広げていた。その存在は異様で不気味でしかない。
『イナゾー、離れたな?』
「はい!」
俺の返事と同時に、不思議なほど冷静なリバーの声が無線に入った。
『20、ベイルアウト』
機体外部の灯火の位置から、リバーが機首を若干上向かせたのが分かった――と、微かな光が一瞬閃いた。脱出操作で作動した火薬の爆発はキャノピーを吹き飛ばし、パイロットごと座席を射出させたはずだ。
「オペラ、19。ベイルアウト時の発火の光を確認――」
状況を報告する自分の声はみっともないほど震えていた。何度も操縦桿を握りなおす。手袋の中で手のひらがぐっしょりと汗ばみ、額にも嫌な汗が滲んでいるのを感じた。
大丈夫――あんなに落ち着いていたんだ、リバーならきっと大丈夫なはずだ。とにかく無事であってほしい――。
機体の姿は既に闇に紛れて視認できなくなっていたが、距離があっても辛うじてまだ見える炎の光でどうにかその位置を知ることができた。パイロットを失った機は急激に高度を落としてゆく。
俺は息を殺してその一点を凝視し続けた。
唐突に、黒々とした洋上に凄まじい勢いで火柱が上がった。その周囲がぱっと発光したように明るく輝く。
激しく飛び散る水しぶき、爆発的に沸き立つ水蒸気、そしてきのこ雲のように立ちのぼる黒煙――あってはならない、あまりに禍々しい光景が視線の先に照らし出されていた。
全身の毛がぞっと逆立つ。俺は振り返ったままそこから目を離すことができなかった。
「――オペラ、機体は海面に墜落し炎上……」
あまりのことに喘ぎながらようやく声を絞り出す。
ヘルメット内のスピーカから隊長の声が聞こえてきた。
『イナゾー、パラシュートの開傘は目視できたか?』
「距離が――距離がありすぎて開傘までは分かりませんでした」
『了解した。今、救難隊が向かっている。お前は気をつけて戻ってこい』
飛行指揮所からの指示に続き、ラプコンの管制官が強張った声音で、俺と入れ違いに墜落現場に向かうU-125捜索機とその後に続く救難ヘリUH-60の位置情報を伝えていた。