モッちゃんの結婚考
夜間飛行訓練が計画されていないこの日、俺は1回目と3回目のピリオドで飛んで一日のフライトを終えた。
終礼は5時近くから始まり、途中、課業終了と国旗降下を知らせるラッパ吹奏を飛行班員全員で直立不動の姿勢を取って迎えた。伝達事項などの周知が済むととりあえず解散となり、俺はすぐその足で食堂へと急いだ。
休暇を終えて職場に戻ったその日から、今までどおりの忙しないスケジュールに追い立てられる日々が続いていた。既に部隊は通常運用で動いており、年明けらしい気配は当然のことながらきれいさっぱり拭い取られていた。
飛行隊にも正月が訪れていたことを辛うじて窺わせる唯一のものと言えば、オペレーションルームに祀られている三社造りの神棚の前に渡された真新しい注連縄と紙垂、そして、くすんだところのまったくない初々しい木肌の神札くらいだった。
駐輪場に止めてある隊の自転車を借用して正門通りに出る。日没の早い冬場のこの時間、辺りは既に夜と同じように真っ暗だ。
見ると、飛行隊の建物横にある整備格納庫の扉が広く開け放たれていた。中で灯されている水銀灯の光が通りの一角を明るく照らしている。
そこから牽引車に引かれたF-15がゆっくりと出てくるところだった。誘導係の隊員が「ピピーッ! ピピーッ!」と警笛を切れ良く鳴らして通行の先払いをする中、コクピットにひとり、翼の両脇にひとりずつ監視の隊員を置き、通りを横切って検査隊の格納庫の方へと移動してゆく。定期検査に入る機体なのだろう。大通りで道幅は広いのだが、横幅のあるその巨体はいかにも窮屈そうに動いているように見える。
いったん自転車を止め、機体が通り過ぎるのを待つ。凍てついた風に身を竦ませながら何気なく見上げた夜空はぼんやりとした薄墨色の雲に一面覆われていた。朝のブリーフィングでは夜遅くから天気が崩れて雨になるという予報だったが、見込みよりも若干早い降り始めになりそうだった。
ドック行きのF-15を見送ってから、改めて幹部食堂へと直行した。暖房の効いた食堂でのんびり寛ぐこともせず、いつものように10分とかからず夕飯を掻き込み、とんぼ返りで飛行班に戻ってくる。吹きつける木枯らしにかじかんだ両手をこすり合わせながら建物に入ると、俺は廊下の壁に並んだ帽子掛けに識別帽を手早くひっかけ、そのままラウンジに飛び込んだ。
既に終礼は終わりナイトもないので、コーヒーメーカーはきれいに片づけられていた。インスタントコーヒーの瓶を手に取る。このあと夜遅くまでまたブリーフィングや翌日のフライトの準備にあたらなければならないため、砂糖とミルクをたっぷり入れた濃いコーヒーを飲んで充電しないといけない。
同僚たちがそれぞれに廊下を行き来し、すれ違いざま交わす言葉を聞くとはなしに耳にしながら、冷えた手でカップを包み誰もいないラウンジでひとり熱いコーヒーを啜っていると、モッちゃんが首筋を解すように揉みながら部屋に入ってきた。カップ置き場から自分のマグを取り、やはりインスタントコーヒーを大量に振り入れてポットのお湯をなみなみと注ぐと、ブラックのまま口をつけた。
「モッちゃん、ずいぶんお疲れって感じだけどまだ仕事?」
コーヒーを飲んでようやく人心地ついたように大きく息をついたモッちゃんに、横から声をかけてみる。
彼女は幾分しょぼしょぼした目で俺を見た。
「はい。飛行記録の集計が残っているので、とりあえず一服してからまた作業にあたろうと思って」
課業内は完全に頭がフライトに向いているのであまり意識することもないが、こういう寛いだ時に彼女の顔を見ると条件反射のようにアディーのことが思い浮かぶ。
酔っぱらったアディーからその本心を聞いたからには、同期としてぜひとも協力してやらなければなるまい。そのために、まず最初に行うべきはリサーチだ――俺は心の内で大きく頷くと、さっそく実行に移った。
「モッちゃんてさ、好みの男のタイプってどんなの?」
「随分とまた唐突ですねぇ」
彼女は目を瞬いて困惑したように顔をしかめたが、イラストタッチでブタの鼻と目だけが可愛らしく描かれた丸っこいカップを片手で撫でながら思案がちに答えた。
「やっぱり誠実で真面目な人がいいですね。堅実な人が」
「なるほど――職業とかは?」
「別に、特にこれがいいとかはありませんけど……」
「パイロットなんかは?」
「パイロット……自衛隊のですか?」
意外そうな顔をして俺を見る。そして、少し考えこむような様子になって続けた。
「パイロットが相手だと、結婚したらすごく大変そうですよね。転勤も多いから、その度に一緒の基地に異動させてもらうのも難しいでしょうし、そもそも空曹の立場で2年置きくらいで職場を変わっていたら中堅職としての役割が果たせなくなってきそうですし、そうなると受け入れ先の方でも扱いに困るでしょうし……」
話の口火を切ろうと思っただけだったが、一気に現実的な流れになってきてしまった。彼女の認識では「付き合う」イコール「結婚」になるんだろうか。しかしまあ、結婚も視野に入れて考えるなら実際の生活がどうなるのかという想像は大切だろう。
「やっぱりモッちゃんは結婚しても仕事を続けていきたいんだ?」
「そうですね……この仕事、すごく面白いですし、できれば定年まで続けていきたいと今は思ってます――でも女は結婚や出産なんかにどうしても左右される部分が大きいので、将来どうなるかは分かりませんけど……」
俺はどうしたらうまく話の方向を軌道修正してアディーの話題に持っていけるか、頭の片隅で考えあぐねつつ相槌を打った。
「それでもモッちゃんなら家庭のことも仕事もきっちりこなせそうだよね」
「いやいやぁ、難しいですよ――ほんと、難しいと思います。ひとつの基地に長くいられる空曹同士で結婚した女性自衛官の先輩を見ていても大変だと思うのに、転勤の多い幹部でしかもパイロットとかなんて……」
具体的に色々と思い浮かべることがあるのか、彼女は眉をひそめたままコーヒーを一口飲んだ。
「飛行管理の先輩でパイロットと職場結婚した人を知ってますけど、結局その先輩、旦那さんは三沢に単身で、自分は浜松にいて、子どもを保育園に預けてひとりで子育てしながら仕事を続けてるらしいです――そういう話を聞くと、私自身器用じゃないので仕事と家庭を両立してこなしていけるとはとても思えないんですよね……どっちも中途半端にするのは我慢できないと思いますし。そうなるとどうしても仕事を辞めるしかなくなってくるのかな――なんて考えたり……」
「確かに、俺たちみたいに転勤が多かったり拘束時間の長い相手と結婚すると、仕事を続けたいと思ってる場合は難しい部分が出てくるのかもなぁ……」
彼女の話を聴くうちに、自衛官として働く女性の実情についての講義か何かを受けている気分になってきて、俺は思わず唸ってしまった。
女性の社会進出だとか男女雇用機会均等法だとか言われるようになって久しい。自衛隊でも女性隊員にそれなりに配慮している部分もあるらしいが、勤務形態や職場環境の現状を考えると、結婚や出産後も働き続けるというのはまだまだ簡単ではないのかもしれない。
それにしても、これは思わぬところで躓いた。彼女の今の反応を見ただけでも前途多難の相が窺える。
ここまであれこれと厳しい現状を説かれたすぐ後にアディーを推すのも気が引けてくるが……。
いや、しかし!――思わず怯みそうになるところを、俺はぐっと踏みとどまった――確かにパイロットと一緒になると大変らしい。が、結婚してからのことは二人に任せよう。とにかく俺はまずアディーの良さをモッちゃんに知ってもらいたいんだ。ただの軟派なマダムキラーじゃない。だから一度あいつと付き合ってみてほしい……。
食い下がるような心持ちで、半ば強引に話を本筋に戻す。
「でもさ――もし相手がすごくいい奴だったとして、だけど自衛隊のパイロットだったら、モッちゃんはもう職業を聞いた時点で付き合うのやめる?」
「いえ別に、やっぱり一番大切なのはその人の中身だと思いますから――でもとにかくイナゾーさん」
彼女は目を細くして、しかめっ面になった。
「その、とんでもなく回りくどい話の進め方、やめてください。そんなこと言って、誰かいい男性でも紹介してくれるんですか?」
そう言いながらも、そんな話は端から期待していないとその顔にはあからさまに書いてある。
冷たい視線とともに予想外にズバッと切り込まれた俺は、ついまごついて口ごもってしまった。
「えっと、ああ、うん、紹介と言えば紹介かな――モッちゃんがまだフリーなら、アディーなんてどうかなー、なんて……」
気の利いたうまい言い回しを考える間もなくぼそぼそとそう言うと、彼女は呆れたように俺に目を当てた。
「私、ついさっき誠実で真面目で堅実な人がいいって話しませんでしたっけ?」
「いやモッちゃん!」
もうこうなったら情に訴えるしかない!
「あいつはへらへらしてるように見えて、実は中身はいい男なんだよ! 女の仇みたいに見えるかもしれないけど、本当はすごく思いやりのある奴だし、誠実だし、真面目なんだって! 何年も一緒にやってきて表も裏も見尽くしてきた同期の俺が保証する! 軟派な言動は仮の姿なんだ。モッちゃん、頼む、あいつを救ってやってくれ」
「ええっ!? どうしてそこで私が出てくる――」
「モッちゃんなら絶対にあいつを癒せると俺は信じてる!」
「ちょっと待ってください! 救うとか癒せるとか、そんな大袈裟な……」
彼女はそこではたと口を閉じると俺の背後に目を向け、さっと頬を赤らめた。
振り向くと、ラウンジに当のアディーが入ってきたところだった。ウインドブレーカー姿でタオルを首にかけているところを見ると、駆け足か筋トレから帰ってきたところなのだろう。髪は濡れていて、顔は風呂上がりのように血色良く上気している。つまり――妙に色っぽい雰囲気だった。さすがのモッちゃんも、今さっきまでの話と併さって動揺を隠しきれていない。
「いや、途中で雨が降り出してきて参ったよ。本降りにならないうちに戻ってこられてよかった」
アディーはそう言いながら冷蔵庫からスポーツ飲料を一本取り出し、扉に貼りつけてある名簿の自分の欄にひとつチェックを入れると、ボトルに口をつけてその中身を勢いよく喉に流し込んだ。そしてようやく俺とモッちゃんの様子に気づいて不思議そうな表情を見せる。
「何? どうかした?」
そして俺たちふたりに交互に目をやっていたが、「あっ、さては――」と俺の企みに気づいたように口を開きかけたので、俺は文句を言われる前にさっさと逃げ出すことにした。
「じゃあモッちゃん、とにかくよろしく!」
「ちょっとイナゾーさん! そんな勝手に……!」
慌てる声を背中で受け流し、二人を残してラウンジから飛び出す――果たして今ので彼女の母性本能にうまくアピールできただろうか……? でもこれで少しは彼女の意識がアディーに向かうに違いない。
他には誰もいない部屋で、今までとはちょっと違ったムードになって恥じらい気味に言葉を交わすモッちゃんとアディー――勝手に想像を逞しくして思わず緩みそうになる口元をどうにか抑えつつ、俺はコーヒーを片手にいそいそと自分のデスクに戻った。