帰省(5)
「昨日は随分酔っぱらった気がするよ。そんなに飲んだつもりはないんだけどな」
翌朝早く、牛たちはいつものように白い息を吐きながら柵の間から顔を出して餌を待っていた。
その前で、巨大なロール状にまとめられた牧草のフィルムをてきぱきと剝がしているアディーは、自分自身でもそこまで酔ったことが意外だったようでしきりに不思議がっていた。とは言え、飲みながら寝入ってしまうほどグダグダになっていた割にはすっきりした顔をしている。
俺の方がよっぽど寝不足気味だ。もう少し寝ていたかったところを、「今日はもう戻るんだから、最後くらい手伝わないと」と、この律儀な同期に無理やり起こされたのだった。眠気でまだ瞼がショボショボしている。
俺は牧草ロールを細断するために、大きなヘラのような形をした刃のあるヘイカッターの準備をしていたが、傍らで熊手を持って待ち構えているアディーがふと心もとなげに訊ねてきた。
「俺、なんか変なこと言ってなかったか?」
「ん? 別に何も」
俺は努めてさりげなく、さらりと答えた。
恐らく敢えて心がけているのだと思うが、何事にも拘りを持たないような穏やかな態度で日常を過ごしているアディーのことだ、いくら旧知の間柄とは言えど、俺に対して普段見せたことのない弱気な面を晒してしまったと分かったらばつが悪いだろう。だから俺は昨夜の話は聞かなかったことにしようと思った……が。
でもやはり、無意識の感情に気づくことはこいつのこれからの人生にとって意義深いことに違いない。
そう考えた俺は、甲高いモーター音を響き渡らせてバウムクーヘンのように密になった牧草の塊にカッターの刃を押し込みながら、何食わぬ顔を作って言い直した。
「特に変なことは言ってなかったよ。『実はモッちゃんと付き合いたい』っていうのは聞いたけど」
「嘘だろ!?」
ぎょっとしたように目を見開き、アディーはヘイカッターの駆動音に負けないくらいの大音声で叫んだ。さっきからカッターの騒々しい音に怖気づいていた近くの牛たちが、その大声で更に数歩後退る。
「嘘じゃないって。ほんとだよ」
「嘘だ……」
弱々しく反論しつつも、アディーは自分自身に裏切られたような顔をして額を押さえた。俺はいったんカッターを止めると、フォークの長い柄を握りしめて棒立ちになっている同期に向き直って真顔を作った。
「大丈夫だ、アディー。モッちゃんを信じろ」
重々しくそう言うと、アディーは不可解そうな顔になってまじまじと俺を見つめた。
母親と優美を手伝って朝の給餌や牛舎の掃除を終え、朝食まで済ませて細々としたことを片づけていると、空港に向かう時間はもう間もなくに迫ってきていた。予約してあるのはお昼少し前の便だが、空港には早めに着いておかないといけない。航空機での移動というのは搭乗前後が面倒なひと手間だ。
自分の部屋で荷造りをするうちに、意識はこの後また始まる百里での生活に向いてくる。畳んだジャージをスポーツバッグに詰めながら、思わず呟いてしまった。
「帰ってちょっとしたらまた仕事かぁ……。何か、航学の時と同じ気分だ」
溜め息混じりの言葉に、アディーも苦笑して同意する。
「日曜の夕方に、下宿から帰隊する時の感じだろ?」
「そう。同期たちとタクシーに乗り合って基地に帰る間にさ、田島山の上にある航空灯台の光がだんだん近づいてくんの。それが嫌でも目に入って、『ああ、また地獄の1週間が始まる……』ってどんどん憂鬱になってきてさ」
そう言うそばから、あの憎らしい航空灯台の姿が今でも目の前にありありと浮かんでくる。
航空学生課程から始まって、その後の飛行準備課程、初級操縦課程と3年以上を過ごした山口県の防府北基地。その敷地から一般の道路を挟んで向かいに鎮座する山の上に、飛行場の航空灯台が建てられていた。あたりが薄暗くなり、日没を迎えると白と緑の光がくるくると回り始める。休日に思いきり弾けて自由な時間を謳歌してきた俺たちに、基地内での抑圧された生活や厳しい訓練の再開を容赦なく知らしめてくれる忌々しい存在だった。
「何でも始まる前が嫌なんだよな。始まっちゃえば必死になって無我夢中なんだけどね」
アディーも荷物を整理しながらそう言い、ふたりして「ははは……」と力なく笑った。
ちょうどそこへ、開け放しにしていた部屋の襖をほとほとと叩く音がして母親が入ってきた。何やら袋や包みを手にしている。
「賢二、村上さんも、これなぁ……少しだけどお土産にさぁ。お菓子とかお酒のつまみとか入ってっから」
「悪いな、母ちゃん。気ぃ遣わなくていいのに」
「それから、こっちはなぁ……大したもんじゃないけども、途中で食べるようにと思ってなぁ。おにぎりと、唐揚げとか煮物とか」
そう言って、母親は包みを差し出した。タッパーか何かに入れてあるのだろう、折り目のついたきれいな絵柄の包装紙でくるんで、割り箸も2膳一緒に輪ゴムで止めてある。
そういえば――俺はまたふと思い出した――昔から母親はよく頂き物の菓子折りなんかの包装紙を丁寧に伸ばして取っておいていたっけ。
包みを手にすると、まだほんのり温かかった。
列車に乗っての長旅という訳ではないし、腹が減れば途中のコンビニやファミレスにでも寄っていくらでも腹は満たせる。むしろ弁当をもらってもどこで食べようか困るくらいだが、また家を離れる息子への親なりの心遣いなのだろう――そう思って、俺はありがたく受け取った。
なんだかんだとやっているうちに、出発の時間はすぐにやってきた。仏壇に挨拶して家を出る。日が高くなって幾分寒さは和らぎ、空はすっきりと晴れ渡っていた。これなら帰りの飛行機が揺れることもないだろう。
俺たちに続いて見送りに出てきた母親に、アディーは礼儀正しく頭を下げた。
「どうもお世話になりました。本当に楽しかったです」
「せっかくの休みだったのに、色々手伝ってもらって申し訳なかったなぁ」
「いえ、滅多にできない体験をさせていただいて、勉強になりました」
「こんな田舎でよければ、いつ来てくれたってぇいいから」
優美が車を玄関先に横付けした。
「二人とも、向こうに戻っても身体にだけは気ぃつけてなぁ。飛行機乗るにも何するにも、とにかく無事が一番さぁ」
「うん、分かってるって。心配しなくたって大丈夫だからさ」
「また帰れる時は帰っといで」
諭すように昨日と同じことを繰り返した母親に頷いて見せ、後ろで待っている車に乗り込んだ。窓を下ろし、俺も念押しする。
「母ちゃんも無理すんなよ」
「うんうん、あんたも気ぃつけてなぁ」
優美が車を発進させ、轍のついた狭い雪道を牧場の柵に沿って慎重に走らせてゆく。
雪原の緩い起伏を下ってゆくと、牛舎やサイロの姿は次第に小さくなって遠ざかり、やがて木立にすっかり隠された。母親は俺たちの乗った車が見えなくなるまで玄関脇に佇んで見送っていた。
「2泊3日なんてあっという間だったよね。お母さんもすごく嬉しそうだったし、もっとゆっくりしていけばいいのに」
優美は運転しながら残念そうな様子でしきりにそう言っていたが、信号待ちで停まると助手席の俺と後ろのアディーに目を向けて言った。
「お兄ちゃんも村上さんも、ここに来た時に比べると表情が柔らかくなった気がする」
「そうか? そんな怖い顔してたか?」
「怖いって言うか……今と比べると顔つきがきつい感じだった」
「そうかなぁ」
「うん。だんだんほぐれてきたって感じ」
よく観察しているもんだ。それとも、こういうのが女特有の鋭さなんだろうか。
自分ではまったく気にも留めていなかったが、基地にいる間は無意識のうちに神経を張っているのかもしれない。
信号が青に変わり、優美は前方に気を配りながら再び車を発進させつつ珍しく真面目な口調で言った。
「私には想像もつかないけど、きっと厳しい仕事なんだろうね……国を護ってるんだから」
「ちょっとは見直したかよ」
「うーん……でもやっぱり想像できない」
そう言って、妹はいつもの調子に戻ってあっけらかんと笑った。
空港には大した時間もかからずに着いた。ターミナル前の停車場で降ろしてもらう。
アディーがトランクの荷物を出している間、俺は運転席から身を乗り出した優美に声をかけた。
「送り迎え、ありがと――家のこと、悪いけど頼むな」
優美は頷き、母親が何度も繰り返していた言葉を改めて言った。
「仕事、気をつけてね」
「うん」
そして、スポーツバッグを持って再び顔を見せたアディーとも挨拶を交わして付け加える。
「村上さんも、今度はぜひ夏の北海道を体験しに来てくださいね」
「ありがとう。優美ちゃんもお仕事頑張って」
微笑んだアディーと俺に「じゃあまたね!」とにこやかに手を振ると、優美は車を出して大通りへと抜けていった。
ターミナルに向かいながら、アディーが笑みを浮かべたまま口を開く。
「いい家族だな。本当に居心地良かったよ」
「また今度の夏、一緒に来るか? もうちょっとゆっくり日程取ってさ。そしたら色々観光もできるし」
「そうだね、迷惑じゃないなら――」
そう言って、アディーは冷やかしを含んだ目をちらりと俺に向けた。
「――でも、次はターニャさんを連れて行けよ」
お気楽な発言に、俺は思わず苦笑した。
「気が早えなぁ。まだ付き合ってもいないんだぞ」
「でも連絡先はもらったんだろ?」
さらりと返された言葉に仰天して、思わず足が止まってしまう。
「お前、何で知ってるんだよ!?」
まったく、油断も隙もあったもんじゃない! 一体どこからその話を聞いたんだ!
からかうように笑いながら足早に先を行く同期を問い詰めてやろうと、俺は慌ててその後を追いかけた。
(第5章 了)