帰省(4)
朝飯を終えてから午前中は堆肥作りや餌作りにあたり、昼食を取った後はアディーのリクエストで雪遊びに繰り出した。
横木の上にこんもりと雪を乗せている牧場の柵をくぐり、降り積もった状態のままの真っ新な雪原に足を踏み入れる。
アディーは目を輝かせて俺を振り返ると、「これ、やってみたかったんだ」と両腕を大きく広げていきなり後ろ向きにばったりと倒れ込んだ。そうやって何度も雪の上に人型をつけてみたり、雪まみれになって転がってみたり……触れる雪の冷たさに鼻や頬を赤くしながら、誰も手を付けていない新雪を思い切り楽しんでいる。
冬場は乾いた晴天の日が多い関東で育ち、子どもの頃から雪国に憧れていたというアディーのはしゃぎっぷりは、まるで子どものようだった。以前に行われた雪山での保命訓練の時にはそんな様子はおくびにも出していなかったから、仕事中で先輩後輩もいる場にあって、さすがに自重していたのだろう。
それにしても―――嬉しそうに走り回って新雪を踏む感触を堪能している同期をしばらく眺めていたが、こんな殺風景な雪景色など別段珍しいとは思わない俺まで何だか気分が浮き立ってきた。
足元の雪をすくって握り固め、アディーの背中目がけて投げつけてみる。しかし球は大きく外れて目標を通り越してしまった。それに気づいたアディーは振り向くと、「やったな!?」と声を上げるなり特大の雪玉を作ってこれでもかというくらいの勢いで投げ返してきた。こうなると、互いの戦闘機乗りとしての負けん気魂が騒ぎ出す。
本気の雪合戦が始まった。優美も加わり、3人してぎゅうぎゅうに固めた玉を力いっぱい投げ続け、汗だくになって駆けまわりながら、喉がガラガラになるほど歓声を上げ大笑いした。ここまで無心になって遊んだのは本当に久々だった。
夕方に差し掛かる頃になってから、朝と同じく牛たちに餌をやり、搾乳と牛舎の掃除を手伝った。パートで来ているおばさんたちは一緒に仕事にあたっているアディーを見やっては、「見目のいい若い子と一緒だと仕事にも張り合いがでるわぁ」と昨日と変わらず賑やかに喋りたてながら作業にあたっていた。
夕食を終えて風呂まで済ませると、俺とアディーはゆるゆると酒を飲んで過ごした。母親と優美に基地での生活や仕事の様子などについて話してやっていたが、夜も更けてくると二人は俺たちに気兼ねなく寛ぐようにと言って寝室に引き上げていった。
夜中の1時を回る頃には、酔いも回ってすっかり心地よくなっていた。アディーも珍しくだいぶ酔っぱらっているようだった。普段とは違った一日を過ごして、さすがにくたびれたのかもしれない。座卓に肘をついて重そうな瞼を閉じかけながら、日本酒の入ったグラスを口に運んでいる。話しかけると、呂律の怪しくなった口調でふわふわとした相槌が返ってきた。
俺はスルメの足を齧りながら、そんなアディーを斜に窺いつつ考えた――俺が正気でこいつが酩酊している、こんな状況はまたとない。こういう時でもないと、いつも取り澄ましたこの同期の本音を聞けることなんてないだろう。これは貴重なチャンスだ!
そう思ってさりげなく話を振ってみた。
「――お前さ、モッちゃんのこと、ほんとはどう思ってるんだよ」
アディーは座卓の上に置かれた果物籠からミカンをひとつ取って変に念入りに皮を剥いていたが、俺の質問をムキになって撥ねつけることもなく、「……モッちゃん……? うん……」としばらく思いめぐらせているような曖昧な返事をよこした。そうして今度は惰性のようにミカンの筋をおぼつかない手つきで取り除いていたが、口を開くとぽつぽつと答えた。
「モッちゃんのことは好きだよ……何て言うかさ……安心できるっていうか、何言っても受け止めてくれるっていうか……」
おっ! やった! 話題に乗ってきたぞ!――しかもやっぱり好きなんじゃねぇか!
俺は内心ほくほくしながら何気ない態度で更に話を進めてみた。
「じゃあさ、付き合ってみたいとか思うだろ?」
しかしアディーは手の中で弄んでいるミカンに目を落としたまま、浮かない表情になった。
「……付き合う……? いや、付き合うのはダメだよ……」
「何で」
「俺なんかと付き合ったらダメなんだよ……俺みたいな人間と一緒にいたら、モッちゃん、絶対に幸せになれないから……」
なぜかネガティブなことをぶつぶつと呟いている。俺は誘導尋問よろしく畳みかけた。
「そんなのモッちゃん本人がどう感じるかだろ。お前自身はどうしたいんだよ。彼女と一緒に過ごしたいって思わないのか?」
「一緒に過ごしたら……楽しいだろうね。軽口叩き合って、気取らずにくだらないこと喋って……」
「なら、ためらうなよ。思い切って撃ち落としに行けよ!」
「……いや、それはできない」
「何でだよ」
「……」
「お前がモッちゃんのこと落とせないわけないだろ」
ごり押しする俺に、アディーはミカンを置くと両手で顔を覆った。
「……怖いんだよ」
重く息を吐き出し、押し出すように呻く。
「普通に喋って、バカ話して、笑って――そういう風に、好きになった相手と自然体で楽しい時間を過ごすのが……。そうやって油断してたら、いつかその幸せが一転して崩れ落ちるんじゃないか、って……」
再び長い溜め息が漏れた。
俺は思わず言葉をなくした。お節介半分で煽っていたことに幾許かの罪悪感が湧く。
マルコの離婚話が出た際、ちらりと聞いたアディーの過去。ある日突然、家族を捨てて別の男の元に逃げたという母親。
「怖いんだよ」――その言葉がすべての理由なのかもしれない。どの女とも上っ面の付き合いしかしない交際関係――ようやくその理由を窺い知った気がした。
好きな女と一緒にいられる幸せ――その幸せが壊れる時を恐れて、共に過ごしたいという単純な気持ちを持つことさえ自制してしまう……。
これまで華やかに女遊びを繰り返してきたアディー。その姿を見て「世の中は不公平だ」とふて腐れたくなることもままあったが、羨望の眼差しで見ることの多かったこの同期のことを、今初めて不憫に思った。
でも相手がモッちゃんなら……根拠のない確信だが、彼女ならあいつが怖がっている事態には絶対にならない気がする。残念ながら色気には欠けるし容赦なく毒舌なこともあるが、おおらかな懐の深さは感じるし、何より好いた相手を陰になり日向になりして見守っていてくれそうな雰囲気がある。
それに身持ちも固そうだ。ただでさえ数が少なく基地の中でも外でも目立つ女性自衛官だ。ふらふらと男と遊びまわっているようならすぐに噂が耳に入ってくるものだが、そんな話はついぞ聞かない。何より、そういう軽い女だったら同じ職場にいてとっくにアディーに色目を使っているだろう。
本当のところ、モッちゃんはアディーのことをどう思っているんだろう。ただの一飛行班員としか見ていないんだろうか――。
余計なお世話であることとは自覚しつつも、日本酒のグラスを傾けながらふたりの本心について堂々巡りの考えに耽っていたが、ふと気づくと目の前のアディーは座卓に突っ伏して眠りこんでいた。
「おい! こんなところで寝るなよ、風邪ひくぞ! 布団で寝ろって! 俺、2階まで連れて行けねぇぞ!」
無理やり揺り起こし、ぐずぐず言いつつふらつきながら立ち上がったアディーを強引に俺の部屋に追い立てた。部屋の隅に畳んで置いておいた敷布団を急いで延ばし、酔いつぶれたアディーを寝かせて上掛けをかけてやる。
灯りを消し、下に戻って飲み散らかしたものを片付けようかと思った時――外から微かな轟音が低く伝わってきた。耳に馴染んだこの音はF-15のエンジン音だ。
こんな深夜に戦闘機が上がるとしたらスクランブルしかない。千歳基地の第2航空団に指令が下ったのだろう。
防寒のために2重になっている窓を細く開けると、痛いほどに凍てついた深夜の外気が部屋の中に一気に流れ込んできた。雲ひとつない夜空には、百里で見るよりも多くの星が冴えわたって輝いている。
基地があるはずの彼方の方向に目を向ける。
響いてくるエンジン音の大きさの僅かな加減で、今どんな操作をしているのか手に取るように分かる――誘導路から滑走路へと止まることなく滑り込む。スロットルを押し出し、出力を確認。機体が速度を増して走り出す。車輪が浮き、上昇。操縦桿を更に引く――。
遠くに黒々と見えている森の際から空に向かって、小さな光がひとつ、そして数秒後にまたひとつ現れた。アフターバーナーを焚いたF-15が垂直尾翼のストロボライトを鋭く光らせながらぐんぐん夜空に昇ってゆく。
子どもだった頃、そんな光景を見る度に、さぞかし気分よく自由な気持ちで大空を飛んでいるに違いないと信じていた。誰もが乗り込めるわけではない機体を操る資格を勝ち得たパイロットたちは、自信に満ちあふれた勝者なのだと信じて疑わなかった。
でも、本当はそうじゃない――布団の中で丸まって、今はもう静かに寝息を立てている同期に目を向ける。
「エリート」という言葉で形容され、羨まれることの多いパイロット。そんな職に就いているとしても、きっと誰しも解消しがたい悩みを抱え、もがき苦しみ、歯を食いしばりながら、自分が望み選びとった人生に必死に食らいついているのだ――アディーの告白を思い返しながら、俺は改めてそう感じた。
再び外に目を向けると、F-15が放つ光の点滅は既に闇に紛れて見えなくなっていた。真夜中の凍えた空気を低く震わせていた轟音はすっかり消え去り、後には再び静寂が戻っていた。
俺はそっと窓を閉めると、アディーを起こさないよう足音を忍ばせて部屋を後にした。