帰省(3)
酪農家の朝は早い。冬場ともなると暗いうちから起きだして、まずは餌やりを済ませる。それから搾乳、牛舎の掃除と仕事は続く。
母親は「せっかくの休みだからゆっくり寝ていればいい」と言っていたが、帰ってきたからには少しは楽をさせてやりたかったし、アディーも「なかなかできない体験だから」と言うので、早朝から作業に加わることにした。
作業着を入れている衣装ケースから引っ張り出したつなぎと、防寒用のブルゾンを着込んで準備する。アディーには少し大きめのものを貸してやったが、やはりだいぶ窮屈そうだった。
長靴を履いた足で凍った雪道を踏みしめ、まだ暗い中を牛舎へと向かう。肌を刺すような冷たさの外気に息が詰まるようだ。牛舎の軒先にできた立派なつららが、中で夜通し灯されている電灯のごく弱い光を受けて暗がりの中にぼんやりと浮かび上がっている。
時折聞こえてくるくぐもった牛の鳴き声とともに、微かに吹いている凍てついた風に乗って、敷き藁と飼料と糞のにおいが牛舎の外まで流れていた。しかしこの厳寒の中では夏場ほど気にはならないし、そもそも草食の生き物なのでそこまで強烈なものでもない。
薄明りの牛舎の中に入ると、優美と母親は牛たちが食べ残した古い餌を片づけているところだった。俺たちの姿に気がついた母親が顔を上げた。
「ありゃぁ、ずいぶん早起きしてきたんだぁ――おはよう。無理しなくたっていいのになぁ」
「無理してる訳じゃないって。いつも仕事の時はこれくらいの時間には起きてるから」
「そうなんかぁ……自衛隊の仕事も大変なんだなぁ」
母親は竹箒を使う手を止め、俺の顔を見て心底から労うようにそう言った。
外より温度は高いとはいえ、この寒さに牛たちは湿った大きな鼻の孔からぽっぽと白い息を吐きだしている。そうしながらあちこちで思い思いに餌を催促する鳴き声を上げていた。
俺はアディーに手袋を渡し、密にまとめられた牧草をほぐして牛に与えるやり方を教えてやりながら、きれいに掃かれた柵の前に餌を置いていった。
途中、顔を出してきた牛の平たい額を撫でてやる。うちの牛は仔牛の頃からよく撫でてやりながら育てているので、手を伸ばしても嫌がらない。手のひらに、硬さのある毛としっかりとした鼻梁の感触が伝わってくる。
牛たちはあからさまに態度には示さないものの、見慣れない人間に興味がある様子で、柵の間から首を伸ばして餌を食みながら目だけをこちらに向けて俺とアディーの様子を窺っていた。
「村上さん、すみません。あの袋、こっちに運ぶの手伝ってください。あっ、いえいえ、それじゃなくてあっちのです」
優美は重たい飼料袋をえっちらおっちら運ぶアディーの背中に「やっぱり男手があると助かります!」とおだて文句をかけながら、遠慮なくこき使っている。
俺は水飲み用の水槽に新鮮な水を満たしながら、隣で牧草に穀物飼料を混ぜ込んで餌を整えている母親に声をかけた。
「母ちゃん、どうさ仕事は」
「優美が経理をやってくれてるし、近所の人にもパートで来てもらってるから。そんなに手広くやるつもりもないし何とかなってるから、心配しなくて大丈夫さぁ」
「俺、なんも手伝えなくって」
「なぁんもなんも」
母親は笑って俺を見上げると、手を止めて言った。
「何とかなるもんさぁ。だからあんたも変な気ぃ回さんで、帰れる時は帰っといで」
自分の内心をすっかり見通されていたようで、思わず母親の顔を見返した。家業を捨てて家を出たことに対してずっと後ろ暗く感じていたが、「そんなことはもう気にするな」と言っているような言葉に俺は黙って頷いた。
アディーは優美に教わりながら、まだ離乳していない仔牛を集めた柵のところで哺乳器を使ってミルクをやっている。それが終わるのを見計らって、俺は声をかけた。
「なあ、乳しぼりやってみるか?――お前、上手そうだよな」
真顔でそう言うと、アディーは「バーカ」と苦笑で返した。哺乳器を片づけるために少し離れたところにいた優美が、やり取りを聞いて噴き出していた。
優美に選んでもらった気性の穏やかな雌牛の横で、初心者のアディーにさっそく一通りの説明を始める。
「大切なのはスキンシップだ。いきなり乳頭を掴むのはよろしくない。牛も人間も同じだからな。まずはこちらの愛情を伝えないと。最初にこう、体を優しく撫でてやるんだ」
「なるほど」
アディーは俺に倣っておっかなびっくり触っていたが、大人しい牛の様子に安心したのか、すぐに慣れた手つきでさすり始めた。
「体を撫でてやったら、今度は首や顔の方までたっぷりの愛を込めて撫でてやって――」
「うん」
神妙な態度で首元を撫でるアディーに向かって、俺は厳かに続けた。
「そして最後に、口にチューを」
「うん……おい、嘘だろ!」
説明どおりにやろうとしたアディーは我に返ったように声を上げ、俺を小突く。
牛の足元に屈みこみ乳房をきれいに拭いて消毒していた優美は、牛を驚かせないよう笑いをこらえるのに必死の様子だ。
続いて薄手のゴム手袋をはめ、太い乳頭を恐る恐る握ったアディーは「あっ……」と驚いたように声を漏らして目を瞠った。
「あったかいんだ」
俺は呆れて笑ってしまった。
「当たり前だろ、生き物なんだから。お前、どんだけ都会っ子なんだよ」
アディーが乳頭を扱くと同時に勢いよく乳が迸り、下に置いたバケツの底に当たって音を立てた。
息を詰めてリズムよく搾ろうと集中しているアディーの様子を見ていた俺は、その手元に気を配りながらもついついニヤリとしてしまう。
「やっぱり手つきがそこはかとなく――」
「エロい」と続けようとして、「それ以上言うな」ときっぱり止められた。
しばらくして、乳しぼりを十分に堪能したアディーは手を離すと脇に退いた。優美がすかさず乳頭に搾乳機をはめる。牛にとって中途半端に搾って止められることは、人間に例えると気持ちよく出している小便を途中で遮られるのと同じくらい不快なものなのだ。
アディーはミルカーにつながれたままのんびりと反芻している牛に目を当て、感慨深そうに両手のひらをそっと擦り合わせている。そうしながら、「これからはありがたく牛乳を飲むことにするよ」と真面目な面持ちになって言っていた。
その後、搾乳が必要な牛すべての乳を搾り終え、糞の掃除と床に広げてある敷き藁の交換を済ませると、ようやく朝飯の時間となる。
作業を切り上げ、牛舎を出て母家に向かう途中、アディーがふと足を止めた。牧場の敷地に巡らされた柵の向こうに広がる景色に目を向けている。
冬場の遅い日の出を迎えて、広々と開けた東の空はもうだいぶ白み始めていた。一切足跡のついていない雪原の向こうに並んで立っている白樺の木々や、その奥に点在する林の姿がシルエットのように黒く見えている。昨日小雪をちらつかせていた雲はすっかり抜け、頭上にはまだ夜の余韻を残した澄んだ空が広がっていた。
その光景を前にしばらく立ち尽くしていたアディーは、やがて大きく息を吐きだした。
「こんな場所で育ったら曲がりようがないよな。真っ直ぐな人間になるはずだ」
しみじみと噛みしめるように言う。
「それ、褒めてるんだよな?」
念のため確認した俺に、アディーは笑みを見せて頷いた。
「そう。羨ましいと思ってね」
俺はふと思い出して、アディーを誘うと牛舎裏に足を向けた。雪かきされずに残されたままの新雪に足跡をつけながら、こんもりとした小山に登る。上まで来ると、遠くに広がる森の方向を指差した。
「ほら、あの辺が千歳基地――ここが俺の特等席だったんだ」
まだ飛行訓練が始まるには少し早い時間だ。基地のある方角からF-15のエンジン音が伝わってくることもなく、思いついたように鳴く牛の声が時折聞こえてくるだけで、辺りはまだ静まり返っていた。
「ここに立って、賢二少年は憧れに胸を膨らませて毎日空を見上げていたわけだね」
「こんなところに登ったって、大して変わりゃあしないのにな」
大人であれば何の苦も無くてっぺんに上がれてしまうような小さな起伏だ。こんなに低かったのかと今では逆に驚いてしまうくらいだ。
「――お前はどうして航学に入ろうと思ったんだ?」
ふと気になって、アディーにそう訊ねてみた。考えてみると、空自のパイロットを目指そうと思った理由をこの長い付き合いの同期から改まって聞いたことがなかった。
アディーは朝日を受けて徐々に白さを増してきている雪原に目を向けたまま口を開いた。
「高校の時、友達に厚木基地の航空祭に連れて行かれて、初めて戦闘機を間近で見たんだ。米軍機だったけど、あんなスピードで空を飛べたら色々と吹っ切れるんじゃないかと思ってね」
「――色々かぁ……で、今はもう吹っ切れたのか?」
「吹っ切れたものもあるし、思い切れないものもまだまだあるかな……。人生、そう簡単に白黒つけられる訳じゃないね」
そう言ってアディーは笑った。
そうだよな――俺は隣に立つ同期の横顔を横目で盗み見て、胸の中で呟いた。
戦闘機に乗れた、夢は叶った、万々歳――人生そんな単純なものじゃないし、それで色々なわだかまりがすっきりきれいに帳消しになる訳でもない。心のどこかに重いものを抱えつつ、目の前に現れるハードルをひとつひとつ、時に息切れしながらも越えてゆくしかないのだ。
「――あとどれくらいでリーダーになれるかな……」
自分の現状に思い至った俺は、思わずそう呟いてアディーに顔を向けた。
「お前はリーダーになったらタックネームどうするんだ? 新しいの、なんか考えてる?」
アディーは俺の問いに困ったような笑みを見せると、「うーん……」と顔をしかめた。
「もっとカッコいいのにしたいけど……今更新しい名前っていうのも、しっくりこないよな」
「アディー改め、リーブとか」
「育毛ネタはやめてくれ」
そう言って、アディーは苦笑しながら大袈裟に俺を睨んで見せた。
「お兄ちゃんたちー! ご飯にしようー!」
自宅の玄関先に出てきた優美が、白い息を吐き上げながら大声で呼んでいる。
俺たちはまた雪を散らしながら小山を下りると、温かい朝食を食べに母家に向かった。