帰省(1)
新千歳空港のターミナルビルから外に出たとたん、凍てついた冷気が肌を刺した。空気がキンと張り詰めている感じだ。
俺の横に立ったアディーは粉雪がちらちらと舞っているのを見て、「雪だ……」と嬉しそうに呟いた。空から落ちてくる小さな粒を手のひらに受けて子どものように喜んでいる。
「雪なんて一日も経てばうんざりしてくるぞ」
吐き出す息が目の前で盛大に白くなったのを見て、俺は慌ててダウンジャケットのファスナーを首元までしっかりと上げた。
陸の孤島・百里からアディーの車で羽田空港まで行き、そこから民航機でここ新千歳空港に来るのに、なんだかんだで6時間もかかった。時刻は既に4時近い。大したことはしていないのに、人混みに出たせいか変に疲労感がある。
そもそも、わざわざ金を払って飛行機に乗るのも気が進まないものだ。F-15に乗って百里から千歳基地まで飛んでいけば、面倒くさい搭乗手続きも、煩わしい移動時間や待ち時間もなしに、手軽に移動できるのだが――当然のことながら、公私混同はできない。F-15でも燃料でも、税金で賄われているものを私用で拝借することは厳禁だ。
正月休みが明けて早々にわざわざ有休を取って迎えに来ると言っていた優美の姿はどこにも見当たらなかった。きょろきょろしていると、きれいに除雪されたバスの発着場の少し手前に赤いマーチが勢いよく走りこんできた。下げられた助手席の窓から、「お兄ちゃーん、村上さーん、こっちこっち!」と呼ぶ声がする。運転席にいる優美が開いた窓の方に身を乗り出すようにして両手を振っていた。
ゆっくり停車していられる場所ではなかったので、挨拶もそこそこにとりあえず荷物をトランクに入れ、俺は助手席に、アディーは後部座席に乗り込む。
「長旅お疲れさま! 村上さんも、来てくださって本当にありがとうございます」
いったん振り返って満面の笑みでアディーに会釈をした優美は、クラッチを踏み込んでギアを1速に入れると、ノッキングすることもなくスムーズに車を発車させた。
「3日間お邪魔します」と改まって挨拶したアディーは、慣れた手つきでギア操作する優美の手元を覗き込みながら感心したように言った。
「すごいね、優美ちゃんマニュアル車に乗れるんだ」
「うちの牧場で使ってる軽トラやトラクターが全部マニュアルなんで、オートマ限定だと仕事にならないんです」
「何、お前、トラクターに乗れるようになったのか!?」
3年前に帰省した時、優美は短大に入って少し経った頃だった。そういえば、運転の練習がどうのこうのと言っていた気がする。
「土日限定の手伝いだって、運転できなきゃ戦力にならないでしょ?」
信用金庫の受付嬢と牧場の手伝いを両立している優美は、前方に注意を向けたまま、したり顔でそう答えた。
いつの間にかずいぶんしっかりしたもんだ――たくましくなった妹を横目で見ながら、なんとなく自分が浦島太郎にでもなったような気分だ。
車は国道や県道の広い道路を走ってゆく。市の除雪車が出て雪はきれいに掻いてあるので、走るのにそう苦労はしない。どんよりとした空から落ちてくる粉雪はフロントガラスに触れる寸前で舞い上がり、転がるようにして次々に後方へと流れ飛んでいた。
後ろに座っているアディーは窓に顔がくっつきそうになるほど近づけて、道路脇に延々と続く雪の壁や、その向こうに広がる雪原を飽きもせずに眺めている。景色の中に見慣れないものを見つける度に、「あっ、牛だ!」「あっ、馬もいるんだ! 道産子かな?」と修学旅行に来た小学生のように声を上げるので、終いには俺も優美も堪えきれずに吹き出してしまった。
途中で酒屋に寄ってもらい、滞在中に飲むためのビールや日本酒をどっさりと買い込み――酒やつまみの入った袋を両腕に抱えきれないほど持って車に戻った俺たちを見て、優美は呆れかえっていたが――更に15分ほど走ったところで、県道を外れて横道に入った。細い道には大型の除雪車が入ってくることはできないので、轍の残る雪道になっている。優美は速度を落として慎重に車を進めていった。
細い枝に雪を乗せた白樺の木立の間を抜けて視界が開けると、緩い起伏の続く丘の向こうに牛舎が見えてきた。その横に建つ倉庫、父親が死んで経営を縮小してからは使っていない塔状貯蔵庫、そして築年数を感じさせる三角屋根の自宅――どれもが雪を被っていたが、懐かしい我が家が変わらずにそこにあった。
牧場の柵沿いに丘を登ってゆき、車は自宅の前に横づけされた。運転席から降りた優美は玄関を覆う風除室に顔を突っ込むと、「お母さーん! お兄ちゃんたち着いたよー!」と大声で母親を呼んだ。
車のトランクから荷物を出したアディーは目の前に広がる一面の雪原を見渡して、「こんなに雪を見たのって、保命訓練で磐梯山に行った時以来だ」と感嘆したように呟いている。
「まあまあ、よく来たよく来た。お帰りぃ。お疲れさんだったなぁ」
労いの声とともに玄関から出てきたのは前掛け姿の母親だった。もともと小柄だったのが、歳を取ったせいかより小さくなったように見える。
「母ちゃん、ただいま。元気だったかよ」
「あぁ、変わりないさぁ」
アディーの手前、なんとなく気恥ずかしくてぶっきらぼうにそう言った俺に、母親は顔をほころばせて頷いた。
俺は隣にいるアディーを紹介した。
「こいつが俺の同期の村上。一緒の職場でやってる」
「初めまして、村上です。お世話になります」
にこやかに微笑んで頭を下げたアディーに、母親も深々とお辞儀をして皺の目立つ笑顔を向けた。
「遠いところよく来てくださってぇ。なんにもないとこだけども、ゆっくりしていけばいいさぁ」
母親に促されて家に入ろうとしたところに、牛舎の方から賑やかな一団が小走りに駆けてきた。助っ人で手伝いにきている近所のおばさんたちだ。作業着の上に厚手のジャンパーを着て丸々と着ぶくれした4人が、雪を踏みながらわいわいと声を上げてやってきた。
「賢ちゃん、久しぶりだねぇ!」
「ちょっと見ない間にずいぶん立派になってぇ」
「どおりであたしたちも歳を取るはずだわぁ!」
「あれ、あのゴーゴー凄い音がする飛行機に乗ってるんだって? 凄いもんだねぇ」
俺が子どもだった頃から知っている年配の人たちだが、相変わらずパワフルだ。こちらに相槌を打つ間も与えず口々に喋りたてると、今度はその目を一斉にアディーに向けた。
「んまあぁ! ほんとにイイ男だねぇ!」
「テレビに出てきそうじゃないの」
「優美ちゃんが話してたとおりだわ!」
苦笑するアディーを遠慮なくうっとりと眺めまわし、思う存分黄色い声を上げている。
「ね、おばさんたち、私の言ってたこと大袈裟じゃなかったでしょ!」
優美はまるで自分の手柄のように得意気だ。
「でも村上さんはマダムキラーだっていうから、おばさんたちも気をつけてね」
優美がそう言うや、「まっ! 本当!?」と豪快な笑い声が沸く。
「口説かれちゃったらどうしよう!」
「旦那に睨まれちゃうわぁ」
弾んだ声で大仰に言い合って、顔を見合わせ楽しそうに首をすくめるご婦人連に、アディーが笑顔で言葉を添える。
「ぜひ今度ご一緒に食事でも――この辺りの名物料理の店でも教えてください」
女心をくすぐるリップサービスに、おばさんたちはまた揃ってわっと歓声を上げた。
「あんた上手ねぇ!」
「今まで随分と女を泣かせてきたんでしょ」
戸外の寒さを物ともせず、普段は接することもないだろう垢ぬけたイケメンを囲んで盛り上がっている。そんなおばさんたちみんなに茨城土産のピーナッツの袋を配ると、陽気なご婦人たちは礼を言いながらまた姦しく牛舎での作業に戻っていった。
こんな、ありきたりなやり取りでさえ妙に懐かしい。家に帰ってきたんだと実感できる。
おばさんたちから解放され、俺たちはようやく家の中に入ることができたのだった。