大晦日のスクランブル(1)
(画像:長谷川様)
『――スタジオの皆さーん! この賑わいが伝わっていますでしょうか!? ここ、東京上野にありますアメ横では、今年最後の日の朝を迎え、お正月準備のための買い物に繰り出す人たちでごった返していまーす!』
朝の冷気にすっかり冷え切ったドアノブを回してアラート待機室に入っていくと、部屋の奥のテレビから女性リポーターの妙に甲高い声が聞こえてきた。
映っているのは、活気にあふれるアメヤ横丁からの中継映像だった。まだ8時前だというのに、買い出しに訪れた客が通りをみっしりと埋めている。軒を連ねる店先にはタラバガニやマグロ、スジコなど、お節料理に使う鮮魚が山積みされ、行き交う客を呼び込むしゃがれた掛け声が威勢よく飛び交っている。リポーターはその喧騒に負けないよう必死に声を張り上げて年末の賑わいを実況していた。
まさに師走――大晦日を実感させる風景だ。
この日にアラート待機に就くと、当然のことながらずっと待機室に籠りつつ、夕飯には給養班から運ばれてくる大晦日メニューの年越しそばをすすり、フライトスーツに耐Gスーツを着込んだまま紅白歌合戦を眺め、テレビから流れる除夜の鐘の音をしみじみと聞きながら新年を迎えることになる。「世の中は早々とお屠蘇気分だけど、俺たち酒も飲まずに頑張ってるよな」なんて自分自身を労いながら。
そんな、ちょっと寂しい心持ちにもなる正月勤務だが、今回俺は事前に希望を上げて、元日を含めた前後の1週間ほどを待機要員として基地に残る勤務に組んでもらった。年明け三が日を過ぎてから帰省するためだ。その方が年末年始の混雑も避けられて、航空券も取りやすい。
ちなみに、実家にはアディーも一緒に行くことに決まっていた。妹の優美に「村上さんも誘ってよ!」としつこく催促され――イケメンパイロットを牧場の手伝いに来てくれているおばさんたちに披露したいんだそうだ。久方ぶりに帰郷する兄の貴重度は低いらしい――アディーも特に用事がないということで、まんまと優美の念願叶ったり、となった訳だ。
勤務交代の時間を前に、下番するメンバーと朝の挨拶を交わして簡単に申し送りを受ける。
この後すぐに即時待機に就くのがリバーと俺、15分待機がジッパーとフック――堂々たる顎が特徴的な、古典的アニメの海賊船長そっくりの濃い顔をした防大出身の同僚で、フライトコースが俺と同じだった――だ。
既に上番していた飛行群本部所属の飛行管理員が、ブリーフィングに入ろうとする俺たちに向かって「現在、小松はビローです」と報告した。
気象条件が離着陸できる基準値以下ということだ。つまり、中部航空方面隊の管轄エリアでここ百里の7空団とともにアラート待機を受け持つ小松基地の6空団からは、スクランブル機が上がれない。そうなると、7空団でそちらのフォローにもあたることになる。
俺は壁際にある気象通信端末をチェックした。黒い画面に白文字のローマ字略号で飛行場ごとの詳細な気象情報がびっしりと書き込まれている。スクロールして小松基地の部分を表示する。一部分だけ赤文字で<BLW>と表示されていた。観測値を見る限りでは、大雪で視程がかなり悪く、低い雲が被っているようだ。
画面を衛星写真に切り替えてみると、冬に特有の白い筋状の雲が東北から北陸にかけての一帯をべったりと覆っていた。雪雲は日本海側から次々に流れ込んできている。
「しばらく小松は飛べそうにないな」
画面に示される数時間ごとの予想天気図の移り変わりを目で追っていたジッパーが俺の後ろで呟くと、フックが「今頃、施設隊や空港の除雪車がフル稼働で頑張ってるんでしょうねぇ」と相槌を打った。
「大晦日にご苦労なことだなぁ。ほんと、雪は厄介なんだよ」
雪国の出身なのか、リバーが実感のこもった溜め息まじりにそう言う。俺も大きく頷いて同意した。掻いても掻いても積もってくるし、放っておけば重みで屋根が潰れるし、雪は本当に面倒な代物なのだ。
同じ冬でも、関東では乾燥した快晴の日が多い。湿度が低すぎて鼻の奥がツンツンするほどだ。
地元の北海道から出てきて8年、その内の3年をこの百里で過ごしていると、関東の気候にも当然のように慣れてしまって別段目新しくも思わなくなってしまったが、配属されて初めての冬を経験した時には驚くことが多かった。ほとんど雪が降らないことにびっくりし、1月2月になっても足元にほぼいつも見えている乾いた路面に感嘆したものだ。
小松基地の気象情報を眺めながらそんなことを思い返していると、踵を返したリバーがリモコンを取ってテレビの音量を下げた。それを合図にしたように、ジッパーとフックは上番前のブリーフィングを始めるために机に向かった。
俺とリバーも差し向いで別の席に着く。
「お前と組むのは初めてだったよな」
鉛筆を手に編隊長からの留意事項を書き留めるべく準備した俺に目を当て、リバーはいつものようにのんびりとした口調で言った。
「まあ、お前ももうリーダーになるような時期だし、あれこれ細かいことまでブリーフィングするつもりはないけどな、一応、ひとつだけ。初めて組むウイングマンには必ず伝えていることだ」
リバーは別段力むようなこともなく続けた。
「もし万が一、リーダーの俺が墜とされて指示が出せないような状況になったとしたら、お前はとにかくその場からいったん離脱しろ。絶対に自分の判断で反撃するな」
「はい」
編隊長の言葉に、俺は神妙な態度で頷いた。
しかし同時に、『そんな事態になったら何が何でもやり返してやりますよ!』と心の中で意気込む。
もちろん、いくらそう息巻いたところで自分勝手にそんなことはできないし、してはならない。俺たちが個人の感情で動くことはご法度だ。不用意なことをすれば重大な外交問題に発展する。それでも、「絶対に負けるもんか、やられたらやっつけてやる」という滾るような負けん気がなければ、そもそもファイターパイロットなんて務まらないだろう。
俺の闘志を見透かしたのか、たしなめる口調でリバーが続けた。
「俺が『撃て』と反撃の命令を出してお前が撃墜するなら、責任は俺が取れる。でも、俺の指示なくお前の判断で相手を撃ち殺したとしたら、お前が裁判にかけられることになるんだ。リーダーとして、俺は自分のウイングマンにその責任を背負わせたくはないからな」
リバーが言わんとしていることは分かった。
「反撃のため」として行ったことであったとしても、相手を殺せば殺人の容疑で裁判にかけられ、被告人として国内法の刑法によって裁かれることになるのだ。
上空で下した判断が果たして妥当なものだったのか、為された行いが正当防衛や緊急避難という要件に当てはまるのかどうかを法廷で改めて検証することになる訳だが、コンマ数秒で状況が一変する世界において、その一瞬の間の状況を正しく理解し、判断の正誤を決定することなど、その場にいた当事者でなければ恐らく無理だろう。そういうぎりぎりの状況下で任務として行ったことを、個人の責任として問われかねないのだ。
「自分の判断で反撃するな」というリバーの指示は、指揮官である自分が命令を下せなくなり、部下の行いに関するすべての責任を引き受けることができなくなった時のことを想定したものだった。
「まあ、一応念のためにな」
リバーはいつもの穏やかな調子ながらも、しっかりと釘を刺すようにそう言って話を締めくくった。そして、向こうでジッパーがブリーフィングを終えているのを確認すると、またテレビのリモコンを手にしてボリュームを戻した。