忘年会(2)
夜の7時を回る頃、飛行隊の宴会は羽目を外した乱痴気騒ぎに突入していた。
100人を超える隊員たちが膝を突き合わせて大いに酒を酌み交わしている大広間は熱気でむせ返るようだ。長座卓に等間隔に用意された海鮮鍋や隙間なく置かれた魚介料理を味わいながら酒のグラスを傾け大声で笑いあったり、日頃は敢えて話題にすることのないプライベートな話に花を咲かせている。
宴会開始当初の整然と並べられた座布団は今や見る影もなく乱れ、皆好き勝手に集まったり移動したりして盛り上がっている。ご機嫌な大酒飲み集団の間を縫うように器用に行き来する仲居さんたちは、追加の酒を運び込んだり注文を受けたりと大忙しだ。
忘年会は飛行班だけでなく整備小隊の整備員たちも含めた隊全体でやる。飛行隊は言ってみればひとつの家族のようなもの――運命共同体だ。そこに所属する隊員たちが一堂に会し、酒を酌み交わして本音をぶつけ合える機会はなかなかないので、この時ばかりはパイロット達も一応はいつものテンションを抑え気味にする。整備員たちの前で襖を蹴破るとか、頭突きと怒号の応酬になるのはさすがに悪ノリが過ぎると少しは自覚しているのだ……が、酒が入り各グループごとの宴会芸も始まって勢いがついてくると、だんだん箍も外れてくる。
ハスキーなんかはもう浴衣を脱ぎかけて、一升瓶を抱えたままいい調子で演歌のフレーズを唸りながらフラフラと踊っている。
いつも頭突き騒ぎの先陣を切る飛行班長のパールは、隊長や整備小隊長と一緒に豪快な笑い声を上げながら酒を喉に流し込んでいたが、後輩が酌をしに来たのを見るやヘッドロックをかまして絡んでいる。
俺の向かいでは、刺身を盛っていた大きな平皿に酒をなみなみ注いだものを掲げ持ったポーチがぐびぐびと喉を鳴らしながら勢いよく飲み始め、その横から先輩たちがすかさず日本酒やビールを注ぎ込み、やんやと歓声を上げては煽りたてていた。
「イナゾーさん、お疲れさまです!」
周囲の大音声に負けないよう張り上げた声に呼ばれた俺は、小鯵の唐揚げをつまんだ手を止めて振り向いた。
赤ら顔になった整備員の皆川3曹が一升瓶を持ってそこにいた。その後ろには、さっきまで舞台でモッちゃんとカラオケを披露していた磯貝士長の姿もあった。浴衣の胸元の合わせが少し緩くなっていたが、中にTシャツを着ているので見事なバストはしっかりガードされていた。
俺は皆川3曹の差し出す酌を受けながら、彼の横にちょこんと座った磯貝士長を見て思わずびっくりした。オレンジジュースを手にしている割には顔が真っ赤だ。
「磯貝士長、それジュースだよね?」
「いえ、酎ハイですよ」
上気していつもより一層つややかになって健康的に見える頬を上げて、彼女はニコニコと笑った。俺はなおさら驚いて、高校生と言っても通用するような童顔の彼女に訊き返した。
「でも、まだ未成年だよね!?」
「私、先月20歳になりました! もうお酒飲めます!」
隣にいる皆川3曹が顔をしかめて口を挟む。
「何か見てて飲み方が危ないんだよなぁ……調子に乗って飲み過ぎるなよ。ウーロン茶も同時進行で頼んだ方がいいんじゃないか?」
真顔で忠告する様子は真面目な兄のようだ。俺はちょっとからかってみた。
「皆川3曹と磯貝士長はいつも一緒にいるね」
「どこに行くにも磯貝がくっついてくるんですよ」
いいペースで酎ハイを飲んでいる隣の後輩を見やって渋い顔で言う彼に、彼女は大袈裟なほど大きく頷いた。
「当たり前です! 皆川先輩の知識と技術を漏れなく盗むつもりなんですから!」
「磯貝士長は熱心だよね。飛行機大好きオーラが見えるもん」
「戦闘機愛なら誰にも負けません! 離陸するのに滑走を始める瞬間の、ノズルが『キュイッ』って縮むところとか、うっとりします」
言葉のとおりにうっとりした顔で熱っぽくそう話す彼女に、俺は思わず「またマニアックなポイントだなぁ」と言いながら笑ってしまった。
彼女は手にしている酎ハイを一口飲むと、内緒話でもするように真剣な顔になって口を開いた。
「実は私、本当はパイロットになりたかったんです。F-15に乗りたくて。でも日本では女は戦闘機に乗れないし……まあでもそれ以前に、航空学生を受けてダメだったんですけどね」
「エヘヘ」と苦笑いすると、彼女はまたいつもの溌剌とした口調に戻った。
「でもやっぱり戦闘機に触れていたくて、パイロットが駄目なら整備になろうと思ったんです。だから絶対空自に入るつもりでした。新隊員枠で受験した時の問題用紙に、陸海空の希望を第1から第3まで書く欄があったんですけど、私、思いっきり念を込めて全部『空』って書いちゃいました」
「思い切ったことやるなぁ……よく不合格にならなかったよな」と呆れている皆川3曹の横で、彼女は「きっと熱意が伝わったんです!」とその大きな胸を張った。
「入ってからの適性検査に工具の名前とか使い方もちらっと出たっていう話を聞いてたんで、入隊する前に近所のおじさんから整備の基本について色々教えてもらったりもしたんですよ。その人は自動車の整備士で分野は違ったんですけど、そのおかげか希望が叶って航空機整備員になれました」
オイルで顔や服を汚しながら、近所のおじさんにまとわりついてかしましく質問しまくる磯貝嬢の姿が目に浮かぶようだ。
きっと彼女はラッキーだったんだろう。
念願の空自に振り入れられたとしても、希望どおりの職種になれるとは限らない。その時々の組織の需要に応じて新隊員を充てる職種枠の種類や育成人数が決まるからだ。
更に、一口に航空機整備と言っても、仕事内容はかなり細分化されている。エンジン、油圧、電機、計器といった各分野専門の特技職に分かれるので、整備だからと言って必ずしも駐機場の列線で実際の運用に従事する航空機整備員になれるという訳ではない。
加えて、戦闘機部隊を希望していたとしても、採用枠がなければ配属されることは叶わない。
磯貝士長の場合はもちろん運も良かったのかもしれないが、そんな中で希望どおりの道に進めたのは、本人の強い想いと努力する姿勢も認められたのだろう――彼女の話を聞いているとそう思えた。
「整備って、皆川先輩のように純粋にメカ好きな人もたくさんいますけど、私みたいにパイロットになれなくて、『それならせめて飛行機の近くで』って思って希望する人も多いんです。そんな私たちから見たら、夢や憧れで終わらせてしまったものを実現してるイナゾーさんやパイロットの皆さんはほんとに凄いなぁ……って思います。実際に間近で見ているとものすごく大変そうだし、カッコいいとか憧れだとか、そんな言葉で簡単に済ませたらいけないくらいシビアな仕事だとは思いますけど――それでも、選ばれた人しか手の届かない世界だからこそ頑張ってもらいたいし、私たちも精一杯支援したいと思うんです」
力を込めて熱く語る彼女の目は本当にキラキラと輝いていた。隣で皆川3曹も深く頷いている。
面と向かってそう褒めそやされて励まされるとこそばゆくて仕方ないが、改めて、こういう隊員たちの想いに支えられて自分たちは飛んでいるんだと実感する。
『プライドを持ち、同時に謙虚であれ』
浜松基地での基本操縦課程を修了し、晴れてパイロットと呼ばれるようになった日。主任教官は最後の講話のために教壇に立つと、俺たちに向かってそう言った。
『航空自衛隊は飛行機を飛ばしてなんぼだ。そして操縦するのはお前たちだ。だが、飛行機を飛ばすのはお前たちだけじゃない。パイロットを空に上げるために、どれだけの隊員が支えているのかを頭の片隅に必ず置いておけ。航空機の整備員や管制官のような、お前たちと直接やり取りする隊員の他にも、多くの存在がある――飛行場を常に不具合のない状態に管理している隊員たち、フライト中の万が一に備えて待機している救難や消防、健康に直結する食事を提供してくれる給養、基地の安全を保つ警備に至るまで、彼らがそれぞれの仕事をしっかりこなしていてくれるからこそ、初めて自分たちパイロットはその特技を活かせる。そして組織として最大限の能力を発揮できるんだ。彼らの職のどれが欠けても、飛行機は安全に飛ばせなくなる』
切望して止むことのなかった燻し銀のウイングマークを初めて左胸につけた俺たちは、感激に打ち震えながら大先輩の言葉を拝聴していた。
『空自は掛け算の組織だ。掛け算で次々に数字を掛けていって、どんなに大きな積になっていたとしても、どこかで零が混じれば途端に結果は零になる――つまり、任務達成は不可能となる。そうなることなく航空機を運用し、組織として100パーセントの能力を発揮できる態勢に整えられているのは、すべての隊員たちの努力の積み重ねだ。ウイングマークを目指して今まで厳しい訓練に耐え努力を続けてきたお前たちは、自分の特技に対するプライドを持っていい。だがそれと同時に、パイロットを支える存在に対する感謝と敬意も忘れてはいけない』
「――君たちがそういう気持ちでやってくれているから、俺たちは何の不安もなく飛べるんだな……」
当時のコマンダーの言葉を思い出し、まったくそのとおりだとしみじみ感じながらそう口にすると、皆川3曹も磯貝士長も照れくさそうな笑顔を見せた。
向かいの席では、飲んでも飲んでも注ぎ込まれる酒にポーチがとうとう音を上げたところだった。杯代わりにしていた皿を側にいた先輩のリバーに押しつけ、「俺はしばらく休憩!」と叫ぶと畳の上に勢いよく寝転んでしまった。