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突然の辞令(4)

 結局、俺は何ひとつ励ましの言葉をかけてやることができないまま、自衛隊を去ってゆく後輩を黙って見送るしかなかった。きっとマルコとはもう二度と会うことはないだろう。


 全国に展開している自衛隊だが、実のところは案外狭い世界だ。異動でそれまでの同僚と別れたとしても、たまたま何かの集合訓練があった時や、入校や出張などの際に訪れた基地で久方ぶりにひょっこり顔を合わせるなんていうことも珍しくはない。

 しかしその一方で、いったん自衛隊という枠組みを出て一般社会に紛れてしまったとしたら、在隊していれば期待できるはずの偶然の再会はほぼ見込めなくなる。


 マルコはこれからどうするんだろう。奥さんと別れ、仲間からも離れ、あいつの居場所はどこにあるんだろう……。


 俺は沈んだ気持ちで改めて思い返した――それにしても、まさか離婚話にまでなっていたとは……。あんなに熱々だったオシドリ夫婦が……。


 奥さんと一緒に式場見学に行ったと嬉しそうに語っていた様子が、今更ながらに目の前に浮かぶ。


『嫁もドレスを試着したんですけど、どれ着てもほんと似合ってて。改めて惚れ直しましたよ!』


 『俺は嫁が命っすもん!』と満面の笑顔で言い切っていたマルコ……。


 旦那がパイロットでなくなったからといって、こんなにあっさりと見捨てるものなのか? もう飛行機には乗れなくなったという理由だけで? 奥さんは、最初からただマルコの肩書きに陶酔していただけなのか……?


 考えれば考えるほど混乱してくる。奥さんに対する腹立たしさが膨らむばかりで、その行動の意味が理解できない。

 マルコのエマージェンシーが起こってからというもの、事情がはっきりと見えないままずっと悶々とする日々が続いていた。ようやく事の次第が分かりかけた矢先にマルコから聞かされた驚愕の事実。泥水のような水面を必死に見つめ、どうにか濁りが落ち着いて底が覗けるかと思ったところへいきなり重い石を投げ込まれた気分だ。


 第三者の俺ですら頭の中の整理がつかないほどなのに、当事者のあいつが受けたショックはどれほどのものだったろう……。


 課業が終わって独身幹部宿舎(BOQ)の自室に戻るや、俺は部屋の冷蔵庫に直行した。常にストックして冷やしてある自分の缶ビールを2本掴み出す。

 先に戻っていたアディーはもう風呂も済ませたのかさっぱりとしたジャージ姿で机に向かって勉強していたが、帰ってきた俺が荷物を置きもせずに冷蔵庫に頭を突っ込んだのを見て、ノートに書きこんでいた手を止めた。


 俺はビールの片方をアディーに押し付けた。


「何ていうかさ、やりきれねぇよ」


 フライトスーツのままダイニングチェアに勢いよく腰を下ろし、力任せにタブを開けてビールを一気にあおる。


「なんでこのタイミングで離婚の話になるんだよ。普通、こういう時こそ支えが欲しいもんだろ? それなのに別れるって、一体嫁さんはどんな神経してるんだよ。パイロットじゃなくなったからって、はいサヨナラか? 信じらんねぇよ」


 俺が苛々と文句を垂れるのを黙って聞いていたアディーは、「マルコ、離婚することになったのか?」と僅かに眉を寄せて訊ねてきた。俺はやり場のない憤りにむっつりとしたまま頷き、マルコと最後に言葉を交わした時の一部始終を話してやった。


「お前の言うことはもっともだけど――」


 アディーは手元の資料を閉じて回転イスに座ったまま俺の方に体を向けると、ビールのタブを起こしながら口を開いた。


「男女の話は当人同士にしか分からないからな。でも……いつかはこうなるんじゃないかとは思ってた」

「ほんとか? どうして」


 俺は驚いて身を乗り出した。


「マルコと奥さんの間でどんなやり取りがあったのかは知らないし、これはすごく穿った見方になるけど――」


 慎重にそう前置きしてアディーは続けた。


「航学の時の旅行騒ぎもちょっとひっかかるものはあったし――この前の航空祭、覚えてるか? マルコと奥さんに会った時、奥さん、あいつのことを『マルちゃん』ってタックネームで呼んでたんだよ。つまり奥さんにとっては、戦闘機に乗ってタックネームを持っている旦那が自分のステータスだったんじゃないかな。何事も起こらなければそれでも当たり障りなくうまく過ぎていったんだろうけど……。だから、パイロットを続けられなくなったらもう、そのステータスのない旦那と一緒にいる価値がなくなった――そういう風に感じられるけどな」


 「あくまで俺の勝手な想像だけどね」とアディーは改めて念を押すように付け加え、ビールに口をつけた。いつになく醒めた表情だ。マダム騒動の時に見せたのと同じ顏付き――女に対する突き放した冷淡さが覗いていた。

 後輩の離婚話を聞いても驚くことなく平静な態度のままのアディーを意外に思いながら、俺は腕組みして唸った。


「奥さん、そんな風に考えるような人には全然見えなかったけどな……。俺、女性不信になりそうだ」


 ひょっとしてターニャさんも、俺が今の職に就いているからツーリングの誘いに応じてくれたんだろうか――ふとそんなことが頭をよぎり、少しばかり気が重くなる。


「みんながみんなそういう訳ではもちろんないだろうけどね。でも、見た目に関係なく、世の中にはそういう種類の打算的な人間も確かにいるんだよ」


 アディーの口ぶりがあまりに淡々として悟りめいているので、俺はついまぜっ返してやりたくなった。


「やけに分かったようなことを言うね、アディーちゃん。さすがは経験豊富なマダムキラー」

「今まで付き合ってきた相手は大抵そうだったし、そもそも俺の母親がそういう人間だったからね」


 さらっと返された言葉に、ビールをあおっていた俺は思わず動きを止めてそっとアディーを盗み見た。

 アディーは足を組んでゆったりと背もたれにもたれかかったまま、手にした缶に目を当てている。そして、取り立てて感情を露わにすることもなく、いつもと変わらない態度で話し始めた。


「俺の父親は長いこと大手の商社に勤めてたんだ。でも、俺が中学に入ってすぐぐらいに、病気になって仕事をクビになってね。ある時学校から帰ってきたら、母親の姿がなかったんだ。夜中になっても次の日が来ても母親は戻ってこなかった。それから少しして、別の男のところに逃げたんだと分かった。父親と同じ職場の、もっと社会的地位のある男のところにね」


 アディーが父子家庭で育ったというのは知っていたが、今まで詳しい事情までは聞いたことがなかった。

 短く語られた出来事は、その当時、思春期真っ只中の年頃だったはずのアディーにとっては衝撃的なものだったに違いない。


 一家を支える大黒柱が倒れるという危機的状況は、俺も高校生の時に経験したから分かる。

 「親父の代わりに自分がしっかりしなければ」と気負う一方で、先行きに対する数々の心配事を抱えて不安にし潰されそうになりながら、心細い思いで当面の日々を過ごしていた。そんな、身が細りそうな状況にある時に、せめて気持ちのり所となって欲しい自分の母親から「母」でも「妻」でもなく「女」としての利己的な振る舞いを見せつけられたら……それまでの人生観が一瞬で崩れるほどのショックを受けることは想像に難くない。


「……ごめん」


 軽々しく茶化してしまったことが何だか申し訳なくなって、俺はおずおずと謝った。

 アディーは「別にお前が謝ることじゃない」と言って苦笑すると、また真顔に戻って続けた。


「マルコの奥さんの場合もそうだとは言わないけど、根本には同じものがあるような気はするよ。奥さんの行動や判断をいいとか悪いとか言うつもりはないけどね」


 そう言うと、アディーはいつもの明るい眼差しを俺に向け、軽い口調で冗談めかして話を締めた。


「だからイナゾー君も、女を見る目をしっかり養うようにな」


 いつも人当たりが良く穏やかで、そつのないアディー。しかしその下には未だに捨てきれないわだかまりを抱えているのを垣間見た気がして、俺は黙って素直に頷いた。


 みんなそれぞれに、他人からは窺い知れないものを引きずって生きているんだ……。


 部屋に戻ってきた時には腹立ちまぎれにヤケ飲みするつもりの勢いでいたが、今はもうそんな気分でもなくなっていた。

 俺は手にしている1本を飲み干すと、どことなく神妙な心持ちで立ち上がった。


「――風呂、行ってくるわ」

「うん。まあ、ゆっくり入ってこいよ」


 アディーは労うような笑みを浮かべてそう言うと、再び机に向かって勉強に戻っていった。




 マルコがいなくなってからも、日々の業務は変わりなく滞りもなく粛々とこなされていった。それはまるで、大きな河の底にある小石をひとつ取り除いても、水の流れはまったく変わらないまま、この先も途切れることなくずっと続いていくような――まさにそんな印象だった。


 マルコの人生は大きく狂ってしまった。しかし組織は、これまで国防に貢献してきたひとりの元隊員に対しこれ以上の関心を持つことは決してない。生じた穴はいつしか補われ、何事もなかったように再び前へ進む。

 その徹底した無関心さに無情なものを感じつつ、しかし同時に俺自身も、それは仕方のない事だと理解はしていた。1人欠けたからといって物事がつまづくようでは、万が一の時に武力を持って整斉せいせいと行動することなど到底できはしないのだから。


 そして俺も結局は恒常業務に忙殺され、感傷に浸っている余裕はなかった。毎日のスケジュールに組み込まれるフライト、その前後のブリーフィング、翌日のフライトためのイメージトレーニング、体力錬成、割り振られるその他の付加業務……。


 マルコの件で受けた動揺は、既に過去のものとして気持ちの上で収めつつあった。そんな自分を薄情者のようにも感じたが、だからといっていつまでもこだわっている訳にもいかなかった。


 結局、どんな時でも前を向いて黙々と進んでゆかなければならないのだ。


 何があろうとなかろうと、月日は確実に過ぎてゆく。そして国防の任にあたる俺たちは、その一日一日を疎かに過ごすわけにはいかないのだ。


 ――気がつけば、年の瀬ももうすぐそこまで迫っていた。




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