突然の辞令(3)
俺の呼びかけに、ドアノブを回しかけていたマルコは動きを止めた。そして一呼吸ほど間を置いてから、ゆっくりとこちらを振り返った。
「イナゾー先輩……」
駆け寄った俺を前に、気まずそうに視線を落とす。
昼近くのこの時間帯、食堂に出向いている隊員も多いが、それでも奥のオペレーションルームにはぱらぱらと人が残っているはずだ。それなのに、誰もマルコが来たことに気づいていないようだった。
マルコは今まで共に過ごしてきた仲間たちに声をかけることもなく、ひっそりと立ち去ろうとしていた。
俯くマルコに、俺はわざと大袈裟なしかめ面を作って言った。
「黙って帰るなんて水臭いだろ」
「すいません……」
マルコは俺の胸元辺りに目を当てたまま、覇気のないぼんやりとした笑みを曖昧に浮かべて謝った。
目の下には隈ができていて、ほんの数週間前までは日に灼けて健康的な張りのあった頬の辺りも、今は随分やつれたように見える。一番のマルコらしさとも言えた不必要なまでのハイテンションな陽気さはすっかり影を潜めていた。そして何より、いつものフライトスーツ姿でも制服姿でもない、ごく普通のスーツを着た後輩をこの職場で見るのはとてつもなく違和感があった。
マルコは力のない目で俺を見て、「団司令と隊長のところで、退職の申告、終わらせてきました」と言い、そして深く頭を下げた。
「先輩、今までお世話になりました」
「お前……何でだよ、何で辞めるんだよ」
ずっと頭の中で繰り返していた疑問がそのまま口をついて出る。
マルコは顔を上げると、床に目を向けたまま呟くように答えた。
「飛ぶのが、怖くなったんす……」
「そんな――今まで何ともなかったんだろ?」
俺の問いに、マルコは黙って頷いてから言葉を続けた。
「あの時……上空に上がって空中格闘戦が始まった瞬間、ふっと頭を過ったんです――もし今事故を起こして俺が死んだら、家族はどうなるだろう、って。嫁はどんなにショックを受けるだろう、何年もかかってようやく結婚できたのに、って……。そしたら、もうダメでした。こんなことをしてる自分がとにかく怖くなって、悪い想像ばっかりがどんどん浮かんできて、訳分かんなくなって……」
俺はようやく理解した――今までもたまに耳にすることがあった。結婚したり子どもが生まれたりしたのをきっかけに、自分がその背に負っている存在の大きさを意識した途端、飛ぶことに恐怖感を抱いたという話を。実際にそれで飛行機を下りて職種転換した先輩の例も何度か噂に聞いたことがあった。
「でも、だからって自衛隊まで辞めなきゃならないのか……?」
「……もう仕事を続ける理由もなくなったんで――」
「理由がなくなったって……」
訳が分からずオウム返しにした俺を前に、マルコは俯いたままその口元だけに自嘲的な笑みを浮かべた。そして少しの間何かを躊躇するように足元に視線を落としていたが、やがて押し出すように呟いた。
「……嫁から離婚届を渡されました」
「離婚って……」
「だから、もう、いいんです」
離婚――俺はその言葉を頭の中で何度も反芻した。航空祭でわずかに言葉を交わした、ほんわりとした雰囲気のマルコの奥さんの姿が思い浮かぶ。彼女が一体どういう心情でそれを口にしたのか、想像が及ぶ限りに精一杯考えた。
「……奥さん、お前のことが心配で、待っているのに耐えられなくなったのか……」
「そうじゃないんすよ、先輩」
顔を上げたマルコはうっすらと投げやりな笑みを見せて即座に否定した。
「――嫁は、俺がもう飛べなくなったことが――自分の旦那がパイロットじゃなくなることが、耐えられなかったみたいっす……。救急車で病院に運ばれた後、俺、駆けつけてきた嫁につい漏らしたんです、『飛ぶのが怖い。もう無理かも』って。そしたら、嫁は泣き出して……。『ここまで支えてきたのに、何でいまさらもう飛行機に乗れないなんてことになるんだ、私の人生何だったんだ』って。泣いて詰られました……」
俺は愕然として何も言うことができなかった。
マルコもしばらく押し黙っていたが、不意にぽつりと呟いた。
「――航学の時に先任期の中隊長が言ってたこと、やっと分かりました」
『パイロットという肩書きだけに引かれて近づいてくる者もいる。軽率な決断をするな』――もう7年も前の出来事の記憶が、マルコのその言葉で鮮明に蘇る。
マルコが航空学生に入隊して1年目の後任期と呼ばれる学生だった時、付き合い始めたばかりの彼女――今の奥さんと泊りがけの旅行に行くという話が持ち上がった。
行動計画の提出を受けたマルコの区隊長や中隊長は反対し、承認印を押すことなく問答無用で突き返したが、大胆にもマルコはしつこく食い下がり、旅行の許可を求め続けた。
そうこうする内に、『保護者が認めているのになぜ駄目なんだ』と彼女の親から部隊に直接抗議の電話までかかってくる有様で、そんな事態に至って、先任期である俺の区隊長や中隊長までがマルコの説得と彼女の親への説明にあたる騒ぎとなったことがあったのだ。
教育専門職である後任期の区隊長や中隊長と違って、航学の先任期――つまり2年生の区隊長は航空学生出身の現役中堅パイロットだ。中隊長ともなると総飛行時間が3000時間を越えるようなベテランがその任にあたる。つまり、指導教官は自分たちの大先輩という訳だ。
その先任期中隊長は最初こそ『未成年の男女が一緒に夜を過ごすものじゃない』『お前の今の本分を忘れるな』と一般論的な言い方で説得を試みていたが、頑として聞き入れない強情なマルコに対して最後にははっきりと言っていた。
『パイロットという肩書きだけに引かれて近づいてくる者もいる。そういう人間にしてみたら、お前たちはその肩書きに手が届く有望株と見做されるんだ。自分自身で相手の真意を見極めることのできる冷静な目を持てないうちは、軽率な決断をするな』――と。
まだ飛行機に近寄らせてももらえない俺たちなんかウイングマーク取得までには遥かにほど遠いし、そもそもちゃんとパイロットになれるかどうかも定かでないのに、今のうちからそんな青田刈りのような真似をする打算的な人間が本当にいるのか――マルコを指導すべき立場である対番の先輩ということで、とばっちりを食ってその場に呼ばれていた俺もその話を横で聞きながら、半信半疑の思いだった。
しかし、その時既に、きっと区隊長にも中隊長にも見えていたのだ――いつかこうなることが。
彼女は「都丸浩太」に惚れていたのではなく、「パイロットになれるかもしれない都丸浩太」に――そしてウイングマークを取り戦闘機に乗るようになってからは「ファイターパイロットであるマルコ」に惚れていたのだ……。
最悪のタイミングで明らかになった残酷な事実。
リバーは「操縦適性を失ったからといって人間性まで否定されることじゃない」とマルコには伝えたと言っていた。
だが、マルコは既にその前に――パニックを起こしてパイロットとしてはもうやっていけないと自分自身で悟った正にその日に、これまで全身全霊を込めて大切にし信頼していた相手から、自己を完全に否定されていたのだ。
「……俺、何やってんですかね」
マルコが乾いた嗤いを向ける。
「嫁のためにも絶対に死ねないって思った途端、急に飛ぶのが怖くなってパニック起こして……もう二度と飛べなくなって。そしたら愛想つかされて……」
その声が震えた。潤んだ目から涙が伝い落ちた。
「――先輩、長い間お世話になりました」
絞り出すような声でそう言うと、マルコは涙を隠すように深々と一礼し、背を向けて飛行隊を去っていった。
立ち尽くしている俺の前で、マルコが出ていった扉がゆっくりと閉まりかけている。その隙間から吹き込んでくる風が、ことさら冷たく感じられた。