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突然の辞令(2)

 リバーは俺に目を当てたまましばらく迷っているようだったが、やがて思い切るように口を開いた。


「……マルコは上空でパニックを起こしたんだ。訓練開始直後にいきなり、『ここから出る、緊急脱出ベイルアウトする』と騒ぎ出して――」


 俺は考えもしなかった言葉に耳を疑った。

 パニック――あのマルコが――パニック……?


「過呼吸になりかけていて、無線もまともに応答できなくなって、今にも射出レバーを引く勢いだった。どうにか宥めて連れ帰ってきたけどな……」


 淡々と語られるその時の状況を想像し、思わずぞっと鳥肌が立つ。単座の戦闘機に乗りながら、それを操るのは自分のみという状況で、その自分自身が正気を保てなくなったとしたら――どんなに恐ろしい事態を招くか……。


「何か、パニックになるようなきっかけがあったんですか? ニアミスしたとか、空間識失調バーティゴに入ったとか……」

「何も。俺が知る限り危険な要因はなかったし、フライト前も変わった様子は見られなかった」


 編隊長リーダーとしての確たる掌握力を感じさせる迷いのなさでリバーは即答した。が、すぐに声を落として続けた。


「だから余計に何が原因なのか分からない。もしかしたら悩みがあったのか、それとも本当に突発的なものなのか――。何日かして病院に面会に行った時も、マルコは何も言わないんだ。ただ、『もう飛べない。自衛隊を辞めたい』――その一点張りだった」

「でも……ここまでやってきて、たった1回のことで自分から飛行機を下りたいだとか、組織もパイロット免にするだのって……。しばらく療養すれば気持ちも落ち着いて回復するかもしれないし……もうちょっと待ってみたっていいのに……」


 やるせない思いでそう抗いながらも、一方では俺自身も、きっとマルコはもう飛べないだろうと感じ始めていた。

 音速に近いスピードで進む機体をコントロールしながら、刻一刻と目まぐるしく変わる状況に応じて反射的に即断し、閉じられたコクピットの中ですべてをひとりで対処しなければならない戦闘機乗り。実戦でなく、たとえ訓練であったとしても、一瞬の判断のミスが時として命を失う大事故に直結する世界だ。その座席に座ることに一度恐怖心を抱いてしまったら、二度と乗ることはできないだろう……。


「マルコはな、もうパイロットとしての適性を失ったんだ」


 言葉を無くして黙り込んだ俺に言い聞かせるように、リバーが静かに言った。


「芦屋の13教団で教官をやっていた時、俺は何人もの学生を首にしてきた。もちろんやる気と根性の無い奴もいたが、ほとんどは何としてもウイングマークを取ってパイロットになりたいという人間ばかりだ。お前も分かるよな? そんな奴らを首にした。子どもの頃からの夢を諦めさせた――そうしないと、いつか必ず命を落とすことになるからだ。下手をすれば自分だけじゃなく、他人の命まで巻き添えにしかねない。情をかけることは、本人のためにはならないんだ。適性のない者に操縦桿を握らせることはできない。マルコはその適性を失った――それはあいつ自身が一番分かっているだろう……」


 リバーは俺から視線を外すといったん言葉を切り、小さく溜め息をついた。が、すぐにまた強い信念の籠った眼差しを向ける。


「だけどな、パイロットの適性がなくなったからといって、それは人間性まで否定されることじゃない。これは俺が学生を免にする時にいつも言ってきたことだ。パイロットになれなかったからといって――パイロットでなくなったからといって、自分は駄目な人間なんだと思い詰めて塞ぎ込む必要はまったくない。適性があるかないか、ただそれだけの話だ。今回のことは俺があいつを首にしたわけじゃないが、マルコにもそう伝えた」


 リバーがマルコに言わんとしたことは理解できた。「人間性まで否定されることではない」――そのとおりだと思う。でも、もし俺自身がマルコと同じ状況になったとしたら――「お前にはもう操縦資格はない」と宣告されたとしたら、俺はどう感じるだろう。18の時からただひたすら努力して、きつい訓練をこなし、胃に穴が開きそうなほどのストレスに絶えず晒され、しかしそれらすべてを戦闘機乗りになるために歯を食いしばって耐えてきた。


 ここまで必死になって突き進んできた道を突然閉ざされたら、自分には何が残されるのか。俺は一体何ができるだろう――考えてみるが、何ひとつ思いつくものがない。そんな状況に追い込まれたとしたら――想像するだけで足が竦む。マルコは今まさにそんな心境に違いない。


「――リバー先輩の言いたいことは俺もよく分かります。それでも……あいつはきっと、パニックを起こした自分に相当ショックを受けたんですよ……自衛隊まで辞めるなんて……」


 手元のシラバスに目を落としてそう呟くと、リバーも硬い表情で頷いた。


「俺も早まるなとしつこいくらいにマルコに言った。隊長も班長も退職は思いとどまらせようと何度も病院に通って説得しようとした――でも駄目だった。あいつはじっと俯いて、とにかく辞めたい、このまま働き続ける意味が自分にはもうない、そう繰り返すだけだった。隊長が、とりあえずは退職の話は保留にしておくから早急な決断はするなと諭すと、『辞められないなら死んだほうがよっぽどマシだ!』なんて喚いて暴れ出して……医者から面会ストップがかかってな……。このまま無理に続けさせたら自殺しかねないという話になって、やむなくあの辞令が出されたんだ」


 俺は思わず溜め息を漏らした。

 操縦ができなくなったとしても、自衛隊まで辞めることはないだろう……。辞めて、これからどうするんだよ……。嫁さんとようやく結婚できて、幸せ真っ只中だったんだろ……?


 リバーと話をし、ようやくうっすらと事情が明らかになってからも、モヤモヤとした気持ちが抜け去ることはなかった。


 それでも、今までと変わらず毎日は過ぎてゆく。

 隊長や班長は、マルコの件で隊内に広がった動揺がマイナスの連鎖に繋がらないよう、これまで以上に注意深く隊員たちの様子に目を配っているようだった。


 リバーやジッパーはいつもと同じ態度で業務をこなしつつ、さり気なく俺のことを窺っていた。訓練に集中しきれていないのではないかと心配しているのは分かっていたし、俺自身も、実際そうなのだろうという自覚はあった。2人の先輩からの気遣いをありがたいとは思いつつ、多少居心地悪くも感じながら、頭の片隅にはすっぱり割り切れない後味の悪いものが常に居座っていて、どうにも振り払うことができなかった。


 俺の斜め向かいのマルコの席では、ライズが机の上に大きな段ボール箱を乗せて、残された私物を丁寧に詰め込んでいた。総括班長あたりから荷物をまとめておくように言い付かったのだろう。

 やがて、マルコの使っていた机やロッカーはきれいに片付けられ、荷物の入った箱は総括班に預けられた。


 辞令の付け日である10日が来ても、飛行隊はいつもどおりに動いていた。朝の全体マスブリーフィング、離陸前のプリブリーフィング、防空指令所(DC)との打ち合わせ、第1回目(ファースト)でのフライト……。


 飛び終えて地上に戻ってくると装具一式を救命装備班に預け、手早く汗を拭った。海水温が下がる冬場には、ベイルアウトして着水した場合に備えて耐水服を着用することになっている。普段でも1回のフライトを終えると汗だくになるのに、厚手で窮屈な耐水服を着ているとなおさら、たとえ真冬だったとしても汗びっしょりになるのだ。


 一足早く機体を降りて戻ってきていたジッパーとポーチは、既に着替えを済ませて部屋を出るところだった。


「イナゾー、先にメシ行ってるぞ。早く来いよ」


 遅出のファーストを終えて下りてくればもう早飯の時間になる。

 俺は声をかけてきたジッパーに返事をして身支度を整え、身軽なフライトスーツの格好に戻った。ジャンパーに袖を通しながら廊下に出る。外の空気はここ数日冷たさを増してきていた。上着無しで食堂まで自転車を飛ばしていくのはさすがに寒い。


 先輩たちの後を追って通用口へと急ぎかけた俺は、ふと目をみはって足を止めた。出入り口の近くにある隊長室を辞して帰ろうとしている男性客の後ろ姿が廊下の先に見えた。


 地味なスーツを着ているが、細身で中背の立ち姿には確かに見覚えがあった。何よりも、特徴的なソフトモヒカン風の栗頭――間違えようがない。


「マルコ……!」


 出入り口のドアノブに手をかけて今まさに飛行隊舎を出て行こうとしている後輩を、俺は追いすがるようにしてとっさに呼び止めた。





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