エマージェンシー(2)
オペレーションルームの窓際に張りついて外を窺う者、飛行隊前の駐機場に出る者――隊長や飛行班長だけでなく飛行班の誰もが皆、言葉少なに北側滑走路の先を見上げ、空の一点を凝視していた。
2機のF-15は、真横に伸びた主翼と特徴的な2枚の垂直尾翼のシルエットが地上からでもはっきり視認できる距離まで来ていた。既に速度は通常よりもずっと落ちている。着陸灯を灯した機体は左右にふらつき姿勢が安定していない。その斜め上にぴったりと付き添うようにして、リーダー機のリバーが飛んでいた。
『スピードブレーキを開けろ――そう。機首を少しずつ上げて――ストップ、そこで保持。パワーを絞って――そのまま。操縦桿をゆっくり左に――よし、ストップ。フックを下ろせ。レバー、ダウン――』
リバーからマルコに向けて発せられる必要最低限の簡潔な指示を聞いているうちに、かつて福岡県の芦屋基地で初めてジェット練習機での単独飛行に出た時の記憶が蘇ってきた。
あの頃は今考えればとんでもなく危なっかしい飛び方だった。玄界灘の海面を見下ろしながら、万が一何か起こっても最後に頼れるのは自分のみという状況で、ジェット機のスピードに遅れを取らないよう無我夢中で操縦桿とスロットルレバーを動かしていた。
そんな俺の傍らで、まるで親鳥のように並走していた教官機。一挙一動に目を配り、必死になって機体を操ろうとする学生を混乱させないよう必要な時にだけ短い指示を与えていた――まさに今のリバーと同じように。
機影は次第に大きくはっきりと見えつつあった。
飛行場には風が吹き渡っていた。滑走路脇に設置された赤白の縞模様の吹き流しはほぼ水平に近い位置まで浮き上がってはためいている。管制官はリバーに風速18ノットと告げていた。ほぼ進入方向正面からの向かい風――着陸の支障にはならないはずだ。
それなのにマルコの機はまるで強い横風を受けて煽られているような不安定さで進入してくる。リバーが姿勢を安定させようと再三指示を出しているが、状態は一向に変わらない。コントロールが難しいのか、ふらふらと頼りなくよろめくように高度を落としてくる。
普通なら、長く伸びる滑走路に入ってすぐのあたりに接地するよう機体を持ってゆく。しかしマルコはおぼつかなく高度を上下させながらスピードがついたまま接地帯付近を過ぎ越し――そのまま滑走路中央へ――と、一気に落ちるような勢いで着地した。摩擦で主脚のタイヤから白煙が巻き上がる。
『アイドル、ブレーキ!』
マルコを見守りながら上空を低速で通過してゆくリバーが叫んだ。
スロットルを引いてエンジンの推力を最小限に落としブレーキを踏む――果たしてマルコはその操作ができたのかどうか。滑走スピードは変わらない。か細く見えるフックは滑走路に激しく叩きつけられた衝撃で上下に跳ねながら、路面と擦れて激しく火花を散らせている。
「マルコ、エンジンカットしろ!」
パールが手に握ったハンドマイクに怒鳴った。
機体は速度を落としきれないまま滑走路を疾走してゆく。
「掴め……ワイヤを掴めよ……」
ハンドマイクを握り締め、滑走を続けるマルコの機を凝視して、低く押し殺した声でパールが呟く。
機体が滑走路の両脇に設置された着陸拘束装置の間を駆け抜けた――が、引っかかるはずのワイヤの姿が見えない。接地の際の衝撃でバウンドし続けていたフックが掴み損ねたのだ。
「くそっ!」
固唾を飲んで見守る飛行班員たちが呻く。
最後の頼みは、滑走路端から連続する過走帯に入る直前に張られているもう1本のワイヤ。それに引っかからなければ、後は飛行場の草地へそのまま突っ込むことになる。
滑走路が途切れ、機体は横一列に並んだ滑走路末端灯を踏み潰しながら過走帯に走り込んでいった。
――掴め……!
誰もが息を詰めて凝視するその先で――機体の尾部に垂れ下がって路面を擦っていたフックが突然大きく跳ね上がった。ワイヤが引っかかったのだ。フックに掴まれたワイヤは衝撃で激しく波打ちながら高速で制動装置から引き出されてゆく。
スピードの残る機体は過走帯に倒してある小型機用のネットバリアの上をそのまま踏み越し、なおも走り続ける。そして、引っ張られてテンションの高まったワイヤをフックの先から長く伸ばしたまま数十メートル進んだ後、急速に速度を落とすとやがてゆっくりと停止した。
いつもなら掠れたエンジン音を響かせているF-15は尾部から制動装置本体までワイヤをピンと張ったまま、過走帯の上で完全に沈黙していた。マルコはどうにかエンジンを切っていたのだ。
『当該機ヒット・バリア、場内救難発生。繰り返す、場内救難発生。時刻、1508――』
すぐさま基地内一斉放送が状況を報じる。
地上間の無線交信がにわかに慌ただしくなった。救急車や救難対処要員を乗せた車両が一斉に滑走路の南端を目指して動き出す。前進待機していた消防車は既に滑走路内に進出している。
隊長が傍らのパールに早口で指示を出した。
「滑走路閉鎖だ。在空機は代替飛行場に向かわせろ。15のフライトは小松、19のフライトは松島だ」
上空で待機中のパイロットたちに、パールから直ちに無線で指示が知らされた。
『15、了解。17、18とともに小松に向かう』
リバーは編隊メンバーのエンジョイ17と18と合流する旨を管制塔に告げると、管制官からの指示に従って飛行場の西側へと抜けていった。
ヒットバリアの事態となった現場では、集まった作業要員たちがそれぞれの役目に従って忙しく行き来していた。
反射材のついたベストを身につけた隊員が数人がかりでワイヤを引っ張り、緩みを作ってフックから取り外しにかかる。
その一方、滑走路を逸脱した機体はキャノピーが開けられ、F-15の背に登った整備員たちが変調をきたしたパイロットをコクピットから助け出そうと苦闘している様子が見えた。幾つもの手がマルコを抱きかかえるようにして高さのある機上から慎重に下ろしている。
意識があるのかないのか、自力で動けるのか無理なのか――マルコが一体どんな状態でいるのかと目を凝らすが、現場まで距離があることに加えてマルコを取り囲む人の背中に阻まれてここからでははっきりと見極めることができない。もどかしさだけが募る。
双眼鏡を使って救助の様子を注視していた隊長は、背後にいた総括班長のピグモを振り返り、てきぱきと指示した。
「衛生隊に連絡して状況を確認してくれ。必要であれば付き添いを頼む」
「了解しました――奥さんに連絡はどうしますか」
「とにかく状況がはっきりしてからだ。マルコの容体が分かり次第電話を入れてくれ」
「了解です」
ピグモは頷くと足早にオペレーションルームを出ていった。
日頃、何かにつけて「嫁が、嫁が」と嬉しそうに吹聴していた後輩の顔が思い浮かんだ。
航空祭で目にした、愛妻を細やかに気遣うマルコと、自分を大事にしてくれる夫の傍らにいて幸せそうな奥さんの姿――。
夫が緊急事態に陥り重大事故を起こしかけたという連絡を受けた時、奥さんは一体どういう気持ちになるだろう。「俺が守ってやらないと」とマルコを意気込ませるような雰囲気の女性が、この事態に耐えられるだろうか……。
やがて、滑走路上にいた救急車がサイレンを鳴らしながら誘導路を戻り始めた。そしてそのまま駐機場を通り抜けると、管制塔脇から飛行場地区を出たようだった。サイレンは止むことなく次第に小さくなっていった。正門を出て外の病院に向かったのだろう。基地の中では手に負えないということなのか……。
オペレーションルームの窓からは、キャノピーを開けたまま無人となったコクピットを晒しているF-15と、今は沈黙したその巨体をゆっくりと引きながら戻ってくる牽引車が見えていた。