エマージェンシー(1)
『オペラ、15』
飛行場を見渡す運用幹部席に詰めている先輩がすぐさま無線のハンドマイクを取り、呼び出してきたリバーに応答する。
「こちらオペラ。どうぞ」
『マルコにトラブル発生。訓練中止し帰投する』
「状況は」
『フィジカル・エマー。コントロールが難しい様子。アンビを要請する』
俺は思わず耳を疑った。
フィジカル・エマー――体調不良による緊急事態と聞いても、どうせ腹でも下して冷汗を垂らしているんだろうという程度にしか思わなかったが、救急車を要請するほどというのはただ事ではない。
それぞれの卓でディブリーフィングにあたっていた飛行班員たちも、無線機から流れるリバーの言葉に怪訝な面持ちで顔を見合わせている。
たまたま飛行管理員のいるカウンターのところで何事かを話していた隊長と飛行班長は、リバーの報告を耳にすると表情を硬くして視線を交わした。飛行班長のパールが運用幹部から対空無線のハンドマイクを受け取り、素早く席に着きながらリバーに状況を確認する。
「着陸に問題は?」
『非常に厳しいと思われる。ヒットバリアの可能性あり。エマーに準じる対処を要請。自分が上からフォローする』
リバーの声はいつもと変わらず落ち着いているが、伝えてきた内容はかなりシビアだ。
着陸の際に自力では止まりきれずに、機体の尻についたフックを着陸拘束装置に引っかけてブレーキをかける「ヒットバリア」の可能性、緊急事態に準じる対処、救急車の要請……。
マルコ自身が緊急事態を宣言しないのは明らかにおかしかった。通常であれば当該機のパイロットからの緊急事態宣言を受けることにより、各地上部隊の初動が開始されるのだ。
パールは再び隊長と目を見交わすと、早口で無線に告げた。
「了解。リバーは可能な限り逐一状況を報告しろ」
隊長が緊急時の初動対処を担う部署である飛行場勤務隊に電話を繋ぐ。隊長からの要請を受けてすぐさま基地内に緊急事態の発生を知らせるサイレンが鳴り響いた。
続けざまに隊長は7空団飛行群の群司令にも連絡を入れ、当該機のパイロットからの宣言なしにエマー対処にあたる旨を手短に報告していた。
パールがカウンターの中の飛行管理員を振り返る。
「在空機は」
「当該機含め8機です」
即答したモッちゃんに頷いてパールが続けた。
「各機のポジションを防空指令所に確認しろ。滑走路閉鎖になる可能性もある」
そう指示を出すと再び体を戻して運用席に向きなおり、ハンドマイクの送話ボタンを押した。
「各編隊に告ぐ。ランウェイ・クローズの可能性あり。空域での訓練は一時スタンバイ。繰り返す、空域での訓練、一時スタンバイ。各機、残燃料を報告しろ――」
隊長は飛行管理員の荒城2曹が書きこんでいる緊急事態の推移現況ボードに目を当てながら、慌てた様子でオペレーションルームに入ってきたピグモを捉まえて声をかけた。
「総括班長、防衛部に連絡して、小松と松島で何機受け入れ支援が可能か打診するよう言ってくれ。場合によっては在空機を向かわせることになるかもしれない」
「了解です」
すぐにピグモは手近にあった電話機の受話器を手に取ると、7空団の防衛部の内線番号をプッシュした。
――いつも人を食ったようなお調子者のマルコに、一体何があったというのか……。
異変を聞きつけて、オペレーションルームの外にいた飛行班員たちもすぐに集まってきた。状況が明確に分からない中で、誰もが気遣わしげに無線交信に耳をそばだてていた。
隊長と班長は運用席に張りついて、上空のリバーと頻繁にやり取りしている。
電話はひっきりなしに鳴っていた。緊急事態を報じるサイレンと基地内一斉放送を聞いた各部署からの問い合わせや管制塔から流される情報に、カウンターの向こうで荒城2曹とモッちゃんが慌ただしく応対にあたっている。
外では、整備小隊の牽引車や非常事態対処要員の隊員たちを乗せた整備補給群の幌付きトラックが続々と飛行場勤務隊前の駐機場に集まり始めていた。サイレンを響かせて救急車も到着し、整列している人員や器材の列に加わったようだ。
消防班からは、在空機がある時には常に滑走路中央付近で待機している消防車の他に、更にもう1台が待機場所手前まで進出してスタンバイした。
それらの動きとは別に、1台の作業車が滑走路の南側を目指して誘導路を疾走していくのが見えた。施設隊のバリア班の人員を乗せたトラックだ。マルコのエマー機がヒットバリアする可能性の示唆を受けて、南寄りの滑走路脇に設置された着陸拘束装置のワイヤを張りに行くのだ。
カウンターで電話を受けたモッちゃんが声を上げた。
「隊長、防衛部から。小松、松島共に受け入れは4機――合計で8機可能とのことです」
「了解」
隊長は外に目を向けたままモッちゃんの報告に応じた。
『15、インテンション』
管制官がリバーの意図を尋ねる。
『16はスリー・シックスティーでの着陸は難しいと思われる。ストレート・インで下ろしたい』
『了解。16、ストレート・インでの着陸を許可する。使用滑走路21』
低速域で最も脆弱になる戦闘機は、着陸直前までできる限り速度を保ったまま下りようとするために、飛行場に進入してくると滑走路上空を360度旋回しつつ短時間で速度を殺して着陸する。何ということはない手順だ。
それをせずに滑走路の延長上から徐々にスピードを落としながら真っ直ぐに進入してくる方法を取るというのは――一体どんな状況なんだ?
しかも、パイロットは与えられた管制指示を必ず復唱することが決められているが、着陸を許可されたエンジョイ16に乗るマルコからの応答はない。
今までにない異様な状況に、この場にいる全員が途惑いと不安の表情を浮かべている。
地上交信用無線のハンドマイクを手に握りながら厳しい表情でじっと飛行場を注視していた隊長が、思い切ったようにその手を口元に持っていった。
「モーボ、オペラ」
滑走路脇で監視を行っているモーボ幹部を呼び出す。
「速やかにモーボから退避。オペレーションに戻れ」
その指示に俺はどきりとした。隊長は口を引き結んで窓の外に真剣な眼差しを向けている。
通常、飛行訓練を行っている時には滑走路脇のガラス張りの移動統制車両にパイロットが一人詰めて、離着陸時におけるギアの上げ忘れや下げ忘れ、バードストライクになりそうな状況など、トラブルの原因となる事案がないかどうかを監視している。いわば、航空機を安全に運用する上での最終チェック機能だ。
その任務に当たっている人間を今の状況であえて呼び戻すということは――隊長はマルコの機が滑走路を逸脱し、モーボに突っ込むという事態まで想定しているということだ。
「モーボの機能はここで代替する。可能な限り詳細に監視しろ」
隊長の言葉に、運用幹部は緊張した面持ちで傍らの双眼鏡を引き寄せた。
誰もがただ状況の推移を見守ることしかできない。
「――大丈夫、リバーがついてる。あいつなら必ずうまくやってくれるはずだ」
運用席に向かって無線に耳を澄ませている班長が、機が進入してくる方向の空に目を凝らしながら誰に言うともなくそう口にした。
『ギアを下ろせ――チェック。ゆっくりパワー絞れ――そう。顔を上げて。滑走路を確認しろ――』
ひとつひとつ丁寧に、そして明確に着陸の手順を示すリバーの声だけが無線機から流れてくる。マルコから一切応答がない状況が空恐ろしい。
皆が固唾を飲んで見つめる遥か彼方の上空に、ごく小さな光が瞬いた。前脚についた着陸灯の光だ。
やがて、うろこ雲が薄く広がる空の中に2つの機影が見え始めた。