航学魂
日曜の朝を迎えた独身幹部宿舎の玄関ホール。
古びたスチール製の靴入れが並ぶ寒々しい空間に、足元に置いたCDラジカセから疾走感たっぷりの軽快なハウスミュージックが流れている。一応、まだ9時過ぎなので気を遣って音量は控えめにしてある。
自衛隊の建物の入り口には必ず据え付けてある大きな鏡の前で、俺とアディー、ライズにデコとボコの5人は腰をくねらせて真剣に踊っていた。英語で挑発的に歌う女性ボーカルに合わせて右に左にステップを踏み、手を上げたり下げたり振り回したり、連続ターンでふらついてみたり、ぎくしゃくしながらも皆必死だ。
12月も近くなって朝晩めっきり冷え込むようになり、外気が入りやすい宿舎の玄関ホールも底冷えがするようだ。そんな場所にいて俺たちは汗だくになっていた。BOQ住まいの航空学生組で忘年会の時に披露する宴会芸の練習の真っ最中だった。
今年の宴会芸の主眼を『クール・アンド・セクシー』と決めるや、俺は時間を見つけて近くのレンタルビデオ店に出かけて行って、コンセプトに適いそうなミュージックビデオを借りてきた。5人でそのビデオを何度も見返しながら頭を突き合わせて振り付けを考え、休日を何回か丸々潰して皆で練習に励んだ。ある程度形になってきたので、今日は鏡の前で合わせて踊ってみようということになったのだ。
ビデオに出てきたダンサーたちの激しい動きを色々と取り入れたので、一曲通すとかなり息が上がる。普段は使わない筋肉まで動かすせいであちこち筋肉痛だ。
「いちにっさんっ、ターン! にぃにっさんっ、ポーズ!」
俺も一緒に踊りながら、途中で口が回らなくなるくらいの速い拍に合わせて要所要所で指示を飛ばす。真面目なライズが律儀に笑顔を作って踊っているのが鏡越しに見えた。去年のメイド服でのキュートなダンスの時に散々「笑顔で!」と指導したせいだろう。しかし今年は目指すところが違う。
「ライズ! 笑いながら踊るな! 今回は『クール・アンド・セクシー』だからな! 外国のファッションショーのモデルみたいに無表情でいけよ!」
「はい!」
ライズを指導すると、今度は列の一番右端にいるボコの腰の出し方が足りないのが目につく。
「おいボコ、腰もうちょい左!」
「はいっ!」
「あと5センチ!」
「こ、こうですか!?」
「よし!」
やるからには一糸乱れず整然と揃った動作を求めてしまうのが自衛官の哀しい性だ。
「いいか、みんな! とにかくセクシーにだぞ! しっかり状況に入れよ!」
慣れないダンスの忙しない動きに汗を飛び散らせ、5人でひたすら踊る。今や誰もが真剣そのものだ。
これこそが航学魂――おバカなことほど全力で取り組むのが、『やる気・元気・負けん気』をモットーに掲げる航学学生の伝統なのだ。
曲もラストに差しかかった。
腰を振り、3連続ターンに続いてそれぞれがラストのポーズをビシッと決めたところに、ジャージ姿の営内者が外から帰ってきた。確か通信隊の若手幹部だ。
ターンしてきたアディーを引き寄せて抱きとめた格好の俺と、その両脇で煽るようなセクシーポーズをとるライズとデコとボコ。玄関先で汗をダラダラ流して無表情でポーズを決めた男5人に出迎えられた彼は、小さく悲鳴を漏らして一歩後ずさった。目を白黒させて僅かの間硬直していたが、やがてぼそっとひと言、「……お疲れ様です」とだけ言って頭を下げると、極力俺たちと目を合わせないように壁際を伝ってそそくさと2階へ逃げて行った。
よっぽど怪しい集団だと思われたか、305のパイロットたちがまたアホなことを始めたと思われたに違いない。だが、そんな他人の冷たい態度に怯むようでは、観客を大いに湧かせられる宴会芸にはなりえない。
とりあえず曲の区切りのついたところで、皆ゼイゼイと喘ぎながら汗を拭ったり廊下にしゃがんだりして一休みする。
「なかなかハードだね、これは。ある意味フライトするよりキツいかも」
激しい動きで乱れた髪を無造作にかき上げながら、アディーが苦笑して言う。するとデコも肩で息をつきながら真顔で頷いた。
「酒を飲んであんなにグルグル回ったら、自分、吐くかもしれないです……」
「宴会芸は気合と勢いだぞ! 吐きたくなっても我慢だ、我慢」
既に弱音を見せるデコの発言を一蹴した俺は、息を整えつつメンバーを見渡して言った。
「みんな、酔っぱらっても踊れるようにしっかり覚えとけよ」
再び玄関のドアが開いた。現れたのは救難隊にいる同期の比江島だった。シフト明けらしく、フライトスーツを着てキャップを被り、ヘルメットバッグを手にしている。外の冷たい風の中を帰ってきたせいか、丸っこい鼻の頭が赤くなっていた。
半袖にハーフパンツ姿で、上気した顔から汗を滴らせながら座り込んで休憩している俺たちを見た比江島の顔に、含み笑いが広がった。
「また305が張り切って面白いこと始めたな。この光景に出くわすと、年末が近くなってきたことを感じるんだよなぁ」
比江島はニヤニヤしながら「どれ、航空学生の名に恥じない宴会芸かどうか見ててやるから、ちょっとやってみろよ」と言って、航空靴を脱いでスリッパに履き替えると、壁際に陣取ってにわか審査員を決め込む。
ちょうどいいリハーサルだ。
俺たちはまたぞろぞろと一列に並んだ。CDのスタートボタンを押し、もう何遍繰り返して聴いているか分からない曲のカウントに合わせてステップを繰り出し、無表情で踊りまくった。
比江島は笑いをどうにか堪えようとするかのように口元をもごもごさせながらずっと脇で見ていたが、とうとう途中で我慢できなくなったようで盛大に吹き出した。そして最後まで見終わると、腹を抱えて笑いながら部屋に戻っていった。
よし、掴みはオッケー! 後は忘年会当日まで、時間を作ってひたすらブラッシュアップして完成度を高めるのみ!
比江島の反応に気を良くした俺たちはがぜん奮い立って、更に練習に励んだのだった。
――その翌日、常と変わらない1週間がまた始まった。
これまでの宴会芸特訓後の中では一番の酷さの筋肉痛に呻きながら、第2回目でいつものように一度飛び、その後のディブリーフィングに入っていた時だった。
『オペラ、15』
飛行訓練の最中は常にモニターしている無線機から飛行隊のオペレーションルームを呼び出す声が聞こえてきた。エンジョイ15のコールサインで上がっているリバーからだった。
続けて報告された事態は、誰も予想すらしないことだった。
それまで普段と同じように淡々と業務がこなされていた飛行班の空気は、加速度的に緊張の度合いを増し始めた――。