部隊研修(5)
F-15の甲高いエンジン音が響くオペレーションルームには、機上で管制塔とやり取りするパイロットのくぐもった声も聞こえ始めた。
駐機場に面して張り出した幅の広い窓の前に、床から数段高く設置された見晴らしの良い運用担当幹部席がある。そこに並べて置かれた無線機からは、発進準備が整ったパイロットから順に地上滑走許可を求める短い交信が管制塔との間でひっきりなしに続いていた。
俺は防空指令所の隊員たちを伴って駐機場に出た。次は整備格納庫で航空機説明を受ける予定になっていた。
目の前では、整備員によって車輪止めを外されたF-15が次々にゆっくりと動き出し、滑走路に向かってゆく。排気ノズルから吐き出される熱気で機体の後ろに陽炎が立ち昇り、担当機を送り出す整備員たちの姿を揺らめかせている。定位置から発進して進行方向を変えた機体がこちらに尻を向ける度に、灯油の燃えるにおいに似た排気の熱風がここまで一気に押し寄せる。
アディー、ジッパー、ライズにポーチ……そして向こうの編隊ではリバーとボコ、ハスキーにデコと、順に出てゆくのが見えていた。ヘルメットとマスクを装着しているので顔はほぼ隠れているが、コクピットの中に見える上半身や機体を動かす時の癖でどれが誰かはすぐに分かる。
遮る壁もなくダイレクトに伝わってくるエンジン音に、隣の相手の言葉をちゃんと聞き取ることすら難しい。そんな中にあって、興奮して上ずった大声が背後から聞こえてきた。
「すげぇ! F-15かっけぇー! このエンジン音! やっぱ戦闘機部隊いいなぁ……!」
振り返って見ると、黒縁メガネをかけた士長だった。滑走路を目指すF-15の姿を一瞬たりとも見逃すまいとするかのように見開いた目を輝かせ、しきりに「すげぇ! すげぇ!」を連発している。
きっと戦闘機に憧れて航空自衛隊に入隊してきたんだろう。もしかしたら、今目の前に見える光景の中で作業にあたっている列線整備員を希望していたのかもしれない。
職種は本人の希望ももちろん考慮されるが、それ以上に適性が重視される。更に、その年度に組織が求める職種枠の需要に応じて決定されるので、必ずしも希望通りにいくとは限らないのだ。DCで働くこの彼も、自分の希望とは違った職種に割り振られてしまったのかもしれない。
そんなことを思いながらメガネ士長を見ていると、溢れ出る戦闘機愛が抑えきれない彼は「すげぇ! かっけー!」と叫びながら駐機場の方ばかり見て歩いていたせいで前を行く同僚の踵を踏みつけてしまい、相手から露骨に嫌な顔をされていた。
その一方で、別の隊員はメガネ士長とは違った感想を口にしている。
「F-15って、あんなにでっかいもんだったんだ。写真で見るのと実物見るのではやっぱ違うなぁ」
「頭を下げなくても余裕で翼の下を通れるんだな……」
ああ、そうか――俺は彼らの感想を耳にして、今更ながら思い至った――航空自衛官といっても、航空機に接することがない職種なら実物の航空機をすぐ近くで目にしたことがないというのも不思議な話ではないのだ。
自衛隊に入る人間がみんな軍事マニアだとか軍用機マニアだという訳ではない。「自分のいる基地の所属機とたまに来る定期便の輸送機くらいなら見たことがある、でも名前はよく知らない」という自衛官だって珍しくはないだろう。そもそも飛行場のない補給処やレーダーサイトに配属された隊員は一度だって空自機を見たことがないかもしれない。
航空機のことだけでなく、装備品だとか性能だとかの細かい話は、きっとファンやマニアの人達の方が断然詳しいに違いない。かく言う俺だって、例えばもしブルーインパルスの演目の名称を挙げろと言われたら、ほとんど答えられないと思う。
整備格納庫の入り口にはすぐに着いた。駐機場に面した大扉はすべて開け放たれ、柱など遮るもののない空間がずっと奥まで広がっている。鉄骨が幾筋にも交差して走る高い天井には水銀灯が灯されているが、晴れ渡った外の明るさに慣れた目には格納庫の中は薄暗く感じられた。そこにF-15が2機静かに鎮座している。
機体の傍らで見回りをしている隊員にマルコが声をかけた。俺たちが今回の航空機説明を依頼した整備小隊長付き幹部の竹下3尉だ。
防大出身か一般大学出身かは知らないが、まだ23、4の見習い整備幹部だ。毎朝飛行班で行われる全体ブリーフィングで、いつもパイロットたちからけちょんけちょんにされてしごかれている。
昨日のブリーフィングでは、飛行班長のパールから「837号機、まだ使えんのか? 整備に時間かかりすぎだろ。何で出来上がってこないんだよ」と指摘され、パールを納得させられるような上手い説明ができずに四苦八苦していた。そして今朝のマスブリの時に改めてその説明をするために当該機の不具合箇所の詳細な回路図を引っ張ってきたのだが、それをスクリーンに映した瞬間、「あのなぁ、こんな細かい回路図見せられたって俺たちが分かるかよ! もっと要点まとめろよ」とまたもや容赦なくダメ出しされていた。
もちろん、ベテランの飛行班員たちにヒヨッコ整備幹部をいびるつもりはない。「パイロットはここまでのことを要求する」ということを見習いのうちに実感させ、整備幹部として一人前に育て上げたいという意図があってのことだが……気象隊の予報官と同様に整備幹部も大変な職種だと、毎朝のマスブリの度に思う。
DCのメンバーを前に、竹下3尉は生真面目な一生懸命さが窺える口調で説明を始めた。
「ではさっそく航空機の説明を――。これが、皆さんご存知のF-15Jです。航空自衛隊の主力戦闘機ですね。最高速度はマッハ約2.5、最大航続距離は約4600キロで――」
がらんとした格納庫に竹下3尉の声が響く。
俺は少し離れた場所で説明の様子を眺めていた。この場は竹下3尉に任せてあるので、俺とマルコは特にやることもなかった。
谷屋1尉は――と見ると、機体の説明に時折頷きながら、興味津々といった様子で傍らのF-15を見上げていた。
その色の白い整った横顔につい目が行ってしまう。
アディーを見つけた時の女性隊員たちの会話じゃないが、ターニャさんと一緒の職場だったら毎日が5割増しに充実するだろうなぁ……。でも、逆に気になって訓練に集中できなくなるか?
取り留めもなく雑念が浮かんでくる。
でもまずは、付き合ってる男がいるかどうかだ。いっそのこと単刀直入に訊くか? 「ターニャさんは彼氏いるんですか?」って――いや、これじゃあまるで中坊みたいだな。それに、そんな風に質問したらセクハラになるか? セクハラはまずいよな。単刀直入に行くなら、もっと違う方向からズバッと切り込もう。男がいようがいまいが構うもんか。ここはびしっと男らしく潔く、当たって砕けろ精神で突撃して――。
あれこれ考えを巡らせていると、マルコが変に真面目な顔で寄ってきて何気なく俺のすぐ横に立った。そして前を向いたまま顔を寄せて俺に囁く。
「先輩、目が完全に10時方向ロックオン状態っすよ。谷屋1尉にレーダー照射しまくりっす」
マルコの指摘に俺は慌てて視線を逸らせたが、思わず動揺して目が泳いでしまった。それでも先輩としての威厳を保つように努めつつ、もっともらしく言い訳してみた。
「この基地じゃあんな美人いないんだから、つい見ちゃうのは仕方ないだろ」
「確かに美人だし頭も性格も良さそうで、カッコいいなとは思いますけど――」
マルコは彼女のことを窺いながら小声で続ける。
「自分はバリバリ仕事して自立してるタイプよりは、守ってやりたくなるような女の方が好みっす――つまり、自分の嫁が最高ってことで」
至って厳かな調子でそう言って、自分の言葉に重々しく頷いている。何があろうと「嫁が命」のマルコに俺はもう笑うしかなかった。
「そりゃどうも。おノロケごちそうさん」
腕時計を見ると、もうすぐ12時になる頃だった。一団が305の見学にやってきてから1時間が経とうとしていた。この航空機見学を終えたら彼らは食堂に昼食を摂りに行き、その後は偵察航空隊の方に向かう予定になっている。
残された時間はあと僅かだ。チャンスを見つけられるか……!?
悶々としていると、「では稲津2尉、これで説明を終わりますが」という竹下3尉の無情な声が俺に向けられた。
ついに終わってしまった、さあどうする……!?
焦りを隠して竹下3尉に礼を言い、労いの言葉をかけた。マルコがDCの隊員たちを正門通り側の通用口へと案内する。
ぞろぞろと歩く一行の後について見送りに行こうとした俺の横に、さっとやってきた人がいた。谷屋1尉本人だった。
「案内、どうもありがとうございました」
先任幹部として、見学の最後に挨拶に来たのだ。
予期せず彼女に声を掛けられてしどろもどろになってしまう。「いえ、参考になったかどうか――」と慌てて答えた俺に、彼女は微笑んで首を振った。
「とんでもない。色々と勉強になりました。やっぱり実際に現場を見てみると得るものが大きいです」
「お役に立てたなら自分も嬉しいです」
どうにも言葉がぎこちない。肝心な時に通り一遍な会話しかできない自分を呪いながら、同時にひとつ大切なことを思い出した。
「――そうだ! これ……お返しと言うようなものでもないですが、飛行班員の紹介シートです」
そう言ってずっと手にしていた封筒を渡すと、彼女は礼の言葉とともに笑顔を見せて受け取った。
折しも外では戦闘機のエンジン音が上空を騒がせはじめていた。少し前に訓練空域に進出した305と入れ違いに、204飛行隊のF-15が帰投する時間になっていた。格納庫から見える飛行場の明るい景色の中に、2機の編隊を組んで飛ぶF-15の姿が一瞬見えた。
谷屋1尉は轟音に注意を引かれたようにふと外に視線を向け、またすぐに俺を見た。
「イナゾーさんが今取り組んでいる2機編隊長になるための訓練って、やっぱり大変なんでしょうね」
「もう毎日が精一杯で……。寝ても覚めても四六時中訓練のことばかり頭の中で考えています」
苦笑してそう答えた後、ふっと一瞬の間ができた。
――今だ! 今だろ!? もう今しかない!
俺はしゃんと背筋を伸ばすと、一気に撃ちに向かう心持ちで彼女の目を真正面から見据えて言った。
「あの……錬成訓練が終わって余裕ができたら、ターニャさんをツーリングに誘ってもいいですか」
意気込むあまり、つい早口になってしまった。
谷屋1尉は驚いたように切れ長の目を少しだけ見開いた。しかしすぐに、はにかんだ微笑みをその楚々とした顔に浮かべた。
「はい。連絡をいただけるのを楽しみにしています」
よっしゃあっ!! やった! やったぞぉ!!
思わず胸の中で渾身のガッツポーズを決める。
俺はすっかりのぼせてしまった。この場で自分のメールアドレスを渡すべきか、それとも今渡したらよっぽどナンパ慣れしてるんじゃないかと思われはしないだろうか――一度にあれこれ考え過ぎるあまり、次のステップに繋げるうまい言葉をとっさに見つけ出すことができなかった。せっかくいいところまで来ているのに、間の悪い沈黙が流れる。
「それでは、これから食堂に向かいまーす」と一行を促す、担当の訓練幹部の声が聞こえてきた。
谷屋1尉は手にしていた自分のファイルを開いて、中に挟んでいた小さなメモ帳にさらさらと何かを書きつけた。そしてそれをきれいに切り離すと、俺に差し出して言った。
「錬成訓練、頑張ってくださいね」
そう言って会釈すると、移動し始めたグループを小走りに追いかけていった。
格納庫から出てゆくその後ろ姿を最後まで見送った後、俺は心震わせながら手の中のメモに目を落とした。
シンプルな白い紙に、メールアドレスと『谷屋みずき』という名前が丁寧な文字で書かれていた。紙の右隅に淡い色調で控えめにプリントされている四つ葉のクローバーのイラストが、彼女の雰囲気に良く合っている気がした。
――さ……さすがだ。
思わず唸ってしまった――さすが、デキる要撃管制官はやっぱり違う! 上空だけでなく地上でも、こちらが望む情報を瞬間的に推し量って絶妙なタイミングでそれを与えてくれるとは……。
来訪者たちを格納庫の外まで見送って軽快な足取りで戻ってきたマルコが、感動に立ち尽くしている俺に声を掛けてきた。
「イナゾー先輩、お疲れさまでした。一行は昼飯に行きましたよ。――あれ? 何すか、それ? え、まさか先輩、それってもしかして――!?」
マルコは何とかして手元を覗きこもうとする。俺はそれを必死にガードして、メモを急いで胸ポケットにしまい込んだ。
「うるせぇなぁ、何でもねぇよ!」
「マジっすか!? 不遇の時代が長かったイナゾー先輩にもやっと春の訪れが!? 先輩、恋愛相談とかあったら遠慮なくこの俺に声かけてくださいよ! こういうことなら俺の方が断然経験豊富ですから!」
「はいはい、ありがとな」
いちいち上から目線な発言を適当に流しながら、好奇心丸出しでまとわりついてくる後輩をどうにか追い払う。
ひとりきりになると、俺は左腕のポケットからチャック付きの小さなビニール袋を取り出した。
中には御守りが2つ入っている。ひとつは入隊する時に母親から渡された地元の天神様の御守りで、もうひとつは航空学生課程を修了し飛行準備課程に移る際に区隊長から区隊員全員に贈られた飛行神社の御守りだ。
俺は袋の口のチャックを開けると、胸ポケットから引っぱり出したメモを注意深く二つ折りにして御守りと一緒にしまった。
よし! 晴れて編隊長になった暁には、ターニャさんとツーリングデートだ!! イヤッホーイッ!!
叫びながら辺り構わず跳ねまわりたい気分だ。
俺は格納庫から飛び出すと、全速力でその外周りを一周してから飛行班に飛んで帰った。
自分でも単純だと思いつつ、何だかうまくフライトができそうな気がしてきた。