部隊研修(3)
待ちに待った今日――入間基地から部隊研修の一行がこの百里基地にやってくる日。
前夜に降った雨のお陰で空はきれいに澄み渡り、滑走路の向こうには筑波山が青空を背景にくっきりと姿を現していた。
この日にぴったりの――そして俺の気分そのままのような爽快な日和だ。
朝イチのフライトを終えて飛行班に戻ってくると、洗面所の一角にあるシャワー室で手早く汗だけ流して新しいフライトスーツに着替えた。時計を見るともうすぐ10時になろうとしていた。防空指令所の隊員たちを乗せたマイクロバスはきっともう百里に到着し、一行は司令部庁舎で概要説明を受け、庁舎から一番近い救難隊の見学に向かう頃だろう。
俺は急いで今さっきのフライトの機動解析に取り掛かった。数回にわたる空中戦の機動を明らかにするのも結構な手間なのだ。更にどれだけ時間がかかるか分からないディブリーフィングはとりあえず後回しにする。
とにかく気忙しい。第2回目のピリオドのフライトは免除してもらっているものの第3回目にはまた訓練が組まれているので、谷屋1尉との再会の瞬間を期待しながらのんびり待っている訳にもいかないのだ。一行がここに来ることになっている11時まで、次のフライトの準備を進めておく。
予定時刻の5分前になってとりあえず作業を切り上げた。自分のデスクの上に置いておいたA4サイズの茶封筒を手に取る。中にはデジカメとパソコンとラミネーターを駆使して仕上げておいた飛行班員紹介シートが入っている。この間の入間航空祭の時にもらったメルヘンチックな要撃管制官メンバー紹介のお返しだった。貴重な睡眠時間を削り、頑張ってこの日に間に合うように作ったのだ。
こちらも負けじと班員たちの顔写真に装飾フレームをこれでもかというくらい多用して華やかにしたところ、『お前の美的センスを疑うぞ』と飛行班長のパールにあえなく却下され、作り直しを命じられた。
『梅組の気風にふさわしく渋めに作れ』とのお達しに、仕方がないので相撲の番付表のような字体にして白黒だけで作ってみた。随分見づらくなった気がしたし、大して面白味のないものが出来上がったが、それを見たパールは『なかなかいいじゃないか』と今度はご満悦だった。
俺はシートを入れた封筒を片手に、マルコに声を掛けて外に出た。駐機場とは反対側の、正門通りに面した通用口で2人して待機する。
離着陸機のない今の時間、飛行場地区はごく静かだった。快晴の秋空の下、目の前の通りをくすんだオリーブ色の車両が制限速度内でゆっくりと通り過ぎ、作業服姿の隊員がのんびりと自転車を走らせていった。
そんな光景を見るとはなしに見ながら、ようやく一息ついた気分になる。
落ち着く時間があって良かった。せかせかとした勢いのままで谷屋1尉の前に出たら、ろくなことにならないのは目に見えている。
黒い頭に白い頬が目立つ小さな野鳥がどこからか飛んできて、俺とマルコの前をさっと横切っていった。そして飛行隊横の梅の木に止まると、紅く色づいた葉に隠れて「ツーピィ、ツーツーピィ……」とよく通る声で鳴き、またどこかに飛んでいった。
手持ち無沙汰な様子で俺の横に立っているマルコが、ふと思い出したようにニンマリと笑顔を見せた。
「そう言えば、研修参加者の名簿には女性隊員の名前が3人入ってましたよ。先輩、これは貴重なチャンスっす!」
目をまん丸に見開いて力強く断言する。俺はマルコをじろりと見やった。
「お前、なにちゃっかりチェックしてるんだよ。それに既婚だろ。浮気すんなよ」
そう念を押すと、マルコはそんなことを注意されるのは心外だとでも言うように大袈裟に体をのけ反らせた。
「浮気なんてする訳ないっすよ! 俺は嫁が命っすもん! 『貴重なチャンス』ってのはイナゾー先輩の話に決まってるじゃないすか」
さも当然と言わんばかりにマルコが力説する。その言い方が微妙に失礼だ。
「――そうだ、先輩、聞いてくださいよ! この間、嫁と一緒に結婚式場の見学に行ってきたんです! ブライダルフェアっていうんですか、あれ凄いっすね、試食会とかウエディングドレスの試着会とかあって。嫁もドレスを試着したんですけど、どれ着てもほんと似合ってて。改めて惚れ直しましたよ!」
「おお、それは何よりだな」
半ば棒読みの相槌をものともせず、マルコは続ける。
「嫁が、結婚式では絶対サーベルアーチを体験したいって言ってるんすよ。後輩たちには頼むつもりなんすけど、イナゾー先輩やアディー先輩にもお願いしてもいいっすかね? サーベルとかのレンタル代は持ちますんで」
サーベルアーチは、参列した仲間たちが礼装の制服に白手姿で花道を作り、儀礼刀を掲げてできるアーチの下を新郎新婦が歩むという華やかな祝福の儀式だ。憧れる気持ちも分からないでもない。
「分かった分かった。謹んでやらせてもらうよ」
「やった! 嫁も喜びます!」
幸せいっぱいで浮かれている後輩をよそに、俺は顔を戻した。
その途端、少し離れたところにある305の整備格納庫の辺りをこちらに向かってくる一団が目に入った。各個に先を歩く数人の幹部と、先任空曹の統率で2列縦隊をとって進む曹士の一群。皆、携行するのに便利な略帽を被っている。あれが入間からの来客に違いない。
男ばかりの中で、女性隊員の姿は遠目からもよく目立った。隊列の中に、スカートをはいた隊員が2人。そして、幹部の中にはスラックス姿のすらりとした女性が1人――間違いなく谷屋1尉だった。
急に心臓が大きく打ち始める。
一行を引率してきた7空団の訓練幹部の1尉が、俺たちの姿を認めると足早にこちらにやってきた。俺とマルコが「お疲れ様です」と挨拶して敬礼すると、中年の1尉は愛想よくさっと答礼して早口でまくし立てた。
「予定より少し遅くなってるけど――救難隊の見学が終わったので、305の方よろしく頼みます」
訓練幹部に追いついた研修メンバーを見渡すと、比較的若い隊員が多かった。曹士なら士長か3曹あたり、幹部なら3尉から若手の1尉くらいの面々だ。その中にはバレルもいた。俺が意識消失墜落未遂事案を起こした時の担当要撃管制官だ。管制官紹介シートを見て想像したとおり、体格も樽に近かった。
メンバーの中で谷屋1尉は最先任にあたるようだった。皆の前に進み出てきた彼女に、俺とマルコは急いで敬礼した。彼女は答礼すると、電話や無線でやり取りする時と変わらない張りのある落ち着いた声で言った。
「今日はよろしくお願いします」
谷屋1尉の真っ直ぐな視線が俺とマルコに順番に向けられる。謙虚で穏やかな眼差しだ。微笑みを浮かべた涼やかな切れ長の目に見つめられると、入間で初めて会った時と同じようについついどぎまぎしてしまう。
「こ……今回、案内を担当する稲津2尉と都丸2尉です。第305飛行隊へようこそお越しくださいました。じゃあさっそくですが、オペレーションルームから説明を……」
彼女を前にして挙動不審になりそうだった。いや、もうなっているかもしれない。自分でも変に声が上ずっているのが分かった。マルコが何かからかいのひと言でも挟みたそうな顔でこちらを見ている。
俺は不必要に咳払いして取り繕いつつ、入間から来た隊員たちを促して建物の入り口をくぐった。
飛行班はちょうどセカンド・ピリオドのプリブリーフィングの時間に差しかかっていた。
研修の一行を引き連れてオペレーションルームに入っていくと、デスクに向かってフライト前の打ち合わせをしている飛行班員たちが一斉にこちらにちらりと視線を向けた。
「うわ……雰囲気が――」
幹部に続いて後の方から入ってきた士長の若い女の子がぽろりとそう漏らす。
「雰囲気が」に続けて「怖い」と言いかけた彼女はさすがに失礼だと思ったのか、とっさにその言葉を飲み込んだようだ。そしてごまかすように、隣にいた女性の3曹に声を潜めて話しかける。
「やっぱり戦闘機部隊らしいというか……厳格さを感じますよね……」
「うん。ピリピリして鋭い感じだよね」
彼女たちの近くにいてその感想を聞きつけたマルコが、意外そうな様子であっけらかんと言った。
「そうっすか? いつもこんなんっすけど」
「何か、一瞬睨まれたような気が……」
士長の彼女は更に声を小さくしておずおずと口にする。一応冗談めかしてはいるが、半分くらいは率直な印象なのだろう。
マルコは「いやいや! 睨むとか、そんなこと全然ないっすよ?」と不思議そうだ。
そのやり取りを聞いていた俺はピンと来た。
以前、モッちゃんの後輩の女性自衛官で団司令部の補給係をしている子が支給品を届けに来た時に遠慮がちに同じようなことを言っていたのを思い出す。
『飛行班に来るのって、ちょっと緊張するんですよね……。入り口で『入ります』って言った瞬間、皆さんが一斉にじろってこっちを見るので……来る度に睨まれてるみたいで……』
どうも外から来る隊員にしてみると、俺たちが来隊者に敵意を向けているように感じるようだ。
彼女の言葉に、『誰も睨んでないよ? みんな至って普通だけどなぁ』と首を傾げるモッちゃんの横で、たまたまその場に居合わせたアディーが機転をきかせてフォローに入った。苦笑しながら『それは多分――』と思い当たる理由を説明していた。補給の彼女はアディーの爽やかな笑顔にすっかり安心して納得したようだった。
ちょうどいい状況なので、その時にあいつが使っていた言い回しを拝借する。
「ああ、それなら――大丈夫です、怖がらないでください。みんな『誰か来たな』って見ただけですから。横目だけで見るのは職業病みたいなものなんです。上空でGがかかって頭を動かせない時には精一杯の横目を使って確認したりするので、ぱっと誰かが来た時なんかはついその癖が出るのかもしれません」
「へぇ……! そういうものなんですかぁ……」
士長の彼女は感心したように呟くと改めてオペレーションルームに目をやって、ブリーフィングに集中しているパイロットたちを眺めた。横で話を聞いていた他の隊員たちも、「なるほど」という表情で頷いている。
よし、上手くいった。案内係として出だしは上出来だ。言ったセリフはほぼアディーの受け売りだが。
谷屋1尉をちらりと見てみる。彼女はブリーフィングの邪魔にならないように抑えた声音で同僚と感想を交わしながら部屋の中に目を向けていたが、ふとこちらに視線を移した。
――ばっちり目が合ってしまった。
俺はどきっとして思わず瞬きした。
彼女が微かな笑みを見せる。
俺もとっさに微笑み返したが、たぶんとてつもなくぎこちない笑顔になったと思う。だがこの際、そんな些細なことはどうでもいい。
よ、よし……! この約1時間を全力で頑張るぞ……! 今日ここで彼女との距離を一気に縮められたら、もしかしたら本当に一緒にツーリングなんかにも行けるかもしれない。もしこの機会を逃したら、たぶんこんなチャンスは2度とやっては来ないだろう。
冷静になるよう自分自身に一応言い聞かせながらも、燃える下心に大いに奮起しつつ、一行をオペレーションルームの奥へと案内した。