部隊研修(2)
「あちゃー! しまった……」
いつも開けっ放しになっているドアから総括班に足を踏み入れた途端、盛大な呻き声が聞こえてきた。
見ると、部屋の奥の班長席に座っているピグモが頭を抱えて天井を仰いでいる。
「参ったな……アサインしとくの忘れてた……」
「どうしたんですか、総括班長」
総括班の先任空曹――定年間近の山岸曹長が、掛けている老眼鏡越しに上目遣いでピグモを見る。ピグモはがっしりと張り出した眉骨の下の目を困ったように瞬かせると、弱り切った顔でベテランの先任に答えた。
「明後日、入間防空指令所から部隊研修の一団が来るんだよ。業務の説明と航空機説明をしろって、団司令部から言われてたんだ。資料も作っとかなきゃいけなかった……。整備小隊の方にも話を通しておかなきゃならないのに、対応する人間を決めとくの、すっかり忘れてた……」
「おかしいですね。そんな話、初めて聞きました。私、その命令書見ましたっけ?」
総括の仕事はすべて完璧に把握していると常日頃プライドを見せている山岸曹長は、怪訝そうにピグモに訊ねた。ピグモが大きく手を振る。
「見てない見てない。俺が書類をファイルに放り込んだまま抱え込んじゃってたんだよ。どうすっかな……」
「入間DC」という言葉を耳にした俺の目の前に、ついこの間の航空祭で言葉を交わした谷屋1尉の顔がぱっと浮かんだ。
――これはもしや絶好のチャンスか……!?
『そこにほんの少しでも可能性があるなら、あれこれ迷わず掴みにかかれ!』――それが俺のモットーだ。
ピグモは対応できそうな人間に当たりをつけるために書類の山を掻き分けて週間スケジュール表を探し始めた。山岸曹長は自分の手からこぼれていた業務があったことに不満そうな顔つきで、総括班長から受け取った文書に目を通している。
俺は回覧済みのバインダーを総括班の定位置に戻しながら、胸の中に湧き上がる期待を苦心して抑えつつ、努めて何気ない態度で口を挟んだ。
「その対応、自分がやりましょうか?」
「おお、イナゾー! やってくれるか!?」
デスクの上を漁る手を止めたピグモが途端に顔を輝かせた。
「悪い、頼むな! 明後日のその時間、フライト入れないようにハスキーに言っとくから。もう1人適当に誰か捕まえて、2人でどうにかうまくやってくれ」
「了解です」
山岸曹長から差し出された数枚綴じの書類を真面目くさった顔で受け取って、そそくさと廊下に出た。すぐにパラパラと紙をめくり大急ぎで内容をチェックする。
まずは参加者名簿があるかどうか……。
最後のページを広げた瞬間、階級と氏名が十数人分書かれた中から「谷屋」の文字だけが俺の目に飛び込んできた。何度念入りに見返しても、確かに名簿には「1尉 谷屋みずき」と記されている。
やった!! 神様仏様! 俺、ツイてる!
思わず小さくガッツポーズを作ったところで、ちょうどラウンジから出てきたマルコにばっちり見られてしまった。マルコはきょとんとして俺の顔をまじまじと眺めている。
「何かいいことでもあったんすか、先輩。すごく嬉しそうですけど」
そう言って、俺が握り締めている書類を覗きこんできた。
「へぇ……DCから研修……。明後日っすか」
俺はひとつ咳払いすると、改まってマルコに声をかけた。
「お前、暇そうだな。ちょっと手伝ってくれよ」
「えーっ!? 俺、全然暇じゃないっすけど」
作業を振られると悟ったマルコが後ずさりして大袈裟に両手を振る。しかしこちらもそんな反応されたからといって引くつもりはさらさらない。
「暇じゃなくたっていいからさ。航空機説明もやるらしいから、整備小隊の方に対応の調整頼むよ。俺は配布資料作るから。それと、当日のエスコートも一緒に――」
「いや、でも先輩! 俺、他の付加業務もあるんすよ!」
「何の仕事だよ」
「冬休暇中の服務事故防止教育のスライド作りとか」
まるでスライドを作ることが国防に関わる重大任務だとでも言いたげに、勿体つけてそう言い張る。
俺はマルコの抗議を一蹴した。
「そんなのまだまだ時間あるだろ、問題なし! こっちが先だ。明後日には終わるから」
「えー、マジっすか……」
マルコはなおもぐずぐずと渋っている。業を煮やした俺は笑顔を作ると明るく訊ねてやった。
「おい、お前は航学何期だ?」
そのひと言に、それまで不服そうに口答えしていた目の前の後輩はぐっと詰まった。そこへ更に畳みかけてやる。
「で? 俺は何期だったかな、マルちゃん」
たとえ1期しか違わなくても、先輩と後輩の力関係は歴然だ。マルコは諦めたように顔をしかめて声を上げた。
「ああ、もう! 分かりましたよ! 了解っす!」
やけくそ気味にそう叫ぶマルコに命令書を渡してコピーを1部作らせ、俺はさっそく資料作りに取り掛かった。
自分の席に腰を落ち着け、まずは内容をざっと読みこむ。
1枚目には今回の部隊研修の目的が簡潔に書かれていた――『関連部隊についての知識を深めるとともに、今後の更なる緊密な連携と円滑な任務遂行に資するものとする』ということらしい。その下に、実施日時とDCからの参加人数が記されている。幹部と曹士を合わせて総員15名だ。
タイムスケジュールも添付されていた。
入間からマイクロバスで0930に百里到着、0940から団司令部庁舎にて概要説明。その後、1000から救難隊、305飛行隊、そして昼食を挟んで偵察航空隊と、約1時間ずつ各部隊に於いて見学を実施……。
第7航空団には305と204の2つの飛行隊があるが、今回は305が代表して研修の受け入れ先となるという訳だ――俺たちの部隊でいいんだろうかと、ちらりと頭をよぎる。
フライト後にDC直通電話回線を通じて行うディブリーフィングで、305の荒くれ武者のようなパイロットたちからずけずけと容赦ないダメ出しを受ける若手要撃管制官にしてみたら、ここにはあまり足を踏み入れたくないかもしれない。「紳士的」と言われている隣の204飛行隊の方が、彼らにとってはずっと心穏やかに見学できるんじゃないか……?
そんなことをぼんやりと思ったりしてみたが、何であれ305が研修の受け入れ担当というのは、俺にしてみたらラッキーという他ない。明後日には谷屋1尉がこの場所に来ることを想像すると、つい口元が緩んでしまいそうになる。気合の入りようだって断然違う。
資料作りのために向かったパソコンの前で、俺はウキウキしながら何度も胸の中で呟いていた――早く来い、明後日!