帰還祝いと生還祝い(6)
リバーの態度からいつもの柔和な雰囲気は完全に消えていた。厳しい眼差しで射抜くようにジッパーを注視している。
「勘違いするなよ。これは甘やかしてるんじゃない――先輩パイロットとしての責任なんだ!」
一言ひとこと力を込め、言い含めるようにして続ける。
「いいか、ジッパー――俺はな、戦闘機部隊にいようが教育集団にいようが、航空自衛隊のパイロットとして、同じ道を目指す後輩を育てあげるのは先輩たる者のひとつの大きな責任だと思ってる。数年後、数十年後のこの国の未来に対して負っている責任だ。『こいつは出来が悪い、素直じゃない、センスに欠ける』――そうレッテルを貼って見放すのは簡単だ。何より楽だ。でもそれじゃあ、自分の責任を投げ出して、自分が楽なやり方をしてるだけなんだ」
リバーの語気が荒くなる。
「芦屋の13教団にいた時だってな、そりゃあもどかしかったよ! こちらが思うとおりにはなかなかできない学生に対してだけじゃなく、同僚の教官に対してもな! 『タックみたいにキツいこともやらずに飛行機乗れて、搭乗手当ても満額もらえてラッキー』って思ってるような気の抜けた人間もいる中で、そりゃあジレンマだったよ。自分も適当にやって3年間済ませてもいいかと思ったこともあったよ……!」
吐き捨てるようにそう言ってグラスのワインを一気に飲み干すと、リバーは手の甲でぐいと口元を拭って再び言葉を続けた。
「でもな、やっぱりそれじゃあいかんと思った。自分たちの後輩に対して――将来の防空の任を担う後輩たちに対して、不誠実な真似はしたくなかった。だから俺は自分の信じるところを精一杯やろうと思った。自分に対しても、自分が育ったこの305に対しても、恥ずかしくないことを全力でやってきたつもりだ。それは今だって、芦屋に行く前だって同じだ!」
気迫の籠った声を荒げてそう言い切ったリバーは、自分の前に座るジッパーにひたと目を当てたままだ。
いつもは弁の立つジッパーは気圧されたように口を閉じたまま、ただただリバーを見つめ返している。
「ジッパー、今、お前は部隊を背負って立ってる。芦屋からまた305に戻って来て、お前が立派にやってるのを見て、俺がどんなに嬉しかったか分かるか? ああ、自分が信じてやってきたことは間違いじゃなかったと、お前を見て改めてそう思った。おまえが証明してくれた。教育集団で学生たちに対してやってきたことはきっといつか必ず実を結んでくれるに違いないと、お前を見て心からそう思えた。だから俺は、お前がどう思おうと、自分のやり方を信じてる。誰に何と言われようと、自分の信念に従って、またこの305でも後輩を育てていきたいと思ってる。それが先輩としての責任だからだ。俺の……この……想いが――分かるか、ジッパー!!」
リバーが体を震わせて、声を振り絞るように叫んだ。
俺は齧りかけの春巻きを箸でつかんだまま、リバーのあまりの気迫に思わず圧倒されていた。
いつもは温厚なこの先輩の内面に隠されていた滾るような熱意を、今初めて目の当たりにした気がする。
――何てこった、俺は今まで完全にリバーを見誤ってた! 自分の戦技の向上だけでなく、後進を育てることにここまで真摯な想いを持つ人を、俺はこれまでに知っていただろうか。
「先輩……」
ジッパーが喘ぐように呟いた。その目ははっきりと潤んでいる。
「――やっぱりリバーはリバーだった……」
ジッパーはすっくと背筋を伸ばし、そして太く力強い声音でリバーに告げた。
「俺、何が起こっても先輩についていきますよ! 先輩のことは必ず俺が守ります! だから先輩は絶対に生きて帰ってください!」
しかしリバーは憤慨した様子できっぱりと拒絶する。
「何言ってる! 後輩にそんな真似させられるか! 生きて帰るのはお前の方だ!」
「いいえ! 先輩には奥さんもお子さんもいるじゃないですか! 先輩は死んだらダメです!」
ジッパーのその言葉に、リバーが座卓に拳を打ちつけた。手元の皿やグラスが跳ね上がってガチャンと派手な音を立てる。
「いいか、俺たちはこの日本という国を守る人間なんだ! 私情は関係ない!」
「いいえ! いいですか、リバー! あんたのような人は絶対に生きて戻らないと駄目です! 俺じゃあ後輩を育てられない、先輩じゃないと駄目なんです!」
感極まったジッパーが涙にむせながらリバーの胸元を力任せに鷲掴み、激しく前後に揺さぶる。リバーのシャツのボタンが何個か千切れて弾け飛んだ。
「パパたちケンカしよる! ママ! パパとおじちゃんケンカしとうよ!」
興奮して騒ぐ希実ちゃんの声と、苦笑混じりにそれを宥めてお風呂に入ってくるように言いつけている聡子さんの声が聞こえている。
希実ちゃん、これは喧嘩じゃないんだ! 命を預け、預かって翼を並べて飛ぶ者同士の、神仏に誓って嘘偽りのない本心のやりとりなんだ!
俺が課程学生中に接してきた幾人もの教官の中で、ここまでの熱意と信念を感じられる人がいただろうか。こんな人に、俺はもっと早く出会いたかった……!
湧きあがる熱い感情に心震えながら、俺も勇んで2人の元に飛び込んだ。
「リバー先輩、俺だって先輩について行きますよ! 命を賭けに行く時は、俺も一緒に連れてってください!」
リバーもまた泣いていた。涙が伝うに任せた顔を俺に向ける。
「イナゾー……こんな俺でいいのか?」
「はい! リバー先輩になら喜んでこの命、預けますよ! 『俺について来い』って、ただそのひと言を言ってください!」
「そうです! 先輩はただそれだけを言ってくれればいいんです!」
ジッパーも滂沱の涙を流してその言葉に力を込める。
「イナゾー……ジッパー……!」
リバーは感極まったように俺とジッパーの顔を見つめた。
「よし、分かった! お前らいいか――俺について来いよ!!」
「はいっ……!!」
今までこんなに心が打ち震えたことなんてあるだろうか。文句なしに命を預けたいと思える先輩に出会えるなんて、俺は何て幸せな戦闘機乗りだろう……!
俺たちは3人でがっちりと肩を組み、押しとどめようのない感激に男泣きに泣いた。
「――パパとおじさんたち、何で泣きよるん……?」
風呂から上がってきたばかりでパンツ一丁のままの勇太郎君が、なりふり構わず泣いている大の男3人を見て途惑ったように呟いていた――。
――翌日。
目が覚めた時には既に昼過ぎだった。服を着たままで、独身幹部宿舎の自分のベッドの上にいた。
「完璧な深夜入門だったけど。曹士の隊員だったら厳重注意を受けるところだぞ」
自分の机に向かって本を読んでいたアディーが、俺が起きたのに気付いて苦笑しながらそう言った。いったん本を置き、飲み会翌日の決まりきった儀式のように俺の枕元にスポーツドリンクのペットボトルを持ってきてくれる。気を利かせてくれたのか、まだ部屋のカーテンは閉め切ったままだ。
最近、アディーが週末に外泊することは少なくなっていた。マダム騒動の一件で、さすがに少しは反省したのかもしれない。
「……俺、昨日何時に帰隊した……?」
二日酔いで頭を動かすと割れそうに痛むので、俺は仰向けになったまま天井にぼんやりと視線を漂わせて呻くようにアディーに訊いた。
「今朝の3時過ぎ。しかもリバーさんの奥さんが車でBOQの入り口まで送ってきてくれたみたいだけど」
そう言ったアディーは、不可解そうな顔つきになった。
「それにお前、泣きながら帰ってきたけど大丈夫だったか?」
「……よく覚えてない……でも、とにかく感動したんだ……」
そう答えた俺に、アディーは更に訝しげな顔をしたが、酷い二日酔いで半分死んだようになっている俺をそれ以上煩わせないようにしようと思ったのか、後は何も訊かずにまた読書に戻っていった。
相当酒を飲んでいたとはいえ、熱く語って3人で泣いたことはおぼろげにも覚えている。
もしかしたら他に何か粗相をしでかしたかもしれないなぁ……――とにかく記憶がないのは恐ろしい。
……月曜が来たら朝一でリバーに食事のお礼を言って、とりあえずひと言謝っておこう……。
頭が割れそうなほどの痛みと不愉快な吐き気にひたすら耐えつつ、俺はベッドの上で死んだままそう思った……。