帰還祝いと生還祝い(5)
飲み尽くされた2升の日本酒に続いて赤ワインの栓が開けられると、座卓の上には洋風のつまみが加わった。空いた皿を下げつつ、聡子さんが新しい料理を置いてゆく。
ひと皿には、アボカドと薄皮を剥いたグレープフルーツが生ハムで丁寧に巻かれ、オリーブオイルのソースがかかったものにハーブか何かの葉っぱが添えられて、綺麗に盛り付けられていた。
もうひとつの皿には刻んだクルミとパイナップルが混ざったクリームチーズを一口大に丸めたものが並び、ひとつひとつに可愛らしいピックが刺してある。小洒落たレストランなんかで出てきそうだ。
普段はチェーン店の安い居酒屋か和食メインの小料理屋で日本酒をかっ食らうばかりの俺には「よそいき」な感じがして、手を出すのが何となくためらわれる。
まじまじと目新しい料理を観察している俺の横で、勇太郎君が嬉しそうに声を上げた。
「チーズボール! 僕も食べてええ?」
「それはお客様のだから。勇太郎と希実のはこっち。それを食べ終わったらお風呂に入ってくるのよ」
ほぼずっと立ちっぱなしで料理を作っている聡子さんが2人を手招きして呼ぶ。
台所からはぴちぴちという油が撥ねる音とともに、オリーブオイルで何かを焼いているいい香りが漂ってきた。
ピックをつまみ、チーズボールなるものをひとつそっと取って食べてみる。
クリームチーズの酸味に甘いパイナップルの取り合わせが絶妙だ。細かく刻まれたくるみの歯ごたえも癖になる。うまい。ついまた手が伸びる。
「ほら。もしワインが飲み慣れないならこの焼酎を開けたらいい。癖がないから飲みやすいぞ」
リバーは俺に焼酎の瓶を渡してよこすと、自分のグラスに半分以上残っていた日本酒を一息に飲み干し、そこに今度は赤ワインをなみなみと注いだ。
「で、何の話をしてたっけな?」
リバーに訊かれたが、酒が回った頭ではとっさに思い出せなかったので、俺は焼酎の封を切りながらついさっきまでの話題を答えた。
「ジッパー先輩に、リバーさんの良さを語ってもらってました。育ての親だって」
俺がそう言うと、リバーは普段と同じ気負わない笑顔になって「そんな立派なもんじゃないけどなぁ」と謙遜しつつ、梅肉和えのタコと枝豆を箸でつまんで黙々と口に運んでいるジッパーに笑みを向けた。
「お前、昔は本当に尖ってたもんな――今もあんまり変わってないけどなぁ。無駄に刀を振り回して敵を作っちゃうタイプなんだよ」
「仕方ないんです、俺の性分なんですから」
ジッパーはリバーからボトルを受け取って空いたグラスに勢いよく注ぐと、およそワインとは思えないような飲み方でごくごくと呷り、口を尖らせるようにしてそう言った。
リバーが苦笑を漏らす。
「まあ、お前のそういう一徹なところが俺は好きだけどな。だけど、お前だってもうそろそろ突っかかっていくばかりじゃダメだぞ。今はもう下を引っ張って育てていく立場になってるんだからな」
「それはもちろん分かってますけど――今の若い奴らを見てると、歯痒くて仕方ないですよ。デコとかボコとかの若いあたりなんか、求められていることに対して何が何でも食らいついていこうっていう、がむしゃらな姿勢が感じられないんですよね」
不満を漏らすジッパーをいなすように、リバーは何度か大きく頷いた。
「ジッパー、お前が言いたいことは分かるけどな――求め過ぎるなよ。13教団で学生たちを教えてきて改めて実感したけどな、最初はできることをやらせていって自信をつけさせてやらなきゃならないんだ。いきなり高いレベルのものを求めて、それに必死で食いついてこいっていうのは、今の若いのには合わないんだよ」
リバーの言葉に、ジッパーが鋭い眼差しを向ける。
「じゃあ若い奴らに合わせて緩くやれっていうことですか? そんなの、俺は過保護過ぎると思いますけどね。305は学生を教えているんじゃないんです、戦闘機乗りの部隊です。いつまでも手取り足取り教えてもらおうなんていう課程学生気分でいていいところじゃない」
「それはもちろんそうだ。俺だって『一から十まで事細かに指導しろ』なんて言うつもりはないさ。でもな、どんなに時間をかけたとしても相手が理解できないようなやり方でやっていたら、相手にしてみたら何ひとつ得るものがないんだ。いつまでたってもゼロの状態でしかない。相手が理解できるやり方で指導してやらないといけないんだ」
ジッパーは到底納得しかねるというように首を振りながら反論する。
「それは甘やかしだと思います。誰かが手を差し伸べて懇切丁寧に教えてやらないとできないようなら、戦闘機乗りの資質に欠けると思いますけどね。パイロットであるなら、ある程度以上の要領の良さと器用さは必要ですよ。しかも単座機に乗るからには、空でも地上でも人に頼ることなく自分ですべてに対処する能力が不可欠になるんですから。その要領の良さと器用さが足りずに求められるレベルに達するまでに時間がかかるなら、あとはひたすら努力して自分でどうにかするしかないんです。それなのにその努力が足りないと思えるから、若い奴らを不甲斐なく思うんです」
「お前の言うことはもっともだ。確かにそのとおりだ――でもな、人を育てるという視点から考えたら、いきなり高次元のものを求めるのは間違ってる」
2人の間の議論が熱を帯びてくる。
聡子さんがやってきて、会話の邪魔をしないように新しい料理をそっと出していった。
さっそくひとついただいてみる。春巻きの皮の中にスパイスの効いたひき肉と玉葱、溶けた熱々のチーズに半熟の卵が入っている。エスニックな味で酒が進む。揚げたてで、これまたうまい。
今度はリバーがジッパーに懇々と説いている。
「お前からしたら、大抵の人間は甘っちょろく見えるだろう。お前のように常に自分に厳しく努力を続けられる人間はそうはいないと思うからな。努力しつづけることができるというのは、ひとつの才能だよ。その才能が足りない人間だって当然いる。でもな、どんな奴でもそいつなりに頑張ろうとする姿勢があれば、必ず伸びしろはあると俺は信じてる。理解が遅いかもしれない、打てば響くような反応は返ってこないかもしれない。でもそれは、教える方がアプローチを間違えているんだ。どんなに説明しても分からなかったことが、違う言い方に変えた途端にすんなり理解できたなんていうことだってしょっちゅうだ。試行錯誤して一番相手にうまく伝わるアプローチの方法を探すのが、教える側の人間の務めだと俺は思うぞ」
黙って話を聞いていたジッパーは不服そうな醒めた目でリバーを見やり、幻滅した顔でぼそりと言った。
「305は戦闘機部隊です。教育集団じゃありません。先輩――芦屋に行って甘くなりましたね」
ジッパーが不貞腐れたようにそう口にした途端、激情を辛うじて抑えているような、低く押し殺した声が耳に響いた。
「――ジッパー……ジッパー!」
2本目のエスニック春巻きを齧っていた俺は、思わずどきりとして顔を上げた。
リバーが酒に充血した目でジッパーをはたと見据えている。その様子に、ジッパーも気を呑まれたように口を噤んだ。
――不穏な空気になってきたかも……?
俺は固唾を飲んで2人の先輩の顔を窺った。